*きみが奏でる物語*

3


 日野香穂子のことは、かなり細かく調べ上げた。
 奨学金を受けている苦学生だと知り、吉羅はむしろ好都合だと思った。
 香穂子を援助し、素晴らしいヴァイオリニストになることに手を貸すことが出来るのだから。
 吉羅は、直ぐに星奏学院大学の講師で知人の金澤に連絡をし、香穂子との面会を取り付けて貰ったのだ。
 あの音色を独り占めしたい。
 吉羅はただそれだけを思っていた。
 香穂子の音色は、それほどまでに吉羅に影響を与えていたのだ。
 香穂子よりも巧いヴァイオリニストはいくらでもいるだろう。
 だが、あれほど心に響くヴァイオリニストは他にいない。
 だからこそ手を貸してあげたくなった。
 奨学金を申し出た時の香穂子は本当に嬉しそうだった。
 これ以上は、金銭的な苦労はさせたくはない。
 吉羅はその一心で申し出たのだ。
 のびのびと香穂子にはヴァイオリンを学んで欲しかったからだ。
 こんなに自分が情熱的だということを、吉羅は初めて知った。
 香穂子のヴァイオリンがそう思わせるのか、それとも香穂子自身がそう思わせるのかは、この時には、解らずにいた。

 香穂子は少しは経済的に余裕が出たせいか、本当にホッとしていた。
 これも吉羅暁彦のお陰だ。
 それは本当に感謝をしている。
 香穂子は、いつかきちんと吉羅には礼を言わなければならないと思っていた。
 今日も臨海公園でヴァイオリンの連絡をする。
 公園と大学が、香穂子にとっては一番の練習場所だった。
 今日も公園でヴァイオリンを練習する。
 ストリートは本当に気持ちが良かった。
 香穂子が今日も気持ち良くヴァイオリンを奏でた後、誰かが背後で拍手をしてくれた。
 振り返ると、そこには吉羅暁彦がいる。
「日野君、今の演奏は悪くなかった」
「有り難うございます」
 吉羅に褒められたのは嬉しい。
 香穂子はつい笑顔になった。
「日野君、少し時間はあるかね?」
「はい、大丈夫です」
「だったら、昼食に付き合って貰って構わないかね?」
「勿論です!」
 香穂子は、吉羅に誘われたのが嬉しくて、つい満面の笑顔で答えた。
「有り難う。では、近くに車を置いているから、そちらまで行こうか」
「はい、有り難うございます」
 香穂子がは笑顔で答えると、吉羅は柔らかな大人の笑みを浮かべてくれた。
 駐車場に行き、香穂子は目を丸くする。
 吉羅の愛車はランボルギーニだ。
 外車なんて初めてで、香穂子は思わず気後れした。
「乗りなさい」
「はい…」
 吉羅に言われて、香穂子は緊張しながらもなんとか車に乗り込んだ。
「美味い寿司があるんだよ。そこに行こうか」
「有り難うございます」
 寿司なんてなかなか食べられないから嬉しい。
 香穂子はにんまりと笑うと、楽しい気分になった。
「日野君、君はいつも公園でヴァイオリンの練習をしているのかね?」
「はい。私が暮らしている寮も防音室がありますが、予約を取るのが大変なんです。だから、こうしてあぶれた時には、公園でヴァイオリンを弾いています。勿論、大学の練習室がありますから、そちらを利用する場合もありますけれどね」
「…そうか。君の大学は家から通っている者や、防音マンションで一人暮らしをしている者が多いと聞いているが…」
「確かに寮生は少ないです。寮もそんなには大きくないですから」
「そうか…」
 吉羅は頷くと、前を見つめながら口を開く。
「うちで下宿をするのはどうかね?」
「下宿!?」
 いきなりの展開に香穂子はつい戸惑ってしまう。
「うちは完全防音で部屋も沢山ある。そして、食事などは通いの家政婦さんがいるから不自由なことはない。君さえ良ければだが。うちにいれば、いつでもヴァイオリンの練習を思い切りすることが出来るからね」
 確かにかなり魅力的な申し出だ。
 その官能的な響きに、香穂子はドキドキしてしまう。
 吉羅はと言えば、クールなままで淡々と言っている。
 本当にパトロンとして、香穂子が一人前のヴァイオリニストにしたいと思ってくれているのだろう。
 その気持ちがとても有り難い。
「だけど、ご迷惑ではありませんか…? 私なんかが吉羅さんの家に下宿をしていたら、吉羅さんの恋人さんだとかが、心配したりはしないですか…? 嫌がったりはしないですか?」
 香穂子は自分で言っていて切なくなる。
 それに香穂子自体が、吉羅と恋人が仲睦まじくしているのを見るのが、かなり嫌だった。
「…それは大丈夫だ。私は女性を家には呼ばない。よほどのことがないとね。だから、君は全く心配しなくて 構わない。迷惑など、一切ないからね」
 吉羅は淡々と言い、表情を変えない。
 恐らくは香穂子をヴァイオリニストだと認識してはいても、女としては認識していないからこそ、こんなことが言えるのだろう。
「…考えます…」
「ああ」
 香穂子は複雑な気分になりながら、やっとのことでそう呟いた。

