*過去への扉*

3


 元に戻ったのだろうか。
 香穂子はそんなことをぼんやりと考えてしまう。
 あれほど行きたかった過去だが、結局は、吉羅に告白が出来る時間には戻ることが出来なかった。
「…あ…理事長…」
 香穂子はぼんやりとしながら、吉羅を見た。
 吉羅は怪訝そうにこちらを見ている。
 こんな森の奥深くに来るなとでも言っているように思えた。
「どうして私服なんかに着替えてここにいるのかね!? 薄く化粧までしているようだが…、日野君、不問にするとは…言えないが…、早く化粧を落として制服に着替えて教室に戻りなさい」
 吉羅はいつも通りの厳しい口調で言うが、香穂子には何がなんだか解らない。
 混乱しているのだろうか。
「…理事長…、私…もう大学生で…、制服なんか着ていませんが…」
「え!? 君はまだ高校生だろう?」
「いいえ」
 ふたりの会話が全く噛み合わない。
 ふたりしてきょとんとしてしまう。
「…理事長、私は今、何年生なんですか…?」
「何を言っているんだ!? 君は音楽科の三年生だろう?」
「…え!?」
 香穂子は目をまんまるにして驚いてしまう。
 ということは、高校三年生に、二年前に戻ったということだろうか。
「じゃあ、君は、今は何年生なのかね…?」
「大学二年です」
 今度は吉羅が奇妙な顔をした。
 吉羅は眉間に皺を寄せて、香穂子を見つめた後、背後の森を見つめる。
 暫く香穂子をしげしげと見つめる。
 余りに見つめられるものだから、恥ずかしすぎてドキドキしてしまった。
「…あ、あのっ、理事長…」
 吉羅のように完璧に整った顔に見つめられると、息が出来なくなる。
 ましてや愛するひとなのだから当然だ。
 喉がからからに渇いてしまうぐらいに緊張してしまう。
 耳まで真っ赤になってしまい、耳の下が痛くなるぐらいに緊張した。
「…あ、あの…、吉羅理事長…」
「日野君、確かにいつもの君とは少し雰囲気が違う…。大人になったとでも言うのかな…」
 吉羅は納得したように頷く。
「確かにここはファータの力がかなり強い。一般の者が入れないぐらいにね。…だから君がここに来られて、何か不思議なことが起こっても当然か…。ファータどもの魔力が強い以上…、何が起こっても不思議ではないということか…」
 吉羅は納得したかのように言うと、香穂子を見た。
「日野君、いつまでもここにいたら熱中症にでもなる。ひとまずは理事長室に行こうか」
「はい」
 香穂子は頭がくらくらするのを感じながら、吉羅に着いて行く。
 今度こそ現在に引き戻されるのではないかと思った。
 だが何も起こらない。
 香穂子は何度も振り返ったが、不思議な現象は何もなかった。
 やがて見慣れた風景が広がる。
 いつもの学院の森だ。
 授業中のせいか、森は静まり返っていた。
 吉羅は香穂子を監視するかのように何度も振り返る。
 疑っているような顔をしている。
 それはしかたがない。
 吉羅に連れられて馴染深い理事長室に入った。
 吉羅は職員室に電話を掛けているようだ。相手は、恐らくは当時の担任金澤だ。
「金澤さん、今日、日野君は出席していますか?」
「出席している。そうですか。有り難うございます。今も授業をきちんと受けているんですね。はい、有り難うございます」
 吉羅は溜め息を吐くと、香穂子を見た。
「日野君はきちんと授業を受けているようだ。やはり君は…、二年後の日野君か…」
 吉羅は自分自身に言い聞かせるように言うと、溜め息を吐いた。
「ヴァイオリンを弾いてくれないかね?」
「…はい」
 香穂子は吉羅に言われて通りに、ヴァイオリンを構えると、お馴染みの“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で始めた。
 吉羅はそれを目を閉じて静かに聴いている。
 吉羅が最も愛しているといっても過言ではない曲だ。
