*過去への扉*

2


 音楽科の制服を着ていて、スカーフは赤だ。
 香穂子と同じ色だ。
「…あ、あの…」
「大丈夫ですか…?」
「…あ、有り難う…」
 まだ幼さを宿した吉羅によく似た男の子といっても良い雰囲気がある。
「…あ、有り難う、本当に」
「熱中症なのかな? 少しお茶でも飲んで、ゆっくりされたほうが良いですよ」
 笑顔に何処か品があって、素直さが溢れている。
 まさに“さわやか”という単語が最も似合うかもしれない。
「あ、僕、水を持って来ますね。かなり森の深いところにいるから、少し時間が掛かりますが、待っていて下さいね」
「…あ、うん、有り難う」
 少年はにっこりと笑うと、走っていってしまった。
 少年を見送った後、香穂子は溜め息を吐いた。
 本当に吉羅によく似ている少年だった。
 恐らくは吉羅一族なのだろう。
 だったら、この場所に来ても当然だ。
 香穂子と同じ学年のカラーだったから、恐らくは二年生だろうか。
 だが二年生にしては、かなり幼いようにも思えた。
 しかし本当によく似た顔立ちだ。
 衛藤の他に従弟がいるのだろう。
 聞いたことはないが、恐らくはそうなのかもしれない。
 香穂子は取りあえずは、木陰でじっとしていることにした。
 もうすぐあの少年が、こちらにやって来るだろう。
 吉羅暁彦について訊いてみようかと思った。
 しかし本当に素直そうな可愛い少年だった。
 弟にしたいぐらいだ。
 一番下の香穂子にとっては、弟の存在は憬れでもあった。
「遅くなりました!」
 必死になって走ってやってくる少年が、まるで子犬のように見えた。
 少年は水筒を差し出してくれる。
「どうぞ」
「有り難う」
 今時、水筒なんて珍しいなと思いながら、香穂子は受け取って喉を潤した。
 とても気持ちが良い。
「有り難う、喉が潤ったよ」
「良かった…!」
 笑顔が可愛くてしょうがなくて、香穂子は胸がキュンとするのを感じた。
 本当に綺麗な顔立ちの少年だ。
「…学院の音楽科?」
「はい、音楽科の一年です。ヴァイオリン専攻なんです。あなたもヴァイオリンを弾かれるのですか?」
 赤い色は二年生の筈なのに、香穂子は小首を傾げながらも頷いた。
「そうだよ。私も学院出身なんだ。三年から音楽科にいたんだよ」
「へえ…、編入って珍しいですよね。うちは殆ど編入は取らないって聞いてますが。調べたらあなたが誰かは直ぐに解りますね」
 少年は屈託なく言う。
 吉羅一族だからこそ出来ることなのだろうと、香穂子は思った。
「理事長と血縁なの?」
「理事長は父です」
 その一言に、香穂子はひっくり返ってしまいそうになった。
 理事長が父親。
 ということは吉羅の息子だということだろうか。
 ひょっとして、とんでもなく先の未来に来てしまったのではないだろうか。
 香穂子は腰を抜かしそうだった。
「この場所に来られるということは、ひょっとしてファータがいつも見えているってことですか?」
「そうだよ。コンクールが終わった後も見えなくならなかったんだ。凄く珍しいことだってリリが言っていたけれどね」
「なら、父もあなたのことを知っているのかもしれないですね」
「…そうだね…」
 急に寂しい気分になってしまう。
 未来でも、吉羅は覚えてくれているだろうか。
「今もコンクール中なんですよ。姉と金澤先輩と一緒に出ているんです」
「か、金澤先輩!?」
 香穂子は思わず声がひっくり返る。
 金澤の子供も学院に通っているのだろうか。
 だとしたら金澤も間も無く結婚するということだろうか。
「…金澤…先輩って…、ひょっとして…声楽で参加とか…」
「そうです! 姉と同じクラスの先輩なんです。姉もまたコンクールに参加しています。僕と同じヴァイオリンなんです」
 少年どころか、吉羅にはもう娘がいたとは。