 車は築地の高級寿司屋の駐車場に停まり、香穂子は驚いて目を丸くした。
「こんなお寿司屋さんに来るのは初めてです」
「ここの寿司屋はとても美味しいからね。私は気に入っているんだよ」
 吉羅はさり気なくエスコートをして、香穂子を連れて行ってくれる。
 とても大切にされているような気分になり、嬉しかった。
「何でも好きなものを食べると良い」
「有り難うございます」
 香穂子は吉羅や職人に、お勧めを訊きながら、寿司を楽しんで食べた。
「本当に美味しいです。何だかヴァイオリンを弾く力が出て来たような気がします」
「そうか」
 吉羅はフッと笑うと、香穂子に優しいまなざしを向けてくれる。
 それが嬉しくてしょうがなかった。

 食事を終えた後、香穂子は申し訳ない気分になる。
 自分に何が返せるのだろうかと思うと、何もないのが心苦しい。
「吉羅さん、本当に有り難うございます。ご馳走さまでした。私に何かが返せたら良いのですが…」
「じゃあヴァイオリンを弾いてくれないかね? このまま臨海公園へと向かうから、私にヴァイオリンの音色を聴かせてくれ」
「はい! 喜んで!」
 ヴァイオリンが吉羅の望むことなのならば、いくらでも演奏しようと思う。
「私、ヴァイオリンを演奏するのが大好きだから、嬉しいです」
 香穂子が笑顔で答えると、吉羅もまた笑顔で返してくれた。
「夕暮れのドライブになるね。ちょうど良いかもしれない」
 吉羅の言葉に、香穂子は益々嬉しくなる。
 夕暮れのドライブだなんて、なかなか経験することが出来ないものだからだ。
 香穂子は楽しみでしょうがなくて、じっと車窓を眺めていた。

 こんなにも素直で純真な女性に出会ったのは初めてだ。
 吉羅にとって、香穂子はありとあらゆる新しい発見をさせてくれる女性だと思った。
 こんなにも素直に喜んで貰えるなんて、思ったことはなかったのだから。
 吉羅にとっては何もかもが新鮮な驚きだった。
 吉羅は、ちらりと助手席の香穂子を見る。
 本当に楽しそうに景色を見ているのが解る。
 子供のような無邪気な顔に、思わずくすりと笑みを零した。
 音も、その心も、そして笑顔も…。
 総てが吉羅を魅了してやまない。
 吉羅をここまで魅了をする女性は、今までいなかった。
 そばに置きたい。
 ただそれだけを想い、吉羅は香穂子に「下宿」を申し出た。
 吉羅は、誰かをそばに置きたいと思ったことなど今までないことだった。
 それゆえにどれほど香穂子に惹かれているかを痛感していた。



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