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もし、もし、死ぬ前にひとり逢わせてくれるひとを選べるならば、私は迷わずにあなたを選ぶ。 人生で一番愛したあなたを。 そして後悔しないように告げるのよ。 「あなたを愛している」と‐‐‐‐ 過去に戻りたい? なんて訊かれたら、戻りたくはないなんて言えるひとが、どれぐらいいるのだろうか。 香穂子は、吉羅の結婚披露パーティの招待状を手にしながら、そう思った。 「…やっぱり結婚してしまうんだ…理事長…」 高校生の頃、本当によく目をかけてもらった。 吉羅にはコンサートに連れていって貰ったり、食事に連れていって貰ったり。 所謂“一流”が何なのかを教えて貰った。 今もそれはとても役立っている。 クラシック界という上質な音楽を提供する世界に身を置いている者にとっては、あの頃の経験がとても役立っているのは確かだった。 吉羅には本当に感謝している。 それは生涯変わることはないだろう。 あの頃は、吉羅のことが好きで堪らなくて、まるで岩清水のようなピュアな心を、熱情で沸騰させていた。 吉羅には全く相手にはされなかったが。 吉羅は純粋に、香穂子に将来の夢を託す意味で接してくれていた。 大きな愛で包みこんでくれてはいたが、それはあくまでも師弟や親子にあるようなもので、恋情ではなかった。 香穂子だけが一方的に恋情を沸騰させていただけだった。 一回り以上も年上で、その上理事長と生徒という立場なのだから当然と言えば当然なのだが。 吉羅にとって香穂子は、“守るべき有望な卵”であったのだろう。 そのカテゴリーから出ることはなかったということだ。 それに、香穂子と頻繁に出かけていた頃、既に吉羅には恋人がいたようだった。 綺麗な女性と一緒にデートをしているという噂も聞いていたし、時折、アロマの優しい香りの香水が薫っていたから。 あのアロマの香りは一時期だけで嗅げなくなってしまったが、香穂子にとっては胸が締め付けられるような香りだった。 今、思い出したようにそれを身に着けている自分がいるのが、ほんのりと切なくて誇らしい。 大人になったということなのだろう。 香穂子は、結婚披露パーティの招待状を机の引出し奥に片付けると、溜め息を吐いた。 もう戻れないのだ。 もうチャンスはないのだ。 吉羅に「愛している」と告白することは。 「愛している」と告げられたら、それだけでも良かったのに。 そうすれば少しは後悔しなくて済んだのかもしれないのに。 香穂子はそう思うと、唇を噛み締めた。 吉羅が結婚する。 その事実が、香穂子に重苦しくのしかかっていた。 大学での授業を終えて、香穂子は学院に向かった。 吉羅に逢わないように理事長室周辺を避ける。 過去に帰りたいなんて、ノスタルジックなことを考えていたからか、学院に吸い寄せられるように向かった。 まるでアルジェント・リリに呼ばれているような気もしたのだ。 香穂子が学院の森を歩いていると、後輩たちが棚思想に話しているのが聞こえた。 「ここってさ、“過去への扉”があるらしいよ?」 「またあ! まあ、妖精が住んでいるって噂もあるから、何でもアリなのかもしれないけれどね」 「何でもね、この森の奥に過去へと繋がる通路があって、そこに向かうと、自分が一番行きたい時間へと行くことが出来るらしいよ」 「マジで!? そんなことってあるわけないよねー」 楽しそうに会話をする後輩を見つめながら、香穂子は胸が潮騒のように騒ぐのが解った。 所謂、“学校の伝説”の類であることは解ってはいる。 だが、ここはファータに守られた場所なのだ。 何が起こってもおかしくはない。 香穂子は耳の下が痛くなるぐらいに、胸をドキドキさせる。 本当にこんなことは有り得ないなんて表面では思っていても、ここは星奏学院なのだ。 本当に何が起こるかは解らない。 ファータの楽しくて不思議な加護がある場所だから、本当に過去に飛べてしまうのかもしれない。 香穂子はそれを信じたくて、森の更に奥を目指すことにした。 ヴァイオリンを片手に髪を靡かせて、ひたすら森の奥を目指す。 様々な過去に行けるのであれば、行きたいところはただひとつだ。 愛しいあの男性がいる場所しかない。 あの男性に、今度こそは告白をしたいと思う。 真夏の照り付ける陽射にくらくらする。 向日葵が美しくて、くらくらしてしまうほどに躍動感が溢れる午後。 美しくて眩しい陽射しは、何かを起こしてしまうような気がする。 ミラクルが起きる? そんな予感に、香穂子は期待してドキドキする。 香穂子はゆっくりとなんてしてはいられなくて、走る。 そういえば、高校生の頃はいつも走っていたような気がする。 あんなにも急ぐことはなかった筈なのに、どうしてあんなにも走っていたのだろうか。 きっと、早く吉羅に追いつきたくてしょうがなかったから。 吉羅を早く追い越して、自分を追いかけさせたいと、そんな不遜なことを考えていた。 だからあれほど走っていたのかもしれない。 あの頃は純粋でしょうがなかった。 純粋であるが故に、ああして走っていたのだろう。 だが、時間が過ぎるに連れて、どんどん走るスピードが遅くなって、今や悠長に歩いてしまっている。 のんびりと歩く。 ただそれだけだ。 香穂子は、そんな自分が何処となく澱んでしまったような気がした。 走りたいのに、走らない。 大人になると、どうしても保守的になってしまうからだろうか。 香穂子はそんな自分を捨て去るように走った。 その先には現在を変えられる何かがあるかもしれないのだ。 吉羅の隣にずっといたい。 ただそれだけを香穂子は願って、森の奥へと走っていった。 どれぐらい走ったかは解らない。 香穂子はいつの間にか見慣れていない森の深い部分に入っていった。 振り返ると、学院が遥か遠くに見える。 「…迷子になっちゃったのかな…」 不安になってしまい、周りをきょろきょろと見つめる。 「おいっ!」 突然声を掛けられてしまって、香穂子は躰をビクリとさせた。 恐る恐る振り返るとそこにはリリがいた。 「…何だ、リリか…。もうっ、びっくりさせないでよ」 「日野香穂子、お前は森の奥の禁断の場所に踏み入れたな」 リリは神妙な声で呟き、香穂子を真摯なまなざしで見つめる。 「入ったらいけない場所…だったの…?」 「…いいや。ファータが常に見える吉羅一族にしか入れない場所なのだが、お前はファータが見えるから入れるのは当然か…」 リリは神妙に呟く。 「…え? じゃあ吉羅一族と私にしか入れない場所なの…?」 「ああ。しかも何が起こるかが解らないんだ。今までは何も起こらなかったんだが、これからは解らない」 「起こらなくても判らないって…、リリも知らないことなの…?」 香穂子は期待と不安でいっぱいになってくる。 もし、あの噂が本当だとするならば、香穂子は過去に行ける可能性があるということだ。 吉羅に告白出来るかもしれない。 心臓がドクドクと大きく鳴り響き、香穂子は頭が急にガンガンして痛くなるのを感じた。 くらくらする。 何だか視界がふらふらする。 「おいっ!」 遠くで吉羅の声が聞こえたような気がした。 気がつくと誰かに躰を支えられていた。 「大丈夫ですか…?」 聞き覚えがある声なのに、トーンがフレッシュで高い。まだ青さが遺っている。 声に導かれて目を開ける。 視界に飛び込んだ顔に香穂子は驚く。 そこには吉羅を幼くしたような少年がいた。 |