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キスをされるなんて、思ってもみなかった。 香穂子は瞳を大きく見開くと、吉羅を非難するようにもがく。 だが全く効果はなく、強く抱きすくめられてしまった。 やがてかつてと同じ甘くて巧みな吉羅のキスに、溺れそうになる。 だが、香穂子は理性を掻き集めて抵抗しようとしていた。 だが、感覚が吉羅を隅々まで覚えていて、香穂子は溺れてしまう。 あんなにかたくなに拒絶をしていたのに、躰は吉羅を覚えていた。 唇を離された後、吉羅に抱き締められる。 「…私は君を諦めたくはない。暁慈も諦めない。覚悟をするんだね」 吉羅の掠れた声に、香穂子は酔い痴れてしまいそうになる。 まだこんなにも彼を愛している。 それを思い知らされたようで、ショックだった。 「出来るならば、君と暁慈と三人で暮らしたい。私は、君達を幸せにする」 このまま頷けば、きっと安定と幸せが手に入るだろう。 だが、素直に頷けないのも事実だ。 吉羅への複雑な想いが、まだ理性のかけらに残っているような気がした。 吉羅は、香穂子のこころの奥底に燻る感情を見出したように薄く笑うと、エンジンキーを回した。 「香穂子、今度、クラシックコンサートがあるんだが、一緒に行かないか? 暁慈は小さ過ぎるから連れてはいけないが、私は君とふたりで行きたいと思っている」 暁慈を手懐けた後は、香穂子を手懐けようとしているのだろうか。 穿った考えをついしてしまう。 「…以前はよく、私たちはクラシックコンサートに一緒に行っただろう? だから君とまた親密になれるようにと思ってね」 吉羅の愛撫するような声に香穂子は落ち着けなくて、そわそわとして拳を作る。 かつての蜜月を思い出してしまい落ち着かなかった。 「…君さえ良ければだけれどね。暁慈と三人で遊びに行くというのも、方法のひとつだけれどね」 「…吉羅さん、考えさせて下さい」 「分かっているよ。君には選択の余地を与えよう。かつての私のように、何でも押しつけたりはしないよ」 「…はい」 また胸の奥底が苦々しくなる。 吉羅と過ごした過去の日々が、こんなにも強い影響力があるなんて、香穂子は思いたくはなかった。 車は高速を走りぬけ、都心へと向かう。 「吉羅さん、どちらへ向かうんですか?」 「レストランにね。暁慈も君もお腹が空いているだろうからね」 「有り難うございます」 香穂子は他人行儀に礼を言うと、ぎこちなく礼を言った。 吉羅がギアチェンジをするたびに、逞しい太股が揺れてあたる。 香穂子は意識する余りに、喉がからからになってしまう。 やはり記憶のなかで美化していた以上に、吉羅は艶やかだ。 自分を守るためには、これ以上近付いてはならない。理性が警告をしているのに、本能がそうさせてはくれなかった。 「香穂子、君はいつになったら、素直になってくれるんだ…?」 吉羅は苦しそうに呟くと、ミラーに映る香穂子を見つめてくる。 「これで素直なんです…。申し訳ないですけれど…」 「私にはそうは見えないけれどね…。君が着ている鎧を、力ずくでもはがすつもりだがね」 吉羅の言葉は力強く、かつ香穂子を牽制しているように思えた。 吉羅が本気になればそんなものは直ぐに脱がされてしまうだろう。 簡単に。 レストランに着く頃には子供も目覚めて、何処から見ても温かな夕食の時間を過ごすことが出来た。 表面上は。 ただ吉羅もかなり辛抱強く息子の面倒を見てくれ、香穂子もかなり助かった。 これがひと時の夢でなければ良いのにと思わずにはいられなかった。 車で送って貰い、香穂子は吉羅に礼を言う。 「有り難うございます」 「コンサートのチケットを送付するから、来てくれないかね」 「…考えます…」 「良い返事を期待しているよ。