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吉羅は冷めた目で香穂子を見つめて来る。 香穂子は華奢で心許無い躰で、胸を張る。 「犯罪だわ」 「…君がきちんと話し合いに応じるならば、解放して構わない。それと、私と定期的に逢うことを承知してくれれば…。悪い条件ではなないはずだがね」 吉羅と定期的に逢うなんてことは、香穂子には考えられない。 そんなことをしてしまえば、必死で閉じ込めた恋心が溢れ出てしまうのは解っていたから。 「…吉羅さん…」 血が滲む程に唇を強く噛み締めると、香穂子は俯く。 「…この子に逢いたいからですか…?」 「それもあるが…、私はどちらかと言えば、君と逢って話をしたいのだがね…。ヴァイオリンを以前のように、側で聴きたいと思っている…」 「それは嘘でしょう…?」 「いいや。今すぐ聴きたいと思っているよ」 吉羅はさらりと髪を揺らせて頭を横に振る。その仕草がとても魅力的だと思い、香穂子は真っ赤になってしまった。 「ヴァイオリンは今持っていませんし…」 「ヴァイオリンならあるよ。君が置いていった、ヴァイオリンが…」 吉羅は苦々しく呟くと、クローゼットからヴァイオリンケースを出し、それを香穂子に手渡す。 「…弾いてくれないかね?」 吉羅にヴァイオリンを差し出されて、香穂子は思わずそれを受け取る。 震える手でヴァイオリンケースを開けると、懐かしいヴァイオリンが出てきた。 懐かしいヴァイオリン。 香穂子が弾いたことがあるものでは、最も高価なものだ。それを手に取り、香穂子は夢中になって音を確かめる。 ヴァイオリンは定期的にメンテナンスがされていたようで、音は全く狂ってはいなかった。理想の保管がされていたと言える。 「…どうして…」 香穂子はヴァイオリンを片手に吉羅を見上げる。 「君がいつでも私の側に帰って来られるように、いつも良い状態にメンテナンスをしていた…」 「吉羅さん…」 「弾いてくれないか?」 吉羅の何処か寂しいまなざしを拒否することなんて出来ない。 香穂子は頷くと、ヴァイオリンを奏で始めた。 子供に子守歌として聴かせている、シューベルトの子守歌。 吉羅は目を深く閉じて、静かにしている。 息子はと言えば、無邪気に吉羅の横にちょこりと座っていた。 こんなにもふたりは似ている。 誰がどう見ても、吉羅の息子だと解るはずだ。 香穂子は柔らかく澄んだ音色を、ふたりに語りかけるように弾いた。 奏で終わると、吉羅は静かに目を開けた。 「…コンサートでも思ったのだが…、君の音はより大きく誰かに語りかけるような優しく温かなものになっていると思った…」 「少しは成長したでしょうか?」 「かなりね」 吉羅はそれを認めるように、深く頷いた。 「…一緒に住んでいる男というのは、この子のことかな?」 香穂子は頷きそうになる。香穂子は歯を食いしばって、吉羅を見上げた。 「言えません。そんなことはあなたには関係がないんじゃないでしょうか?」 「…関係があると言ったら?」 吉羅はこちらの背中が恐怖の余りに震え上がるような視線を向けて来る。 そんな視線には怯まない。 子供は香穂子にとっては何よりもの宝であるから。 「…私の息子の父親を、他の男が名乗るのは許さないからね…。しかも息子の父親と名乗る男があちこちから取換えひっかえ出て来るのも困るからね」 吉羅の言葉に、香穂子は呼吸が止まりそうになった。 殴られたような気分になる。 「…そんなことはないわ。あなたに渡したら、それこそ、この子の母親が定まらなくなるもの。そちらのほうが私はかなり問題だと思うけれどね」 「言ってくれるじゃないか…」 吉羅の瞳が、香穂子をそのまま焼き殺してしまうのではないかと思う程に、瞳に怒りの冷たい炎を燃やしていた。 