*きみが奏でる物語*

2


 かなりのセレブレティであろう吉羅暁彦に、まさか探していたなんて言われるとは思ってもみなかった。
 香穂子は驚きの余り、ただ吉羅を見ることしか出来ない。
「…あ、あの…」
 他のメンバーは、明らかに香穂子に対して嫉妬心をむき出しにしている。
 睨み付けるメンバーもいて、香穂子は困ってしまった。
 誰もが我こそはと思っていたのに、吉羅暁彦が声を掛けたのが香穂子だったから、悔しくてしょうがないのだろう。
「…あ、あの…」
 香穂子は何を言って良いのかが解らずに、ただ戸惑っている。
「…名前は…?」
「日野香穂子」
「星奏学院大学の何年生かね?」
「2年です…」
 香穂子に、とても事務的な質問をした後で、吉羅は頷く。
「君の演奏が気に入った。良ければまた聴かせて欲しい」
 吉羅はそれだけを言うと、香穂子の手を握り締めてきた。
 流石にこれには驚いてしまった。
 香穂子が目を丸く見開いて息を呑んでいると、吉羅は苦笑いを浮かべた。
「握手だよ。握手で君に演奏が素晴らしかったと伝えようとしたのだが…、何か都合は悪いのかね…?」
 吉羅は、香穂子の反応を奇妙そうに見ている。
「そ、そうですね」
「では、また君の音を聴かせて貰おう。それでは」
 吉羅は香穂子の手を離すと、何もなかったかのように戻っていく。
 吉羅の手は力強くて、とても大きく、温かかった。
 感覚が掌にふんわりと残っている。
 吉羅が離れた後も、香穂子はまだドキドキを感じていた。
「日野さん自身を気に入ったわけではなくて、日野さんの演奏を気に入ったのね」
 メンバーたちは何処かホッとしている。
 それは、香穂子が女として吉羅暁彦を引きつけたわけではないからだろう。
 香穂子は流石に苦笑いを浮かべる。
「さて、ご飯を食べたら私は帰るね」
「ええ」
 皆のように上手くパーティで振る舞える自信はないから、香穂子はそのまま食事だけをして帰ることにする。
 シェフに取り置きをして貰っていた食事を食べに、控室へと向かった。
 吉羅暁彦。
 香穂子はそれほど気になっていないと思っていたのに、食事中もあの姿が目に焼き付いて離れない。
 あんなにも完璧な男は他にはいないと思った。
 だが、自分とは住む世界が違う人間だ。
 こうやってサンドイッチを食べたり、ロールケーキを頬張ったりしながらも、吉羅のことを思い出した。
「ああいうタイプのひとは、霞みを食べるような女の人を奥さんにするんだよね。住む世界が本当に違うよ。うん」
 ひとりを良いことに、つい独り言を言ってしまう。
 香穂子の中で、吉羅暁彦は鮮烈な印象を残した。

