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あの過去の出来事は夢だったのだ。 あんなに情熱的に愛し合ったのは、夏の白昼夢だったのだ。 涙が零れそうだ。 結局は過去は一切変えられなかったということになる。 香穂子は、涙が零れ落ちそうになるのを何とか堪えて、踵を返した。 たとえ夢であったとしても、あんなにも幸せな時間を過ごせたのだから、感謝しなければならない。 これで不幸だと思うなんて、全くのお門違いだ。 「未来を変えるためには、やっぱり過去を振り返るのではなく、未来をどういう形で乗り切るかを考えなければならないんだね…」 香穂子はしみじみと胸の痛みを感じながら、苦しげに思った。 今日はもう疲れてしまった。 このまま家に帰りたい。 香穂子はトボトボと俯いて歩き、ちょうど学院の駐車場に差し掛かった時だった。 「香穂子、君は二年前の約束を忘れてしまったのかね?」 香穂子はハッ息を呑んで、顔を上げる。 すると駐車場には、吉羅が落ち着いた微笑みを浮かべて立っていた。 「…吉羅さん…」 「二年前、君は“暁彦さん”と呼んでくれていただろう? あの時と同じように、私の名前を呼んでくれないかね?」 「…暁彦さん…」 吉羅が二年前の約束のことを言ってくれている。 未来は確実に変わったのだろうか。 それとも実質は変わっていないのか。 そのあたりは解らない。 「ここで立ち話をするのは拙いだろうから、車に乗ってドライブをしながら話そう」 「はい…」 香穂子は素直に吉羅の車に乗り込む。 だが、本当のところは未来が変わっているのかいないのかは、今のところは解らない。 「…暁彦さん、有り難うございます。二年前…私にはつい先ほどの約束ですが、それを守って下さって有り 難うございます。暁彦さんが結婚されると聞きました…。未来を変えたくて過去に行きましたが、やっぱり変わらなかったんですね…」 香穂子は今にも泣きそうになった。 「…香穂子…、君は、何かを勘違いしているかもしれないね…。きちんと話をしなければならないね…」 吉羅は静かに言うと、香穂子を見た。 「ホテルにチェックインが出来る時間帯だから、部屋で話そう」 「有り難うございます…」 吉羅は一体何を言うのかと、香穂子はつい勘ぐってしまう。 静かに車は停車した。 「では、行こうか」 「はい」 緊張してしまう。 吉羅は香穂子の手をしっかりと握り締めて、そのまま手を引いてままホテルのフロントへと向かう。 吉羅が胸ポケットから取り出したのは、二年前に受け取った予約シートだった。 香穂子にとってはつい先ほどのことではあるが、既に二年も経過した事なのだ。 未来は変わっているのか。 香穂子が目を見開いたままで吉羅を見ていると、気持ちを察したのか、フッと笑い掛けてくれた。 吉羅は手早くチェックインの手続きをすると、香穂子の手を取る。 「行こうか。話をした後はレストランの予約をしているからね」 「有り難うございます」 嬉しさと不安と緊張が交錯して、躰が僅かに震える。 香穂子は何とか自分を奮い立たせる。 「大丈夫かね…?」 「大丈夫です」 何とか答えると、吉羅は更に手を握り締めた。 二年前、香穂子にとってはつい昨日使ったのと同じ部屋に入る。 何もかも変わってはいない。 部屋に入った途端に、吉羅に力強く抱き締められる。 「…待っていた…、ずっとこの日が来る事を…」 吉羅はくぐもった声で言うと、香穂子の唇を激しく奪った。 唇がぷっくりと腫れ上がってしまうぐらいに激しいキスを受けた後、香穂子は潤んだまなざしを向けた。 あのことを確認しなければならない。 愛人という立場は、耐えられそうにないから。 香穂子は潤んだ瞳を真摯に向けた。 「…暁彦さん…ご結婚されるんじゃないんですか…?」 香穂子が思い詰めたように言うと、吉羅はフッと優しい笑みを浮かべた。 「…結婚…? 私は君とならば今すぐしたいと思っているがね。君以外の相手は、私にはいないよ」 「暁彦さん…」 吉羅の結婚相手というのは、自分なのだろうか? 「…私…、暁彦さんが結婚されると聞いて…、それで過去を変えたくて…」 香穂子は声を震わせながら、吉羅に呟く。 想いが溢れてきて泣きそうになった。 吉羅は優しいまなざしのままで、香穂子の頬を撫でてくれる。 「…私は君以外の女とは結婚はしないよ。君がその噂を聞いて、過去に旅立ったことを知っていたから、わざとそういう噂が流れるようにした。君には…指環を贈るつもりだったから、わざと目立つように買ったり、結婚準備をする行動に出た。そうしなければ君は過去には行かない、過去が変わってしまうと思ったからね…。だから…わざとだよ…」 吉羅の言葉を聞いて、香穂子は驚き以外の言葉が他には見つからなかった。 ただただ驚いて目を見開いた。 「…じゃあ…私が過去を変えたと思い込んだだけで…本当は変わらないようにする為に、過去に行った…と…」 「私的にはね。ただし、君にとっては充分に過去は変わっているのかもしれないね」 吉羅は優しく慈しみが溢れたまなざしを香穂子に向けると、顔を近付けてくる。 「愛している。私はずっと君を待っていたんだよ…」 「暁彦さん…」 吉羅は香穂子をそのまま抱き上げると、ベッドへと連れて行く。 そこからはもう言葉のいらない世界になった。 激しく愛し合った後、ふたりはしっかりと抱き合う。 「…香穂子…、私は君が過去に向かったことを見届けて、帰ってきたことも見届けていた。君が帰ってきたことを確認するための時間を設けた上で、姿を現したんだよ。君を車に乗せた瞬間から、もう絶対に離さないと決めていた」 「暁彦さん…」 こうして吉羅と一緒になれたことが、香穂子にとっては至上の喜びとなった。 吉羅に甘えながら、幸せな時間を紡ぐ。 「…愛しているよ。香穂子…。君が未来に戻った後、…私はまだ高校生の君を何度も抱き締めたくなった…。何度も抱きたくなったし、キスもしたかった。私が食事に誘う度に、ヴァイオリンを弾いてくれる度に見せてくれるはにかんだ笑顔を見て、私は何度となく君をさらおうとした…。本当に可愛くて愛しくてしょうがなかったんだよ…」 「…暁彦さん…」 吉羅の愛の溢れた言葉に涙がこぼれ落ちてくる。 いつも優しく大きくて、そして情熱的な愛で見守っていてくれたのだ。 それが嬉しくて、たまらない。 「…暁彦さん…、私も…あなたを愛しています…」 上手く言えなかったが、何度も鼻を啜りながら、香穂子は笑顔で呟いた。 「愛しているよ、私も…」 吉羅は唇に甘いキスをくれる。 これからはこのキスがいつでも受けられると思うと、嬉しかった。 あの日と同じように、同じ場所でディナーを楽しむ。 「ここがベストな場所だろうからね」 吉羅はスッとヴェルヴェットで出来たジュエリーケースを差し出してくれる。 「結婚してくれないか…? 今すぐにでも…」 吉羅はケースを開けて、エンゲージリングを見せてプロポーズをしてくれる。 嬉しくてまた涙がこぼれ落ちてしまう。 「有り難うございます。宜しくお願い致します」 香穂子は深々と頭を下げると、吉羅に微笑み掛けた。 過去に戻ることは必然だった。 だが、戻ったからこそこうして輝かしい未来がある。 もう過去に目を向けずに、真っ直ぐ前を見つめておこうと思う。 幸せな未来は現在で作られるのだから。 |