返事がなければ、君はくると思うからね」 「…解りました」 香穂子が軽く頷いて返事をすると、吉羅もまた頷く。 「それではまた」 吉羅は車を出すと、自分が住むべき世界へと戻っていった。 いつかその世界が自分たちの住む世界になるかは、香穂子には解らなかった。 吉羅からクラシックコンサートのチケットが送られて来た。 チケットを確認して仰天してしまう。席は最前列の中央だ。 流石にこの席は、驚いてしまう。 しかも綺麗な文字で“待っている。必ず来て欲しい”と書かれていた。 香穂子のこころは揺れる。 とても素敵な席である上に、吉羅がそばにいる。 三年前なら小躍りしてしまうシチュエーションだ。 だが今は、迷ってしまう。 痛い記憶が完全に消えてはいないから。 それに、暁慈という香穂子にとってはある意味防波堤である子供はいないから。 溜め息を吐いていると、母親がチケットを覗きこんできた。 「あら! コンサートのチケット? 暁慈は見ておくから、たまには見ていらっしゃいよ。最近、コンサートも行っていなかったでしょう?」 母親は屈託なく言うと、香穂子ににっこりと微笑んだ。 「行くってまだ決めたわけではないから…」 香穂子が困ったように呟くと、母親はポンと背中を叩いた。 「…暁慈は私がみておくから。孫と過ごすのも楽しみなのよ。だから行きなさい。誰と行くの?」 「…な、菜美と…」 「菜美ちゃんならジャーナリストだから、顔がきくものね」 「うん、そうなんだ」 咄嗟に嘘を吐いてしまった。 まさか暁慈の父親と行くなんて、どうしても言えなかった。 「いってらっしゃい」 「うん、有り難う」 母親に笑顔で礼をいいながらも、香穂子は溜め息を吐く。どうして良いかが解らずにいた。 結局、行かざるをえなかった。 本当は、行く理由を探していたのかもしれない。 クラシックコンサートであるから、フォーマルなスタイルで行く。スーツならば無難だろう。 ドレスと比べればかっちり感が出るから、良い鎧にもなってくれる。 香穂子が約束の時間に待ち合わせ場所へと向かうと、吉羅がフェラーリに乗ってやってきた。 「香穂子、乗りたまえ」 「有り難うございます」 助手席のドアが開けられて、香穂子はそこに浅く腰掛ける。 「暁慈は?」 「お母さんにみて貰っています」 「それは安心だね」 吉羅は頷くと、コンサートホールまでの短い道程を走り抜ける。 「コンサートが終わった後、一緒に食事でもしないか?」 「少しだけなら…。暁慈もいますから、余り遅くならないほうが良いですから」 「…そうだね」 吉羅はさらりと言うと、時計に視線を向けていた。 コンサートは申し分ないほどに素晴らしくて、香穂子はうっとりとその音楽に酔い痴れていた。 「近くのレストランを取ってある。軽く食事をしようか」 「そうですね」 かつての記憶が蘇ってくる。 あの頃は、本気に夢見心地で吉羅とデートを重ねていた。 あれ程までにふわふわとした時間はなかったのではないかと、今更ながらに思う。 今でも、吉羅に見つめられるだけでドキドキしてしまう。 こうして顔を突き合わせて食事をすると、更にドキドキする。 最近の吉羅は以前に増して優しくて、香穂子や暁慈を大切にしてくれる。 嬉しいと思いながらも、香穂子の警戒心はなかなか緩まなかった。 だが、少しずつ吉羅との時間を重ねていると、またそばにいたくなるような気分になる。 香穂子はもう半分は陥落していた。 デザートを食べ終わると、不意に吉羅が呟く。 「香穂子、私は君と元以上になりたいと思っている。そろそろ、その鎧を脱ぎ捨ててくれないか?」 吉羅に手を握り締められて、香穂子の鼓動は一気に跳ねあがった。 「…吉羅さん…」 「正直に言おうか? 私は暁慈よりも、君が欲しいんだよ」 |