*過去への扉*

17


 バスタブになみなみと湯が貯められた後、ふたりで一緒にバスタイムを過ごす。
 吉羅とふたりでバスタブに漬かるという行為は、耳が熱くなるぐらいに恥ずかしかった。
「…あ、あの…、恥ずかしいので…」
「…もう何度もそれよりも恥ずかしい行為はしているだろう…? 愛でるのは私だけなのだから、気にしなくて良い…」
「大好きな暁彦さんだからこそ、…その…恥ずかしいんですけれど…」
 香穂子が複雑な女心を吐露すると、吉羅は苦笑いを浮かべた。
「…しょうがない…、とは…なかなか言えないね…。君が可愛いから」
 吉羅は苦笑いを浮かべた後、裸の香穂子を抱き上げて、バスタブへと入る。
 バスルームはマジックミラーになっていて、中からはみなとみらいの見事な夜景を見る事が出来るが、外からは中の様子が見えなくなっている。
 そのため思う存分夜景を楽しむことが出来るのだ。
 バスタブの中から、みなとみらいの見事な夜景を見る。
 なんて美しくて、まるで近未来を眺めているようだ。
 人工的な灯の美しさではあるが、そこにも人々の様々な想いが息づいていて美しいと思っていた。
「…綺麗ですね…」
 香穂子がうっとりとした声で呟くと、吉羅は背後からしっかりと抱き締めてくる。
「私は君のほうがずっとずっと綺麗だと思うがね…。君以上に綺麗な女性はいないよ…」
官能的でくぐもった声に、香穂子は甘い吐息を吐く。
「君が欲しい…」
「…あ…っ!」
 バスタブに躰を凭れさせる体勢にになり、香穂子は様々な情熱的な愛撫を受ける。
 吉羅の愛撫に肌を小刻みに震わせながら、香穂子はのぼせてしまうことなどすっかり忘れ去っていた。
 情熱と欲望が生まれるのは、ひとえに愛があるからだ。
 吉羅への激しい想いがあるからだ。
 香穂子は吉羅への愛をしっかりと感じながら、夜景を見ることすらも忘れ去って、熱情的に、ロマンティックに吉羅と愛し合った。

 キングサイズのベッドでも、また激しく愛し合う。
 お互いにお互いのことを忘れないように。
 ふたりは想いを刻み付けるように愛し合った。
 香穂子の白い肌には、吉羅が刻み付けた所有の痕の数々が、しっかりと刻み付けられる。
 こんなにも幸せで激しい嵐のような時間は、他にはない。
 香穂子は吉羅を激しく感じながら、また直ぐにこの温もりが感じられると信じて疑わなかった。

