*秘密*

11


 香穂子は黙り込む。
 人ひとりに対して責任を持つということは、かなり重たい決断だ。
 子供が産まれて認知を望まない女性がいれば、それだけで喜ぶ男は世の中にいる。
 子供を作りながらケアをしない親だっているのだ。
 それにも関わらず、吉羅は暁慈に責任を持つと言ってくれている。
 充分だと思わなければならないのかもしれない。
 だが、香穂子は怖かった。
 まだ捨てられた時のイメージを払拭することが出来ない。
 あの時は、絶望をして、死んでしまいたくなった程だ。
 だがお腹にいた暁慈が、その絶望を拭い去ってくれた。
 吉羅を失った痛手を乗り越えられたのは、ひとえに息子のお陰だ。
 絆を深めるかのように戯れるふたりの様子を見つめながら、香穂子は複雑な気分になる。
「香穂子、君次第だ。どうする?」
「…考えさせて欲しいの」
 香穂子の逡巡するような言葉に、吉羅はフッと微笑みながら頷く。
「君らしいよ。少しはきちんと考えてくれるようになってくれたようだ…と、私は理解しておくよ」
 吉羅の深い笑みに、香穂子は鼓動を激しくさせた。
 吉羅の魅力にときめいてしまう自分を、香穂子はこころのなかで自分を窘めた。
「吉羅さん…、この子が哀しむようなことだけはしないで…」
「私がそんなことをするとは思っているのか?」
 吉羅の逞しい頬がひきつっている。
「…それなりにあなたの噂は耳にしていたから…。…その女の人と…」
「マスコミの言うことを信じるのかね。君は昔から頑固だから、ひとつのことを信じてしまえば、それを覆すことをしないからね。勿論、総てが嘘じゃない、それは認めるがね。…私も、聖人じゃないから」
 吉羅の言葉は正直なのだろう。だが、その事実は香穂子にはかなり痛いものだった。
「…そうよね」
 香穂子は溜め息を吐くように言うと、吉羅と息子を見つめた。
 別れた時のことが蘇る。
 今後、あの傷を修復することは難しい。
 香穂子は、目を閉じて、あの頃のことを思い出していた。

 吉羅と出会ったのは、大学生になった直ぐの年だった。
 一人暮らしをしていた香穂子の当時のアルバイト先の楽器店に、吉羅が現れたのだ。
 かつてヴァイオリニストを目指していた吉羅は、今は趣味にしているヴァイオリンの楽譜を見に来たのだ。
 香穂子は年上の吉羅を見た瞬間、呼吸が止まるかと思った。
 吉羅の隙のない理想的な紳士ぶりに、香穂子は憧れのまなざしを浮かべていたのを思い出す。
 何度か話すうちにデートに誘われて、やがて“恋人”関係になった。
 それは香穂子が一方的に思っていただけで、本当はそうでなかったのかもしれない。
 やがて、当時、吉羅が住んでいた高級マンションで一緒に暮らすようになり、香穂子は所謂“囲い者”の扱いを受けた。
 それがどんなに屈辱的なことであったことを、吉羅は知らないだろう。
 吉羅に毎日をコントロールされて、まるで監視されているような日々だった。
 そして、香穂子はまだまだ夢見る少女で、吉羅がそのままいつか結婚してくれるのではないかと、思っていた。
 吉羅の本心を知るまでは。
 公式なパーティにも連れていってくれないことを訝しんでも良かったが、あの頃は、そんなことを考えられないほどに、吉羅に夢中だった。
 どうしようもないほどに夢中だった。
 あの頃はまだまだ子供で、夢見る夢子と言ってもよくて、世界はヴァイオリンと吉羅中心に動いていた。
 総てを捧げても足りないような気分になる程に、吉羅を愛していた。
 あれはテレビを見ていた時だった。
 ふたりでDVDで映画を見ていて、結婚式のシーンが映し出された時だ。
「綺麗ですね、このドレス。私もいつかこんなドレスを着てみたいです」
 純粋にドレスに憬れて、香穂子はうっとりと呟く。
 だが、その瞬間、吉羅の顔色が変わった。
「…結婚かね。私は君とそんなことをするとは思っていないけれどね。君は私の妻になるには若すぎるし、教養も家柄も足りない。そんなことをするよりは、今までと同じ生活を送るほうが、君は幸せだろう?」
 吉羅は冷徹に容赦なく言い放つと、香穂子を柔らかく抱き締めた。
 言葉と行動のギャップに、それこそ卒倒しそうになる。
 こころが冷えて、抉られるような楔を打ち付けられたと、香穂子は思った。
 痛い。
 痛すぎて泣くことも叶わない。
 あの瞬間、香穂子の総ては打ち砕かれた。
 香穂子は冷静であることを演じて、吉羅の腕に素直に抱かれる。
 吉羅に抱かれると冷えたこころは少しは温まったが、それでも傷は消えなかった。
 タイミングが悪かった。
 そうだったかもしれない。
 翌早朝、ニューヨーク株式市場の大暴落が解り、吉羅は仕事に出た。
 数日は戻らないとのことだったが、その日から一週間以上も音沙汰がなくなった。
 香穂子が連絡をしても会社では取り次いでは貰えず、個人携帯に掛けても吉羅は出てくれなかった。
 “忙しい“。
 ただ素っ気無いメールだけを残して。
 連絡がないままやがて二週間ほど経ち、香穂子はようやく棄てられたのだと気付き、吉羅のマンションから出たのだ。
 それから直ぐに妊娠が解り、吉羅に連絡をしようと試みたが、結局は無駄に終わった。
 それだけだ。
 それだけの恋だったのだ。
 大きなお腹を抱えて、思い出のマンションに行ったこともあったが、もうあの場所に吉羅はいなかった。
 香穂子と共に過ごしたことを、跡形もなく消し去るように。

