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イルカやアシカのショーを三人で見る。 暁慈は手を叩いたり、吉羅と香穂子を見て楽しそうに笑ったりする。 こんなにもこころ安らぐ幸せがあったのだと、吉羅は初めて知った。 ついこの間までは全く知らなかった温かさだ。 かけがえのない温かさを、もう離したくはない。 どんなことをしてもふたりを手に入れたい。 それには、香穂子のこころを溶かさなければならない。 ショーが終わった後、暁慈は疲れたのか目を擦って眠たそうにしている。 暁慈は吉羅に甘えるように躰を擦り寄せてきた。 愛しい温もりに、吉羅は思わず目を細めた。 「抱っこをしてあげて下さい。少し重いかもしれませんが…」 「解った」 吉羅は息子を抱き上げると、その背中を撫で付ける。 こうして息子との触れ合いをずっと出来ずに損をしていたのが、ほんの少し切なかった。 吉羅は柔らかな息子の躰を愛しく抱き締めながら、寝顔を眺める。 本当によく似ている。 母親である香穂子には殆ど似てはいなかった。 「今日は有り難うございます。吉羅さんにこうして連れて行って頂けたお陰で、この子も凄く楽しんだようです。有り難うございます」 香穂子はあくまで他人行儀の振る舞いをしている。 以前のように明るく純粋な振る舞いを取り戻したかった。 車まで来ると、吉羅は息子を乗せて、運転席に乗り込む。 「香穂子、ドライブをしてから、夕食に行かないか?」 もう少しふたりと一緒にいたい。 もう少しふたりを見つめていたい。 不意にプライベートで使用している携帯電話が鳴り響き、吉羅は着信相手を見る。 最近、それなりに付き合っている女だ。 電話に出てしまえば、それでこの温かな時間は消え去ってしまう。 吉羅はわざと出なかった。 「…吉羅さん、電話が鳴っています」 「良いんだ」 「だけど…」 余りに香穂子が出るように促すものだから、吉羅はうんざりしたように溜め息を吐いて電話に出た。 「…ああ、君か…。済まないが立て込んでいるんだ。悪いがパーティには参加出来ないよ。ああ、他のひとを誘ってくれたまえ。では」 吉羅は固い声で淡々と呟いた後で電話を静かに切った。 「…良かったんですか? お誘いに乗らなくて」 先ほどまで少しは柔らかくなっていた香穂子の態度が、硬化するのが解る。 「…構わない。大したパーティではないからね。言わば気晴しだ」 「随分と沢山の気晴しを持っていらっしゃいますね」 香穂子の皮肉げな声に、吉羅はうんざりとしたように溜め息を吐いた。 「…今までの話だ。君と息子がそばにいてくれれば、そんなことはしない」 「そんなことはあり得ないと思います。公園の前で下ろして下さい。今夜は一緒に過ごせませんから」 香穂子はキッパリと言い切ると、表情を固くさせた。 これは辛抱強くいくしかない。 香穂子がこのような態度を取ってしまう原因は、自分にあるのだから。 「…解った。公園まで送ろう」 「有り難うございます」 香穂子はホッとしたのか解らないが、呼吸を大きくした。 車を公園の前に停めると、香穂子は息子をしっかりと抱き上げる。まるで吉羅から守るように。 「それでは今日は有り難うございました」 香穂子が堅苦しく頭を下げた後、吉羅は軽く溜め息を吐く。 「…また、三人で逢おう。それと、話し合いもじっくりしなければならないからね」 吉羅の言葉に、香穂子は血が滲んでしまうのかと思う程に、唇を強く噛み締めた。 吉羅は車を静かに発進させ、横浜の闇に沈んでいく。 香穂子と息子のことだけを想いながら。 家に帰ると、香穂子は溜め息を吐いて、うなだれるように自室に座り込んだ。 吉羅にあんなにも冷たくしてしまったことへの後悔が残ってしまう。 