 だからあえてこの曲を選んだ。
 吉羅は成長したと信じてくれるだろうか。
 信じてくれたらこれ以上にときめくことはないのに。
 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は目を開けた。
「…確かに君は日野君だ。そのような解釈は君にしか出来ないからね。今と比べて…なんて変な感じだが、技術的にかなり向上しているし、音に広がりが出ている。それはこの二年間での成果だと思うがね」
「有り難うございます」
 吉羅がきちんと信じてくれて、香穂子はホッとする。
 先ほどの過去への旅は逆上り過ぎたが、今度はそんなにも逆上らなくて済んだ。
 しかもベストタイミングな時間にたどり着いた。
 吉羅に「好きだ」と言って逃げてしまおうか。
 だがそれでは全く効果がないかもしれない。
 そこが辛いところだと、香穂子は思った。
 吉羅に告白をしようと思ったところで、勇気がなかなか集まらない。
 吉羅のことを本当に愛しているのだということを、しっかりと伝えたい。
 だがそうするには緊張し過ぎてしまう。
 香穂子が悶々と考えていると、吉羅がこちらを見つめて来た。
「日野君、今夜は帰るところがないだろう。君の家には、高校生の君が帰るのだからね」
「そうですね」
 そんなところまで考えてはいなかった。
 香穂子がどうして良いのか分らなくてなっていると、吉羅はじっと見つめてきた。
「うちには余分な部屋がある。来るかね?」
 吉羅は淡々とまるでボランティアでもするかのような口調で言う。
 香穂子はそれに縋るしかない。
「…お願いします…」
「解った」
 吉羅は頷くと、静かに自分の席に腰を下ろした。
「…私は仕事をしているから君はソファに掛けてじっとしていなさい。仕事が終わるまで待っていてくれ」
「解りました」
 香穂子はちょこんとソファに腰を掛けて、吉羅が仕事をしている様子を見る。
 このように吉羅が仕事をする姿を見るのは、高校生の時以来だ。
 吉羅はテキパキと仕事をこなしている。それを見つめるだけで、幸せだった。
 やがて授業が終わり、校庭からは楽器を練習する音が聞こえてくる。
 その音が懐かしくてしょうがなかった。
 六時ぐらいまで、吉羅が仕事をしているのを見ていた。
 吉羅の仕事を見ているのが楽しくて、時間が経つのが本当に早い。
「日野君、今日の仕事は取りあえずは終わったから、うちに行こうか」
「はい」
 吉羅は素早く仕事関係の書類を片付けると、香穂子を連れて駐車場に向かう。
 フェラーリが見えて、相変わらず吉羅らしいと思った。
 香穂子は助手席に乗り込んでつい笑顔になってしまう。
 こうして助手席に座るのは本当に久しぶりだ。やはり座り心地はかなり良いと感じていた。
「先にデパートに寄る。君も生活必需品がいるだろうからね。必要なものは私が購入をしよう」
「有り難うございます。だけど、恐らくは直ぐに戻れるかと思うので、そこまでお気遣い頂かなくても良いですよ」
「…それでは不確定要素が大きいだろう。きちんと用意をしておこう」
「有り難うございます」
 香穂子は有り難いと思うのと同時に、何だか申し訳ないような気がした。
 デパートに行き、吉羅は最低限だからだと、五日分の衣服とランジェリーを買ってくれた。
 化粧品はトライアルセットを買ってくれる。
 こんなにしてくれて恐縮してしまった。
 手元に持っているものは、化粧直し用のポーチと香水ぐらいしかなかった。
 その上、夕食まで連れて行って貰い、香穂子は感謝せずにはいられなかった。
 吉羅の自宅にいよいよ向かう。
 吉羅だけの世界に足を踏み入れるのは初めてだ。
 香穂子は全身が緊張するのを感じていた。



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