*きみが奏でる物語*

1


 あの音色を初めての聴いた日のことを覚えている。
 あれほど甘くて温かくて感動的な感情を抱いたことは、今までになかった。

 夕陽に輝く臨海公園を、吉羅は近道をするためだけに横切っていた。
 駐車場に向かうために、なるべくロスは避けたかった。
 ビジネスマンである以上、一秒でも時間を無駄にしたくはなかった。
 不意に温かなヴァイオリンの音色が聞こえて、吉羅は思わず足を止める。
 解っている。
 たとえ一秒たりとも無駄には出来ない。
 なのに立ち止まってずっとこの音色を聴いていたいとすら思う。
 吉羅は理性よりも自分の気持ちを優先して、ついヴァイオリンに聞き入った。
 曲名は有名なオペラ「トゥーランドット」の中の「誰も寝てはならぬ」
 クラシックに造詣がそれなりにある吉羅には、好ましい曲だった。
 ヴァイオリンを弾いている主にゆっくりと近付いていく。
 そのヴァイオリニストは夕陽のスポットライトを浴びながら、とても美しく輝いていた。
 本当に綺麗だ。
 その音色と共に、吉羅はヴァイオリニストのシルエットにも魅了されていた。
 音も姿も綺麗だ。
 だが顔はよく見えない。
 シルエットだけを見ると、華奢な少女のものだった。
 もう少しヴァイオリニストについて知りたい。
吉羅は本能でヴァイオリニストに近付こうとした。
「あっ! いけないっ!」
 愛らしい声が聞こえたかと思うと、ヴァイオリニストは演奏を止めて、駆け出していってしまった。
 泡沫のヴァイオリンコンサートだった。
 吉羅は少女が行ってしまったことを残念に思うと、再び駐車場に向かって速足で歩く。
 まるで夢から醒めたような気分だ。
 吉羅は溜め息を吐くと、再び駐車場へと向かった。

 日野香穂子は、大学の音楽学部のヴァイオリン専攻の1年だ。
 ヴァイオリンを勉強出来る環境に感謝しているが、それでも苦学生には違いない。
 ヴァイオリンを学ぶというのは、本当にお金がかかるものだ。
「…一番お金がかかるひとつは音楽を勉強することと言ったのは本当だよね…」
 今日もアルバイトのために駆けている。
 費用は掛かってしまうかもしれないが、それでもヴァイオリンを学びたかった。
 香穂子にはそれが一番だった。
 奨学金も貰っているから、ヴァイオリンを人一倍頑張らなければならない。
 だが、アルバイトをしなければ食べてはいけないから、香穂子には致し方がない選択と言って良かった。
 同じようにヴァイオリンを学ぶ大学生とは違う。
 授業の他にレッスンなんて受けることなんて出来ない。
 だが、皆以上に頑張らなければならない。
 香穂子はいつも全力疾走している気分だ。
 今夜は、特別に招かれて、財界主催のチャリティーパーティにヴァイオリニストとして花を添えるためにやってきた。
 出演料も出るので、香穂子にはそれが嬉しい。
 アルバイトを休んでも余りある出演料だったからだ。
 香穂子は大学の同期生と共に、スタンバイをしていた。
 香穂子以外は、かなり裕福な家庭の者ばかりだった。
「今日さ、セレブ中のセレブな吉羅暁彦が来ているんだって! 何だか玉の輿を狙えそうじゃない?」
「吉羅暁彦といえば、容姿端麗で長身、そして将来的には経済界を牛耳ると言われているあのひとでしょう!? うちのお父様も一目置いているわ」
「それはそうよ! あれだけ完璧な上に、独身だなんて! 誰もが夢見る男性よ!」
 同期生が騒いでいる男が、どのような男かなんて勿論、香穂子は知らない。
 吉羅暁彦なんて名前は聞いたことがないのだから。
 もし知っていたとしても、恐らくは全く住む世界が違う人間だろう。
 香穂子にはそれが解る。
 だから恐らくは興味を持つことはないはずだ。
 香穂子はただただ同期生たちの話を聴いているだけだった。
「皆さん、出番ですよ。お願いします!」
「はい」
 スタッフに声を掛けられて、香穂子たちは特設ステージへと向かう。
 今夜演奏するのは「誰も寝てはならぬ」と「ヴォカリーズ」だ。
 皆に追いつくように、香穂子はどちらも真剣に練習をしたのだ。
 練習場所は臨海公園だった。
 香穂子は、ヴァイオリンの音色に想いを込めて、丁寧に演奏を始める。
 自分が演奏で出したい音を追求するために、香穂子はヴァイオリンに集中していた。