未だに派手で堕落した世界を楽しむ吉羅が、許せなかった。 嫉妬もあったかもしれない。 当たり前のように吉羅の横にいてニッコリと微笑む女性に対して、香穂子は嫉妬しか出来なかった。 自分がもう愛されていないのは解っている。 自分の息子を産んだ女として見ているだけだろう。 認知は望めばしてくれるだろうし、援助もしてくれるだろう。 だが、吉羅にこころから愛するひとが出来た時に、そのひとが子供を産めば、暁慈への興味は失われてしまうだろう。 それが香穂子には何よりも辛いことだった。 子供がそのことで一番傷つけられるのは解っていたからだ。 だから香穂子は、受け入れることは出来なかった。 息子と自分を守るためには、それしかないのは解っていたから。 香穂子は満足そうに眠る息子の頬を撫でる。 「…ごめんね。あなたにはずっとお父さんをあげられないみたいだよ…」 香穂子は切なさを噛み殺しながらそっと呟いた。 小さなパーティの演奏依頼があり、香穂子は受けることにした。 財界のパーティだが、クラシック好きが集まるとのことで、何人かとアンサンブルを組んでの出演だ。 BGM代わりにクラシックを使うなんて、なんて贅沢なのだろうかと香穂子は思う。 こんなに贅沢は恐らく他にはないだろう。 香穂子はアンサンブルを心地好く演奏しながら、楽しんでいた。 吉羅暁彦の顔を見るまでは。 今日は珍しくひとりでパーティに来たらしく、様々な人物と談笑していた。 香穂子は無視をするようにしていたが、吉羅の艶やかな男らしい存在感は、遠くにいてもこころに強く響いてくる。 そこからは演奏を全く楽しむことが出来なくなってしまっていた。 ようやく演奏が終わり、慌てて片付けていると、吉羅の強いオーラを背中に感じる。 「日野君、片付けが終わったら送ろう」 「大丈夫です。今日はタクシーチケットを切って頂けているので」 「良いから送る」 「本当に構いませんから」 香穂子がかたくなに拒んでも、吉羅はそんなことでは怯まない。 不意に吉羅の知り合いだろう、重厚な雰囲気の紳士が肩を叩いて来た。 「…吉羅君! 少し来たまえ! 紹介したいひとがいるんだ」 「日野君、待っているんだ。良いね」 吉羅は命令するように言うと、呼ばれた方向へと歩いて行く。 そこには品の良い大変美しい女性が微笑んでいた。 きっと妙齢な吉羅にお相手と紹介しているのだろう。 明らかに吉羅に似合いの女だ。 香穂子と違って、家柄も学歴も申し分ないのだろう。 以前吉羅に言われた言葉が胸に響き、香穂子はその場にいられなくなる。 吉羅はあの時の言葉を覚えているのだろうか。 香穂子が徹底的に絶望を感じた言葉を。 香穂子は吉羅に背中を向けると、主催者に丁寧に挨拶をしてその場を辞した。 吉羅とは住む世界が違うのだと、感じずにはいられなかった。 タクシーに乗って家に向かっていると、携帯電話が鳴り響いた。 吉羅だ。 香穂子はそのままやり過ごそうと出なかったが、吉羅はコールをし続ける。 運転手にも奇妙な目で見られてしまい、結局は出るしかなかった。 「…はい、日野です」 「…私だ。香穂子。どうして勝手に帰ったんだね?」 吉羅の厳しい声に、香穂子は震える。 このひとの声は、なんて威力があるのだろうと、思わずにはいられない。 「…息子が待っているので、早くおやすみを言ってあげたかっただけです。急ぎますから」 香穂子が電話を切ろうとするとつかさず「待ってくれ」と声を掛けられた。 「何でしょうか?」 「また君たちに逢いたい…」 「あの子に逢う権利はあなたにはあるから…お逢いしても構いませんが」 「権利とか関係ない。土曜日の朝に迎えに行く。公園で待ってくれていたまえ」 「…吉羅さん…、解りました」 香穂子はそれだけを言うと電話を切る。 胸が甘く疼いた。 |