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久々の土曜日の休みに、香穂子は子供を連れて公園に来ていた。 あれから吉羅からの連絡はない。 こちらから連絡することもないだろうと思いながら、香穂子は何処か失望感を抱いている。 子供を連れてお昼を食べに帰ろうとすると、吉羅が現れた。 相変わらず私服でも、若き成功者の威厳を滲ませている。 香穂子がもごもごと挨拶をすると、吉羅は薄く笑った。 「香穂子、昼食にでも行かないか?」 ここで拒むことはないだろう。 香穂子は軽く頷いた。 「解りました。お昼を食べに行きましょう」 「有り難う」 吉羅は、香穂子に手を引かれている暁慈を見るなり、その視線に合わせる。 「くーまのおじちゃん」 暁慈は吉羅のことを覚えていたようで、にっこりと笑う。 吉羅はその笑顔にハッとさせられたのか、愛しい者を見るような目付きになった。 「そうだ。今日も車で来たよ。乗せてあげるよ」 「うれちっ!」 暁慈は飛び上がって喜ぶと、吉羅に手を差し延べた。 小さな、だがきちんと意思を持った瞳を真っ直ぐ向けている。本能で、父親だとかぎ分けているのだろうかと、香穂子は思わずにはいられない。 吉羅は子供の扱いに慣れてはいないのか、少し困惑しているようだった。 「手を繋いであげて下さい。あなたと手を繋ぎたがっていますから」 「ああ」 吉羅がぎこちなく手を差し延べると、暁慈はしっかりと握り締めてきた。 吉羅に対して信頼を寄せている証拠だ。 吉羅の表情が柔らかな冬の太陽のように温かなものになることを、香穂子は見逃さなかった。 吉羅は確実に暁慈を我が子だと認めてくれている。 それが香穂子にとっては何よりも嬉しくて堪らなかった。 三人で手を繋いで、吉羅のフェラーリまで歩いていく。 「チャイルドシートを買ったんだ。…暁慈のために」 吉羅の言葉に、香穂子は些か驚いく。まさか、息子のためにここまでするとは、思っても見なかった。 吉羅は跡継ぎが欲しいと考えているのだろうか。 香穂子は少しの不安と、少しの希望を胸に秘めながら、落ち着いた笑顔を吉羅に向けた。 「有り難う」 フェラーリのドアを開けると、助手席にはチャイルドシートがきちんとセットしてあり、香穂子はそこに息子を乗せてやる。 吉羅の横が一番喜ぶだろう。 それに香穂子にとっても高い砦が出来るのが嬉しかった。 フェラーリに乗り込むと、吉羅はサングラスを掛けてハンドルを切る。 「水族館に行かないか? この子も喜ぶだろう。八景島あたりで良いかな?」 「はい。お願いします」 そういえば最近は近くの公園ばかりだった。 流石にこれでは申し訳ないと、香穂子は思っていた。 駆け出しのヴァイオリニストだから、思ったような収入を得ることが出来ないし、ふたりで食べていくにはかなり厳しい。 なのに仕事だけが忙しい状態が続いていて、香穂子は歯痒さを感じていた。 だから吉羅の申し出はとても嬉しかった。 いつも辛い想いをさせているから、せめてたまには子供が喜ぶような場所に連れていってあげたかった。 「昼は何が食べたいかな?」 「ミートスパッとバーグっ!」 「君はそればかりだね」 吉羅はおかしそうに笑うと、息子を愛情が滲んだ笑みで見つめる。 「ちゅきだから」 「海老フライの美味しいところがあるが、そこでも構わないかな?」 「おいちい?」 「美味しいよ」 「じゃあそれ!」 「だったら決まりだね」 吉羅は子供の髪を柔らかに撫でる。 その指先の動きを見て、香穂子はときめく余りに胸が痛くなるのを感じた。 かつて香穂子もこうして吉羅に髪を撫で付けて貰っていた。 そこから沢山の愛情を感じていたのを思い出す。 懐かしくもあり、何処か切なかった。 吉羅にとっては、もう女としての愛情は香穂子にはないのだろう。 ただ子供の母親としての香穂子が欲しいだけなのだから。 それを知っているからこそ、ほんの少しだけ切なかった。 