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子供の食事が終わった後で、香穂子はようやく自分の食事をする。 吉羅は、その様子を神経質そうな瞳で見ていた。 香穂子の動きを隅々まで監視するかのように見ているのが気に入らない。 香穂子は手早く食べ終わると、吉羅を見た。 「交渉決裂です」 「いいや。交渉継続だ」 吉羅はキッパリと言い切ると、獲物を狙う獣のような瞳になる。 「私はあなたから援助なんて受けないし、あなたが父親として名乗る資格はありません」 声が震える。 吉羅暁彦相手に冷静でいられる人間なんて、そう数は多くない。 尊大で暴君な経済界の皇帝には、誰も逆らえない。 香穂子は兵糧攻めをされているような気分になりながら、溜め息を吐いた。 「香穂子…」 甘い声で名前を囁かれて、香穂子はこころが揺れるのを感じる。 「君はまだまだヴァイオリニストとしては駆け出しだ…。…空白時間もある。収入も子供を育てるには大変な額だろう…。実家暮らしだとはいえね…」 「そこまで調べたのね。人権侵害」 「君のパトロンになるために当然のことをしたまでだ…。…だが私は、君が子供を…私の子供を育てているとは、思わなかった…」 吉羅は苦しげに呟くと、真っ直ぐ香穂子を見つめてくる。 「…香穂子、一緒に住まないか? 子供の教育上、良くないと思う。この状態ではね…」 香穂子は力なく首を横に振る。 吉羅暁彦の魅力は相変わらず素晴らしくて、香穂子は抗うことすら出来ない。 息が乱れてしまい、どうしようもないほどに苦しかった。 「君の態度がいくらかたくなでも、私は法的に訴えてでも、君達を手に入れる。覚悟しておきたまえ」 「…吉羅さん…」 香穂子は唇を噛んだ。 吉羅が法的手段に訴えれば、香穂子など一溜まりもないことぐらい解っている。 吉羅は財力で捩じ伏せてしまうだろう。 頭がくらくらする。 話し合いを継続するしかないだろう。 そのまま、いつもの気紛れで興味を失ってくれれば良い。 興味がないとあっさり言ってくれるまで、辛抱強く待てば良いだろうか。 かつて自分が棄てられた時のように、興味がなくなってしまえば。 我が子だから、ひょっとしてかなりの執着心があるかもしれない。 「…分かりました。話し合いには応じます。ですが、私に関しては慰謝料だとかそんなものはいりません」 香穂子は震えながら、吉羅に冷たい視線を向けると、唇を噛んだ。 「有り難う。話し合いを受けてくれるのは嬉しい。だが、私はあくまで君達ふたりを手に入れる。それだけだ」 吉羅は力強く宣言すると、香穂子のこころの奥深くを見透かすような視線を向けて来る。 魅力的な瞳に、香穂子はおかしくなってしまいそうだった。 愚かにも吉羅に恋をしていた頃を思い出してしまう。 あの頃は誠実な男性だと思っていた。 あんなしっぺ返しを受けるとは思っても見なかったが。 「さてと行こうか」 「はい」 香穂子は息子を抱っこすると、吉羅の後を着いて行く。 三人が愛で結び付いていたならば、これ程素敵なことはないだろう。 こうして歩いていると、輝かしい家族だと傍からは見えるだろうから。 車に乗り込むと、吉羅は振り返る。 「これが私のプライベートな携帯電話番号だ。何かあればすぐに連絡をして欲しい」 吉羅にメモを渡されて、香穂子は惨めな気分でその番号を見つめる。 付き合っている時には、渡されなかった番号だ。 「どうしたのかね?」 「…子供がいるなら、プライベートな番号を教えて貰えるんですね…」 皮肉に取られるだろう。 別にそれでも構わない。 吉羅の精悍な頬が僅かに震えて、不快に感じていることがすぐに分かった。 「…何かあれば連絡をします」 香穂子は電話番号を受け取りながらも、こちらからは電話はしないと思う。 