 香穂子は胸がキリキリ痛んだ。
 この未来から早く帰りたい。
 切ないだけだ。
 結局は、何も変えられなかったのだろう。
「あ、あなたもヴァイオリンを聴かれるんですか…?」
「うん、そうだよ」
 吉羅の息子らしき青年は興味津津に香穂子のヴァイオリンを見つめる。
「じゃあ…、一曲弾いて頂いても構いませんか…? あなたの音を是非とも聞きたいんです」
「解ったよ。じゃあ弾くね」
「はい」
 音楽科の少年を前にすると些か緊張してしまう。
 背筋を伸ばして、香穂子はヴァイオリンを奏でることにした。
 彼は、今日のことを父親に報告するだろうか。
 それとも、報告しないだろうか。
 吉羅は一瞬でも私を思い出してくれるだろうか。
 そんなことを香穂子はぼんやりと考えながら、ヴァイオリンを奏でた。
 ヴァイオリンを奏でた後、大きくて激しい拍手が鳴り響く。
 目を開けると、少年が一生懸命拍手をしてくれていた。
「素晴らしいです!」
 それこそ何度も拍手をしてくれて、瞳を輝かせてこちらを見つめてくれるものだから、香穂子は思わず笑みを零した。
「…有り難う」
「あなたの演奏…、特に解釈の部分は僕の理想です! 有り難うございます。良い演奏を聴かせて貰えました!」
 少年は本当に素直に礼を言ってくれる。
 可愛くて好ましいと思った。
「私こそ有り難う。あなたに聴いて貰えて嬉しかったです」
 香穂子もまた素直に笑って礼を言った。
「リリのアイテムで解釈部分をアップしないと…なんて思いますが、どうも僕を実験台にしているみたいで、アロハシャツを着たら踊りたくなるぐらいに明るくなったり、目薬を使ったら涙が止まらなくなったり…。ろくなアイテムをくれないんですよね…」
 少年は呆れ果てたような大きな溜め息を吐いている。
 香穂子は奇妙に思った。
 そのアイテムは、既に完成品のはずだ。
 なのに完成していないとなると、ひょっとして過去に行き過ぎたのかもしれない。
「あ、お礼に僕もヴァイオリンを弾きますよ」
「有り難う」
 少年の声掛けに香穂子はハッとすると、笑顔でお願いすることにした。
「…じゃあ弾きますね」
「…うん」
 少年はヴァイオリンに集中すると、恋の曲を奏で始める。
 なんて素直な音なのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 本当に純粋過ぎるぐらいに美しい音色だ。
 “初恋”という言葉がピッタリだ。
 そう言えば、昔、金澤から聴いたことがある。
 吉羅は、高校生時代に生意気にも大学生の女性に恋をしていたと。
 それがこの音に繁栄されているとしたら。
 やはり過去なのだ。
 彼は紛れもなく、吉羅暁彦なのだ。
 香穂子は確信する。
 かつてはこんなにも純粋な音を吉羅は奏でていたのだと思うと、泣きそうになった。
 ヴァイオリンを奏で終わり、少年が深々とお辞儀をすると、香穂子は惜しみない拍手を送る。
「本当に綺麗な音ね。有り難う、こころが癒されました」
 香穂子が笑顔で礼を言うと、少年は頬をふんわりと赤らめた。
「…あ、あのっ」
「え?」
「暁彦!」
「吉羅!」
 聞き慣れたものよりは若いが確かに金澤の声と、柔らかくて優しい声が聞こえる。
 走って音楽科の制服を着た男女ふたりの生徒がやってくる。
「…あ…」
 金澤だ。
 やはりここは過去なのだ。
 そう思った瞬間に、視界がグラリと揺れる。
 再び目をすがめるような光を感じて、香穂子は倒れ込んだ。
「…あっ…!」
 一瞬意識を失った後、香穂子がゆっくりと目を開ける。
 誰かにしっかりと抱き締められている。
 目を開けると、吉羅暁彦がいた。
「大丈夫かね…!?」



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