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元に戻ったのだろうか。 香穂子はそんなことをぼんやりと考えてしまう。 あれほど行きたかった過去だが、結局は、吉羅に告白が出来る時間には戻ることが出来なかった。 「…あ…理事長…」 香穂子はぼんやりとしながら、吉羅を見た。 吉羅は怪訝そうにこちらを見ている。 こんな森の奥深くに来るなとでも言っているように思えた。 「どうして私服なんかに着替えてここにいるのかね!? 薄く化粧までしているようだが…、日野君、不問にするとは…言えないが…、早く化粧を落として制服に着替えて教室に戻りなさい」 吉羅はいつも通りの厳しい口調で言うが、香穂子には何がなんだか解らない。 混乱しているのだろうか。 「…理事長…、私…もう大学生で…、制服なんか着ていませんが…」 「え!? 君はまだ高校生だろう?」 「いいえ」 ふたりの会話が全く噛み合わない。 ふたりしてきょとんとしてしまう。 「…理事長、私は今、何年生なんですか…?」 「何を言っているんだ!? 君は音楽科の三年生だろう?」 「…え!?」 香穂子は目をまんまるにして驚いてしまう。 ということは、高校三年生に、二年前に戻ったということだろうか。 「じゃあ、君は、今は何年生なのかね…?」 「大学二年です」 今度は吉羅が奇妙な顔をした。 吉羅は眉間に皺を寄せて、香穂子を見つめた後、背後の森を見つめる。 暫く香穂子をしげしげと見つめる。 余りに見つめられるものだから、恥ずかしすぎてドキドキしてしまった。 「…あ、あのっ、理事長…」 吉羅のように完璧に整った顔に見つめられると、息が出来なくなる。 ましてや愛するひとなのだから当然だ。 喉がからからに渇いてしまうぐらいに緊張してしまう。 耳まで真っ赤になってしまい、耳の下が痛くなるぐらいに緊張した。 「…あ、あの…、吉羅理事長…」 「日野君、確かにいつもの君とは少し雰囲気が違う…。大人になったとでも言うのかな…」 吉羅は納得したように頷く。 「確かにここはファータの力がかなり強い。一般の者が入れないぐらいにね。…だから君がここに来られて、何か不思議なことが起こっても当然か…。ファータどもの魔力が強い以上…、何が起こっても不思議ではないということか…」 吉羅は納得したかのように言うと、香穂子を見た。 「日野君、いつまでもここにいたら熱中症にでもなる。ひとまずは理事長室に行こうか」 「はい」 香穂子は頭がくらくらするのを感じながら、吉羅に着いて行く。 今度こそ現在に引き戻されるのではないかと思った。 だが何も起こらない。 香穂子は何度も振り返ったが、不思議な現象は何もなかった。 やがて見慣れた風景が広がる。 いつもの学院の森だ。 授業中のせいか、森は静まり返っていた。 吉羅は香穂子を監視するかのように何度も振り返る。 疑っているような顔をしている。 それはしかたがない。 吉羅に連れられて馴染深い理事長室に入った。 吉羅は職員室に電話を掛けているようだ。相手は、恐らくは当時の担任金澤だ。 「金澤さん、今日、日野君は出席していますか?」 「出席している。そうですか。有り難うございます。今も授業をきちんと受けているんですね。はい、有り難うございます」 吉羅は溜め息を吐くと、香穂子を見た。 「日野君はきちんと授業を受けているようだ。やはり君は…、二年後の日野君か…」 吉羅は自分自身に言い聞かせるように言うと、溜め息を吐いた。 「ヴァイオリンを弾いてくれないかね?」 「…はい」 香穂子は吉羅に言われて通りに、ヴァイオリンを構えると、お馴染みの“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。 吉羅はそれを目を閉じて静かに聴いている。 吉羅が最も愛しているといっても過言ではない曲だ。 だからあえてこの曲を選んだ。 吉羅は成長したと信じてくれるだろうか。 信じてくれたらこれ以上にときめくことはないのに。 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は目を開けた。 「…確かに君は日野君だ。そのような解釈は君にしか出来ないからね。今と比べて…なんて変な感じだが、技術的にかなり向上しているし、音に広がりが出ている。それはこの二年間での成果だと思うがね」 「有り難うございます」 吉羅がきちんと信じてくれて、香穂子はホッとする。 先ほどの過去への旅は逆上り過ぎたが、今度はそんなにも逆上らなくて済んだ。 しかもベストタイミングな時間にたどり着いた。 吉羅に「好きだ」と言って逃げてしまおうか。 だがそれでは全く効果がないかもしれない。 そこが辛いところだと、香穂子は思った。 吉羅に告白をしようと思ったところで、勇気がなかなか集まらない。 吉羅のことを本当に愛しているのだということを、しっかりと伝えたい。 だがそうするには緊張し過ぎてしまう。 香穂子が悶々と考えていると、吉羅がこちらを見つめて来た。 「日野君、今夜は帰るところがないだろう。君の家には、高校生の君が帰るのだからね」 「そうですね」 そんなところまで考えてはいなかった。 香穂子がどうして良いのか分らなくてなっていると、吉羅はじっと見つめてきた。 「うちには余分な部屋がある。来るかね?」 吉羅は淡々とまるでボランティアでもするかのような口調で言う。 香穂子はそれに縋るしかない。 「…お願いします…」 「解った」 吉羅は頷くと、静かに自分の席に腰を下ろした。 「…私は仕事をしているから君はソファに掛けてじっとしていなさい。仕事が終わるまで待っていてくれ」 「解りました」 香穂子はちょこんとソファに腰を掛けて、吉羅が仕事をしている様子を見る。 このように吉羅が仕事をする姿を見るのは、高校生の時以来だ。 吉羅はテキパキと仕事をこなしている。それを見つめるだけで、幸せだった。 やがて授業が終わり、校庭からは楽器を練習する音が聞こえてくる。 その音が懐かしくてしょうがなかった。 六時ぐらいまで、吉羅が仕事をしているのを見ていた。 吉羅の仕事を見ているのが楽しくて、時間が経つのが本当に早い。 「日野君、今日の仕事は取りあえずは終わったから、うちに行こうか」 「はい」 吉羅は素早く仕事関係の書類を片付けると、香穂子を連れて駐車場に向かう。 フェラーリが見えて、相変わらず吉羅らしいと思った。 香穂子は助手席に乗り込んでつい笑顔になってしまう。 こうして助手席に座るのは本当に久しぶりだ。やはり座り心地はかなり良いと感じていた。 「先にデパートに寄る。君も生活必需品がいるだろうからね。必要なものは私が購入をしよう」 「有り難うございます。だけど、恐らくは直ぐに戻れるかと思うので、そこまでお気遣い頂かなくても良いですよ」 「…それでは不確定要素が大きいだろう。きちんと用意をしておこう」 「有り難うございます」 香穂子は有り難いと思うのと同時に、何だか申し訳ないような気がした。 デパートに行き、吉羅は最低限だからだと、五日分の衣服とランジェリーを買ってくれた。 化粧品はトライアルセットを買ってくれる。 こんなにしてくれて恐縮してしまった。 手元に持っているものは、化粧直し用のポーチと香水ぐらいしかなかった。 その上、夕食まで連れて行って貰い、香穂子は感謝せずにはいられなかった。 吉羅の自宅にいよいよ向かう。 吉羅だけの世界に足を踏み入れるのは初めてだ。 香穂子は全身が緊張するのを感じていた。 |