 香穂子は息苦しくなるような気分になりながら、吉羅と息子にまた視線を這わせた。
 吉羅がまたあのように棄てないとは限らないのだ。
 香穂子は唇を噛んだ。
 あんな想いはもう沢山だ。
「ママ、一緒にあしょぼうよ!」
 暁慈に手を引かれて、香穂子は吉羅の前に引き出される。
「そうだね、遊ぼうか」
 香穂子が砂浜に腰を下ろすと、吉羅は薄く笑う。
「こうやって三人で遊ぶのは悪くないだろう?」
「…そうだね。たまには」
 息子の姿を見ると、香穂子は渋々ではあるが認めざるをえない。
「…そうだろうと思うがね。こうしてずっと楽しい時間を暁慈には与えてやれる。勿論、私たちが一緒になったらの話だがね」
 吉羅は香穂子と暁慈を諦めないつもりだろう。
 正確に言えば、暁慈を諦めたくはないのだ。香穂子はあくまでおまけなのだろう。
「彼は非常に賢い子供だね。私も鼻が高いよ」
「有り難うございます。この子が素直に育ってくれているのは、きっとお母さんやお父さん、お兄ちゃんやお姉ちゃんのお陰です」
 吉羅の頬が一瞬強張った。
 認めざるをえないが、認めたくはないのだろう。
「…そうだろうね。だが、これからは私は大いに協力をしていきたいと思っているが」
 吉羅の言葉に、香穂子は答えない。
 以前ならば手放しで喜んだかもしれないが、今はそうできなかった。
 三人で遊びながら、少しずつ少しずつ絆を強めていく。
 暁慈はいつもよりもかなり燥いで、夕方にはすっかり疲れ果てて眠っていた。
 香穂子は息子を抱き上げて、車まで連れていく。
「私に、この子を抱かせて貰っても、構わないかね?」
 吉羅の言葉に、香穂子は強く頷いた。
「有り難う」
 吉羅はまるで壊れ物を扱うように暁慈を抱くと、駐車場まで連れて行く。
「眠ると子供はこんなにも重いものなんだね…。知らなかったよ…。だが、悪くない重みだ…」
「そうです。愛しい重みだと思っています」
「そうだね。こんなに愛しいものはないね…」
 吉羅は頷くと、息子を愛しげに見つめた。
 駐車場に着くと、吉羅は香穂子に暁慈を託すと、チャイルドシートを後部座席に移動させる。そこに暁慈を寝かせるように促した。
「君はこちらに乗るんだ」
 吉羅は命令するように見つめてくると、有無は言わせないとばかりに言った。
「…解りました」
 香穂子が素直に助手席に身をゆだねた瞬間、吉羅は唇を奪ってきた。



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