 翌週、香穂子は講師の金澤に呼ばれて、応接室に向かって歩いていた。
 奨学金を受けている手前、少しでも成績が下がれば心苦しくなる。
 成績が下がったとは聞いてはいないが、もしそうだとしたらかなり切ない。
 奨学金を切られてしまえば、香穂子は最早ヴァイオリンを学ぶことが出来なくなるのだから。
 大丈夫だと自分に言い聞かせながら、香穂子は不安な心を抱えて、応接室へと向かった。
 ドアの前で深呼吸をすると、香穂子は慎重にドアをノックした。
「金澤先生、日野です」
「入れ」
「失礼します…」
 中に入った瞬間、香穂子は息を呑む。
 そこには吉羅暁彦が立っていた。
「こ、こんにちは!吉羅さんっ!」
 香穂子は想像だにしなかった相手が目の前にいるものだから緊張してしまい、思わず声を裏返しながら挨拶をした。
「日野君、一週間ぶりだね?」
「…は、はいっ!」
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子にソファに掛けるように促した。
「掛けたまえ」
「し、失礼致します…」
 香穂子は落ち着けないままでソファに腰を掛けた。
 吉羅も続いて腰を掛ける。
「さて、早速だが本題に入る。日野、お前は奨学金を受けているが、その奨学金を、大学から別の奨学金に変えようと思っている」
 金澤の言葉に、香穂子は背筋が震えてしまう。
 今までも奨学金を貰ってギリギリだったのに、それがなくなるとなれば、いよいよお先真っ暗だ。
 ヴァイオリンの勉強が出来なくなる。
「…あ、あの…、それは…私のヴァイオリンが拙いから、大学からの奨学金が打ち切られるということなのでしょうか?」
 一番気にしていることだから、つい訊いてしまう。
「いいやそうじゃない。こちらにいる吉羅暁彦が、お前さんの大学費用の総てを持ってくれると、申し出てくれている。だから大学としての奨学金は必要ではなくなる。どうだ? 悪い話ではないだろう?」
 金澤は深みのある笑みを浮かべて、香穂子を見つめてくる。
 確かに悪い話ではない。
 それどころかかなり有り難い話だ。
「あ、あの、吉羅さん、本当によろしいんでしょうか?」
 香穂子が嬉しさを滲ませたまなざしで吉羅を見つめると、静かに頷いてくれた。
「君の演奏を聴いて、是非、素晴らしいヴァイオリニストになって欲しいと思った。君の演奏にはかなりの可能性を感じた。解釈面ではとても素晴らしいと思う。だが、技術的にはまだ追いついてはいない。だから、その部分を伸ばして貰えたらと、私は思っている。そのためにも君に援助をしたい。芸術家にはパトロンのようなものはつきものだからね。私は、君に素晴らしいヴァイオリニストになって欲しいんだよ」
 吉羅がこんなにも自分を評価してくれているとは、香穂子は嬉しくてしょうがない。
 今までここまで評価をしてくれるひとはいなかった。
「有り難うございます。とても嬉しいです。吉羅さんさえよろしければ、奨学金を受けさせて下さい」
 香穂子が深々と頭を下げて言うと、吉羅はゆったりと頷いてくれた。
「勿論だ。君には素晴らしいヴァイオリニストになって貰いたいからね。これで契約成立ということで、構わないかね?」
「あ、有り難うございます。よろしくお願い致します」
「こちらこそ」
 吉羅が手を差し出してくる。
 香穂子が同じように手を差し出すと、吉羅はその手をしっかりと握り締めて、握手をしてくれた。
 力強くと安心する手なのに、とても繊細な雰囲気がある。
「有り難うございます」
「これからもよろしく」
 手が離れた瞬間、香穂子の胸はきゅんと音を立てて鳴り響いた。
「日野、話は以上だ。授業に戻れ」
「はい。吉羅さん、本当に有り難うございます。最高のヴァイオリニストになれるように、しっかりと頑張っていきますね」
「期待しているよ」
 香穂子はソファから立ち上がると、再び深々と頭を下げた。
「日野君、君の携帯電話の番号とメールアドレスを教えてくれないかね?」
「あ、はいっ」
 香穂子は手持ちの付箋メモに、携帯電話の番号とメールアドレスを走り書く。
「このようなメモですみません」
「いいや。付箋なら便利だからね。有り難う」
 吉羅は香穂子から付箋メモを受け取ると、立派な手帳に貼り付けていた。
 ブランドのシステム手帳のようだったので、何だか間の抜けたメモだと香穂子は恥ずかしくなった。
「それでは授業がありますからこれで失礼します」
「ああ」
 香穂子は、もう一度ふたりに深々と頭を下げると、応接室を後にした。
 こんなにも素敵な申し出なんて本当に滅多とないことだ。
 香穂子はそれが嬉しくてしょうがない。
 これから当分は、何も気にすることなくヴァイオリンを勉強することが出来る。
 それが香穂子には何よりも幸せで、嬉しいことだった。



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