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土曜日の朝、約束通りに香穂子は吉羅を待った。 息子はまた車に乗れるのだと期待しているらしく、かなり燥いでいる。 約束の時間きっかりに吉羅がやってきて、香穂子はらしいと思った。 「待たせたね、ふたりとも車に乗りたまえ」 「有り難うございます」 香穂子は息子を助手席に乗せて、自分は後部座席に乗り込む。 あくまで護身用だ。 余りに吉羅のそばにいってしまえば、甘い感覚に我を忘れてしまいそうになるから。 それだけは避けなければならない。 吉羅とはもう恋はしないと決めたのだから。 吉羅とはもう深みにはまりたくない。 香穂子は後部シートに躰を預けながら、呼吸が過去を思い出しているのを感じていた。 吉羅は車を運転しながらも、息子によく気遣ってくれる。それはとても嬉しいことではあるが、もし、自分と 同じように、息子が捨てられてしまったら。 きっと大きなこころの傷が出来るだろう。 だから本当はあまり触れ合わせたくない。 なのに、吉羅の優しさを見ていると、今度こそは深い愛情なのだと、勘違いをしてしまう。 だからお願い。 こんなにも優しくしないで欲しかった。 「香穂子、君は確か、海を見るのが好きだったね。海に向かっているよ」 「有り難うございます。ですが話し合いは何処でも出来た筈ですが」 「…君が大好きな場所に連れて行きたいだけだよ」 吉羅の言葉に香穂子は黙り込む。 また甘酸っぱい感情が競り上がってきて、泣きそうになった。 吉羅への恋心が残照のように残っている。それがやがて夏の朝日よりも輝かしくなることを否定することは、香穂子には出来なかった。 吉羅は温暖な三浦半島まで車を走らせて、海岸近くの駐車場で停めた。 「バケツだとかスコップだとかは持ってきた。初めて出会った時に、楽しそうに砂場で遊んでいたからね。海岸で遊ばせたいと思い付いたんだよ」 「…有り難う。喜びます、とても」 吉羅は暁慈を離そうとはせずに、片腕で軽々と抱き上げて、片手でバケツとスコップを持つ。 「さあ遊びに行こうか、オチビサン」 「オチビじゃないっ。あきちゃんだもん」 「じゃあ暁慈…」 吉羅が名前を呼ぶと、本当に楽しそうに笑う。 すっかり吉羅に夢中になってしまっている。 暁慈は砂浜に下りるなり、バケツとスコップを片手に一生懸命掘り始める。 香穂子はスニーカーを脱いで裸足になると、暁慈のそばに寄った。 カジュアルだとはいえ、かなり高級なものを身に着けている吉羅には、似合わない遊び場だ。 吉羅暁彦が、裸足で海岸を駆け抜けるなんて考えられない。 「あきちゃん、お山を作ろうか。ママ、砂でお城を作るほどのセンスはないから、お山かなあ」 「山崩し!」 「じゃあ山崩しをしようか」 「ん!」 ふたりで砂を使って山を作っていると、吉羅が靴を脱ぎ捨て、裸足で近付いてくる。 吉羅暁彦のこのような姿を見れば、誰もが驚いてしまうだろう。 「私も仲間に入れて貰おうかな」 吉羅が腰を下ろすと、暁慈は本当に嬉しそうに笑い、甘えるように吉羅を見上げた。 「じゃあ、私と君と君のママで、山崩しをしようか。暁慈、君から行こうか」 「あい」 山の砂をゆっくりと慎重に取るが、小さいので余り取れない。 「じゃあ次は君だ」 吉羅にだけは負けたくないと思い、香穂子は砂を思い切り取った。 最後の吉羅は巧みに大量の砂を取るものだから、香穂子は悔しくてしょうがない。 また暁慈が少しだけ取り、香穂子が続く。 息を呑むような攻防だ。 まるで暁慈の親権争いをしているかのように感じてしまい、香穂子は堪らなかった。 何回かのターンが終わり、暁慈が砂を取った時、中心に刺された棒きれがグラグラと揺らぐ。 