 愛し合った後、ふたりはただただ抱き合って眠りに落ちる。
 柔らかくて優しくて満たされた時間。
 愛されていると実感することが出来る素晴らしい時間だった。

 満月の朝、香穂子はいつもよりも早く、そしてスッキリと目が覚めた。
 いよいよ別れの朝だ。
 切なくはあるが、意外と落ち着いている自分がいることに気がついた。
 吉羅もそれは同じようだった。
 お互いに淡々と朝の身仕度を整えて、海が見えるラウンジで朝食を取る。
 清々しいのに何処か切ない朝だ。
 ふたりは余り語らなかった。
 語ってしまえば、感情が激しくなることを解っていたからだ。
 朝食を終えると、ふたりで手を繋いでホテルの中庭を散歩し、海を静かに眺めた。
 別れたくない感情が去来する。
 だが、ふたりの輝かしい未来のためには、別れなければならないのだ。
 この先には更なるふたりの幸せが待っているのだから。
 いよいよ時間だ。
「行こうか」
「はい」
 振り返ってはならない。
 前には幸せな未来が待っているのだから。
 ホテルを出て、車で学院に向かう。
 また逢えるのは解っているのに、泣きそうになる。
 ノスタルジックな胸の痛みに、香穂子は何も言えなかった。
 吉羅もまた同じようで、一切何も話さなかった。
 二年後と何も変わらない風景。
 だが過去なのだ。
 車はゆっくりと学院の職員用駐車場に停車した。
 香穂子は何とか想いを掻き集めて、車から降りる。
 帰らなければならない。
 気丈にならなければならないのだ。
 香穂子は、自らを奮い立たせるために、背筋をピンと伸ばして、前を向いた。
「森に向かいます」
「解った…」
 香穂子の手を吉羅が取ると、一緒に歩き出す。
 握り締めてくる吉羅の力の強さは凄くて、放したくはないと思ってくれていることが解った。
 それはとても嬉しい。
 香穂子もまたその想いに応えるように、しっかりと手を握り締めた。
 ふたりはゆっくりと森の奥へと向かう。
「アルジェントリリは待っているだろうね」
「恐らくは。居眠りしているかもしれないですけれど」
 香穂子がくすりと笑うと、吉羅もまたくすりと笑った。
 ふたりで背筋を伸ばして、ただ前を向いてその先を歩く。
 未来が待っている。
 帰らなければならない未来が。
 香穂子は、覚悟を決めて涙を浮かべることなく歩いた。
 森の奥深くまで入ったところで、リリが神妙な顔をして待っていた。
「よく来たな、日野香穂子。正直…、来ないかと思ったが、こうして来てくれたことに感謝する。この満月を逃せば、お前と言う人間がこの時間軸ではふたりも存在出来なくなる。だから…どちらかが消えるか…、どちらとも消えるか…。そんなことがあるから、お前には…、ここに来て貰いたかった」
 リリは苦しげに呟く。
 帰ると決めて良かったと、香穂子は心から思った。
 過去の自分を、未来の自分のわがままで消してはならないから。
「…リリ…、そろそろなのかな…?」
「そのあたりが我輩にも…おわっ!」
 リリが叫ぶのと同時に、香穂子は吉羅に抱き締められる。
「あ、暁彦さん…!」
「有り難う、香穂子…。未来で逢おう…」
「…はい、未来で…」
 これ以上は言葉が続かない。
 あれだけ堪えていたのに、香穂子は熱い涙を一筋零す。
「…有り難うございます…。未来で逢いましょう」
「ああ…」
 香穂子が泣き笑いの表情を浮かべたタイミングで、吉羅はそっと離れる。
 タイムリミットであることは、お互いに感じ取った。
 香穂子は真っ直ぐ森の奥に進む。
 吉羅に見送られるのを背中で感じ取った。
 その瞬間、香穂子は全身に光を感じた。
「香穂子……!!!」
 吉羅が壮絶な愛が滲んだ声で、名前を呼ぶのが聞こえる。
 同時に意識が一瞬だけ遠くなり、香穂子は無になった。

 どれぐらい無の時間があったのかは、香穂子には解らない。
 目をゆっくりと開けると、先ほどと同じ風景だった。森の奥。ただそれだけだ。
 ただ、吉羅もリリもいない。
 自分がいるべき時空へと戻ったのだろうか。
 それともまた違う時間軸に飛ばされてしまったのだろうか。
 そのあたりが解らない。
 香穂子は、今が一体いつなのかを確認するために、森を出ることにした。
 生徒達が集まる広場も静まり返っていて、授業中か夏休みなどちらかと思った。
 香穂子が広場を通り抜けると、音楽科の生徒達とすれ違った。
「日野先輩、こんにちは」
「こ、こんにちは」
 先輩と挨拶をされたところをみると、どうやら元の時間に戻っているようだ。
 だが、若干ずれているかもしれない。
 それを確認するために、香穂子は現在の日時が解る場所に向かった。
 学院の職員室近くにある日付が解るデジタル時計を見る。
 すると、確かに、飛ばされてしまう前の、元の時空に戻ってきていることが解った。
 しかも時間を見れば、殆ど変わらない時間だ。
「…ねえ、吉羅理事長、いよいよ結婚するって噂だよ」
「だろうね。指輪を用意しているのを目撃したり、教会の手配をしているのを目撃したりしているひとがいるものね」」
 生徒達の噂話を耳にする。
 結局、未来なんて少しも変わってはいなかった。



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