「…だから、私たちが揃って彼の親になることが、ベストだろうね…」 「…吉羅さん…」 出来ることならば首を締めてやりたいと思う程に憎らしい。 それが深い愛情の裏返しであることを、香穂子は解っていた。 「…吉羅さん、愛し合わない両親がいることほど、子供にとっては不幸なのはお解りですか?」 吉羅は皮肉げにスッと目を細めると、頬を強張らせる。 「解ってはいる。だが、父親が次々にかわるよりも良いんじゃないかね?」 吉羅は香穂子をふしだらな女だというレッテルを貼っている。 胸が痛い。 こんなにも苦しいのは、どうしてだか解っている。 「…吉羅さん、お言葉ですが、あなたのほうが子供の環境に悪いのは解っていますか?」 吉羅こそかなりのプレイボーイで、ふしだらな男だ。そう思い込みたかった。 「…私のほうが…彼を経済的に幸せにしてあげられると思うがね? 違うかな」 吉羅に痛いところを突かれて、香穂子は黙り込むしかなかった。 香穂子はまだまだ駆け出しのヴァイオリニストだ。これに対して吉羅は、日本はおろか世界の経済界を動かしているといわれている、やり手の証券トレーダーであり、幅広く事業を展開する実業家であり、ヘッジファンドのオーナーであり、香穂子の息子の父親だ。 普通なら父親と暮らすほうが幸せだと、判断されてしまうだろう。 それに比べて、香穂子は殆ど何も持たない。 ただ、愛情だけは、吉羅以上に強いものを持っていると信じている。 それしかない。 「私たちが彼の両親になるのは、とても合理的だと思うのだがね」 吉羅はあくまで譲歩しない様子だ。 経済界で、吉羅を敵に回したくないと思っている人間が殆どだ。 だが香穂子は吉羅を敵にしなければならない。 子供と自分を守るためには致し方がないと思っていた。 「話し合おう、香穂子。私の提案は悪くないと思うがね。君と一緒になってこの子を育てる」 今までずっとそうなれば良いと思っていた。 だが、冷えたこころを持った吉羅と、愛のない結婚を耐えることが出来るのだろうか。 それが一番引っ掛かる。 「とにかく、君には選択の余地は余りないと思うがね」 法的手段に出られれば、かなり厳しい闘いになることは解っている。 香穂子は息苦しくなりながら、吉羅を真っ直ぐ見つめた。 「話し合いには応じます。私にとってのベストは、あなたが私たちの世界から消えれば良いだけ…。認知もいりません…」 吉羅の瞳が鋭く光り、香穂子を睨み付ける。 視線が凶器になりうることを香穂子は改めて感じる。まともに見ていれば、ズタズタに切り裂かれてしまうだろう。 「暁慈は私の子供だ。二度とそんなことは言わないでくれたまえ」 吉羅のピシャリと響く容赦ない物言い、香穂子は俯いた。 「…私に非があるのは解っている…。君が冷静に愛情深くなれば…、あの時のことをきちんと話すことが出来るだろう」 「今も冷静です!」 「…いや…。冷静じゃない。落ち着きなさい。かつての君を探せなくなる」 「充分に落ち着いています」 「…いや…」 吉羅は頭を横に振ると、香穂子の頬を滑らかに撫で付ける。 「話し合いを抜きにして、また、逢いたい」 吉羅の瞳が僅かに解けて甘くなる。 その瞳が吸い寄せられるように魅力的で、香穂子はくらくらしてしまう。 「…解りました。また逢いましょう。お約束します…」 吉羅に優しく見つめられると、あの頃と同じように蕩けるような想いを滲ませてしまう。 香穂子は必死でそんな想いを振り払おうとする。 「…今日は送る。だが、いつでも君と暁慈がここに越して来られるようにしておく」 「あり得ないわ」 「あり得る。私はそのためにはどのような努力も惜しまないよ」 結局、吉羅は素直に香穂子を家まで送ってくれた。 かたくなな香穂子に精一杯の譲歩をしてくれたのだろう。 別れ際、吉羅は香穂子を見上げる。 「…私は君の本当の姿を探し出すつもりだよ」 甘く囁かれた声に、香穂子はときめきすら覚えていた。 |