「…君の新しい携帯電話番号を頂けないかね? 勿論、プライベートの」 「プライベートも、仕事用の区別は、私にはないです」 香穂子は苦々しく呟くと、携帯電話番号をメモに描きなぐった。 「どうぞ」 「有り難う」 吉羅は電話番号のメモを受け取ると、早速自分の電話に登録している。 吉羅は直ぐに香穂子に電話をかけてきた。 コールだけで直ぐに切れる。 「…これで、いつでも君に連絡が取れるね…」 「…そうですね…」 香穂子は少しばかり重い気分になりながら、小さな子供の手を握り締めた。 「さてと、以前のようにドライブはいかがかな? お嬢さん」 以前と同じように言うと、吉羅は眩しい程に魅力的な笑みを浮かべる。 「…結構です」 「くるまっ!」 香穂子が断ったというのに、息子がはしゃいでいる。 車が好きなのは、きっと両親とも好きだからだと思った。 「この子は車が好きなようだね?」 「大好きですよ」 最初に覚えた外車の名前がフェラーリだなんて、口が裂けても言えない。 「フラーリ!」 「君はこの車が何か解るんだね。どうかね、私の横に座らないかね?」 「しゅわるー!」 「あきちゃんっ!」 息子ははしゃいで手足をジタバタさせている。その姿に、香穂子は苦笑いをした。 「乗りたいと言っている。チャイルドシートを移動させよう」 吉羅は運転席から降りると、後部座席にあるチャイルドシートごと息子を連れていく。 きっとこれは気紛れなのだ。 吉羅特有の。 香穂子は溜め息を吐くと、息子に声を掛けた。 「良かったね、あきちゃん」 香穂子が柔らかい声で言うと、本当に嬉しそうに手足をバタバタさせた。 「香穂子、この子は車が好きなのか?」 「大好きよ。だって最初に覚えたのが…何でもないです…」 香穂子は口を噤むと、シートに背中を預けた。 子供は、まるでコックピットのような運転席を見つめながら、瞳を輝かせている。 可愛いと思いながらも、少しだけ切ない。 やはり紛れもなく吉羅の子供であることを見せつけられている。 「香穂子、君は今日は休みなのか?」 「はい、お休みです」 「そうか」 吉羅はハンドルを切ると、湾岸線に乗る。 かつて香穂子が付き合っていた(一方的にそう思っていただけかもしれないが)頃、吉羅がよくドライブをしてくれたルートだ。 湾岸線を走り抜ける様子を、子供は本当に嬉しそうに見ている。 「たのちー! かっこいー」 「毎日でも乗りたいかね?」 「うん」 息子の言葉に、香穂子は頭が痛くなってきた。 毎日車に乗るということは、吉羅とずっと一緒にいることにほかならない。 かつての香穂子はそれを願ったが、今の香穂子はそうじゃない。 それを願ってはいない。 もう二度とあんな思いはしたくないという気持ちが、香穂子にはかなり強かった。 「出来たら私も毎日この子を車に乗せてあげたいけれどね」 「それは無理です。ただでさえ、吉羅さんはかなりお忙しいじゃないですか?」 「スケジュールなんてどうにかなるものだよ」 吉羅はクールに言い切ると、燥ぐ息子に目を細めた。 吉羅にとっては初めての家族で、かけがえのない息子だから愛しいのだろう。 母親が何処の誰だろうが、そんなにも関係ないのかもしれない。 湾岸線をぐるりと回るだけのドライブだと思っていたのに、俄かに様相がおかしくなる。 吉羅は、現在の住まいがある高層ビル郡の一角にある高級マンションの駐車場で、車を停めた。 「あ、あのっ!」 「少しゆっくりして行きたまえ」 吉羅はさらりと言うと、一方的に息子を抱き上げて歩いていく。 香穂子は仕方なく着いていくと、やがて吉羅の自宅へと足を踏み入れた。 「香穂子、君と息子には、私が良いと言うまでここにいて貰う」 吉羅の言葉に背筋が震える。 罠に掛かった。 |