吉羅が連れていってくれたのは、新鮮な魚貝を食べさせてくれる店で、子供も楽しんで食べられるような配慮がされていた。 以前の吉羅ならば、決してチョイスはしない場所だ。 明るい海を反射した陽射しが入ってくる開放的なレストランだった。 香穂子は子供と同じものをいつものように頼む。 「サラダとかは食べるのか?」 「食べますよ」 香穂子が頷くと、吉羅は息子をちらりと見た。 「今日は私が食べさせても構わないかね? まだ下手くそだから、君に迷惑を掛けるかもしれないが…」 「こちらこそお願いします。どうぞ食べさせてあげて下さい」 「有り難う」 料理が運ばれてきた後、食べさせるのに苦労しながらも一生懸命な吉羅を、香穂子はじっと眺めていた。 こころがほわほわと暖かくなる。 ずっとこうした家族を夢見ていた。 吉羅と別れて、ひとりで子供を産んでから夢見ていた。 それが今、現実てして叶っているのが、香穂子には不思議でしょうがない。 「おいち! こえちょうだい」 「待っていろ。これだね」 「うん」 ふたりは何処から見ても、愛情で結ばれた親子だ。 たとえ父親が母親を愛していなくても、それは事実だ。 急速に親密さを深めていくふたりを見つめながら、香穂子はふたりの仲を裂くことは出来ないと悟っていた。 香穂子が殆ど食べ終わっても、吉羅はまだ子供と格闘している。 これが気紛れでなければ良いのに。永続的に続けば良いのにと、思わずにはいられなかった。 「吉羅さん、ご飯は召し上がられないのですか? 後は私が引き受けますから」 「そうだね。では交代しようか」 「はい」 香穂子が今度は代わって息子の世話をする。 「しかし手慣れたものだね。子供の世話がこんなにも大変なものだとは知らなかったよ」 「私も最初は全く駄目でした。慣れたんですよ」 「大変だったんじゃないかね?」 「確かに…。ですが、家族が助けてくれましたから、何とか頑張ることが出来ました」 香穂子の言葉に吉羅は表情を歪ませる。その瞳には苦痛が浮かんでいた。 「これからは…私も協力をしたい…」 「…ずっと協力して下さったら、嬉しいですけれども…」 香穂子は吉羅を真っ直ぐ見ずに、僅かに目を伏せた。 「勿論、君が許してくれるのならば、沢山協力をしたいと思っているよ…」 「有り難うございます…」 香穂子は複雑な気分になる。もし、このままずっと暁慈の父親としての役目をしてくれるのならば、これ以上に良いことはないだろう。 だが一度手痛い裏切りを受けている以上、香穂子は素直にはなれなかった。 「あなたが長い間誠意を見せてくれれば良いですが、子供は玩具ではありませんから、途中で投げ出せないですから。それが私のなかで見えたら…」 「君のハードルは厳しそうだね。だが、私は乗り越えてみせるよ」 吉羅は自信に満ちた瞳を浮かべると香穂子を捕らえるように見つめてきた。 「さて、食事も済んだし、八景島に行こうか」 「そうですね」 香穂子が同意をすると、吉羅は直ぐに会計を済ませて、車まで息子と手を繋いで向かった。 暁慈は再びフェラーリに乗れたことを興奮しているのか、かなり燥いでいる。 「あきちゃん、お魚さんいっぱい見られるからね 「うれちい」 沢山の魚を想像してか、暁慈は益々興奮している。 香穂子はそんな息子を見守るように見つめると、こころが温かい気分になった。 八景島シーパラダイスに着くと、暁慈の興奮は頂点になる。特に大きな水槽を見ると、まるで夢の世界にいるかのような顔をした。 「ちれい! も、もっと、みたいっ!」 もっと高い位置で見たいのか、暁慈は一生懸命背伸びをする。 吉羅はフッと微笑むと、息子を軽々と抱き上げた。 「…うわあっ! おしゃかなさんいっぱい! 高いよー」 吉羅の腕にしっかりと抱かれて、暁慈は海の世界に夢中になっていた。 「しゅごいね、おじちゃん」 「…そうだね…。だけど暁慈…おじちゃんではないよ私は…」 吉羅はそこまで言ったところで、言葉を飲み込む。吉羅は自分が父親だという言葉を飲み込んだのだろう。香穂子は吉羅が父親だと名乗りたがっていることに、気付いていた。 |