 大学生たちのヴァイオリン演奏が始まった。
 吉羅は余り興味がなく、直ぐに帰ろうかと思った。
 だが、次に瞬間、吉羅の背中に稲妻のような感覚が走り抜ける。
 奏でられている音の中で、吉羅が臨海公園で聴いたヴァイオリンの音色がある。
 清らかで温かな柔らかく優しい音色。
 聴く者総てを癒してしまうのではないかと思う、優しい音色だった。
 この中にいる。
 あの時のヴァイオリニストが。
 吉羅はシルエットから、それらしい女性を三人見つけた。
 その中でも、一際清らかで温かな雰囲気を出しているヴァイオリニストがひとりだけいる。
 赤い髪をした華奢な少女と言っても良いというような女性だ。
 吉羅は、彼女から目が離せなくなる。
 こんなにも癒されて感動する音を聴いたことはなかったから。
 ヴァイオリン演奏が終わり、吉羅は拍手をする。
 赤毛のヴァイオリニストにだけ、吉羅は拍手をした。
 吉羅は彼女と話がしたくてゆっくりと近付いていく。
 彼女の音色を独占したかった。

 ヴァイオリン演奏が終わり、香穂子はホッとした。
 これで御役御免だ。
 食事をしたらパーティから帰る予定だ。
 香穂子がホッと深呼吸をしてステージを下りると、他のメンバーたちがざわつき始めた。
「吉羅さんがこちらに来るわよ!」
「私たちの中で誰か気に入った女性がいるのかしら!?」
「私たち」その中に自分が入っていないのは、香穂子は充分解っている。
 蚊帳の外だ。
 彼女たちのようなセレブは、香穂子のような苦学生は仲間として認めないのだ。
 香穂子は先にヴァイオリンを片付けて、食事に行こうと準備をする。
 ちらりと彼女たちが大騒ぎをしている方向に目を向ける。
 吉羅暁彦というのがどれぐらいの男なのだろうかと、何となく興味があった。
 こちらに向かって歩いてきたのは、イタリアンテーラードのスーツを見事に着こなしている、艶やかな大人の雰囲気を帯びた男だ。
 容姿はどこを取っても非の打ち所がない。
 完璧な大人の男だ。
 憧れるのは当然だろうと、香穂子はぼんやりと思った。
 昔、姉が熱心に読んでいたロマンス小説に出て来そうな男だ。
 あのような男はこの世にいないと思っていたが、いるのだと確認して香穂子は感心してしまった。
 とにかく、自分とは住む世界が違う男性だ。
 関係ない。
 香穂子はそう思い静かに離れた。
 吉羅は、香穂子以外のヴァイオリニストに囲まれてしまったが、それが嫌なのかかなり不快そうな顔をしている。
 誰もが自分を吉羅に売り込むのに必死になっている。
 香穂子は、先程、シェフが取り置きをしておいてくれたサンドイッチやサラダ、そして肉料理魚料理を食べに向かおうとした時だった。
「…君」
 艶のある低い声で呼び止められて、香穂子は思わず振り返る。
「…はい…?」
 香穂子が振り返ると、そこには吉羅暁彦が立っていた。
「君は、先日、臨海公園で、ヴァイオリンを弾いていなかったかね…?」
「弾いていましたけれど…」
 香穂子は家では練習が出来ないため、いつも公園で練習するのだ。
「探していた。君を」
 いきなり言われて、香穂子は目を丸くした。



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