香穂子がこの回を上手くやり抜けば、吉羅の負けだ。 香穂子は気合いを入れて、砂を取る。 「…あっ!」 香穂子の前で無残にも棒が倒れて行く。 最悪だ。 「ママの負けー」 暁慈に無邪気に言われて、香穂子はがっくりと肩を落とした。 いつもならば気にならない他愛ない遊びだが、今日は悔しくて悔しくてしょうがない。 「…君の負けだね。罰ゲームだな」 「そんなこと言わなかったじゃない」 香穂子は吉羅を睨み付けたが、彼はどこか楽しんでいるような表情を浮かべている。 全くふてぶてしい男だと思う。 香穂子は頬を大きく膨らませると、ツンと吉羅にそっぽを向いた。 「…狡い…」 「狡くはないはずだがね。罰ゲームは、君が私と暁慈にキスをするっていうのはどうだい?」 香穂子は、全くこの男は何を考えているのだろうかと、真剣に思った。 「…駄目です」 「罰ゲームは必要だろう? ね、暁慈」 「うん。ママはひちゅよだよ」 息子まで丸め込んだ吉羅が、香穂子には憎たらしくてしょうがなかった。 ふたりして香穂子を追い詰めるように見つめる。 視線の配り方がとてもよく似ていた。 このふたりに見つめられて陥落しない女がいたら見てみたいものだと、香穂子は思う。 「…しょうがないね…」 香穂子は覚悟を決めるように溜め息を吐くと、息子を抱き寄せて頬にキスをした。 「はい、おしまいっ」 香穂子はそれで誤魔化そうとしたが、吉羅に腕を掴まれた。 「…あ、あの…」 心臓がそのまま飛び出して走って何処かに行ってしまいそうなぐらいに、ドキドキしてしまう。 吉羅に近寄られるだけで、目眩がするほどの香りを感じていた。 頬にキスをするだけだというのに、どうしようもないぐらいに緊張してしまう。 「罰ゲームだよ」 「…はい…」 吉羅の頬にキスをするなんて、いつぶりか解らない程だ。 香穂子は目を強く閉じると、そっと吉羅の頬にキスをした。 「…え…?」 香穂子が吉羅の頬から唇を離そうとしたのに、いつの間にか唇がずれて、吉羅の唇と重なってしまう。 以前のように濃厚で深みのあるものではなかとたが、唇を重ねるだけでも、充分に官能的だった。 まさか唇にキスをするなんてことは、香穂子はもうあり得ないと思っていたというのに、吉羅は何時しか香穂子を抱き寄せるようにキスをしてきた。 唇を離された後も、吉羅に抱き寄せられる。 「この罰ゲームはなんて楽しいのだろうかね」 「…大っ嫌い…」 息子の手前、吉羅を殴ることが出来ない。 香穂子が思い切り睨み付けると、吉羅はおかしそうに含み笑いを浮かべている。 「君に嫌われると困るけれどね」 吉羅は冗談なのか真剣なのか、香穂子には全く解らない調子で言う。 今日の吉羅はとても温かくて、いつもの冷徹さを感じられない。 子供と遊んでいる姿は、理想の父親にしか見えない。 「おじちゃん、毎日あちょびたいっ!」 「そうだね。私も出来れば毎日君と遊びたいよ」 暁慈は神妙に頷くと、香穂子に懇願するように見つめる。 だがその願いは聞いてやれない。 「…ごめんね、あきちゃん…。それは叶えてあげられないよ…」 香穂子は困ったような表情を息子に向けると、視線を合わせる。 「吉羅さんはお忙しい方なの。あきちゃんと遊んでばかりはいられないのよ」 「しょっか…ちらさんはじいちゃんよりも忙しいの?」 「じいちゃんよりずっと忙しいのよ」 「ちょっか。ちんじゃうんだね」 「どうしてそうなるんだ…」 吉羅は苦笑いをすると、香穂子を見つめる。 「君さえ良ければ叶うはずだ。違うかね?」 吉羅は香穂子に決断を促すような深い光を宿した瞳を見つめてくる。 「…それは、暁慈の成長を見守る責任を持たないといけないのよ…」 「勿論、そのつもりだ」 吉羅は言い切ると、香穂子を見つめた。 |