*きみが奏でる物語*

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 吉羅はベイブリッジを渡って横浜に入ってくれた。
 それがロマンティックが香穂子には嬉しい。
「ベイブリッジってやっぱりロマンティックで、走っているだけでうっとりとした気分になりましね」
「そうかね」
 吉羅はほんのりと笑うと、とても魅力的な表情を浮かべる。
 色があり、香穂子はドキリとさせられた。
 こんなにもドキドキする横顔は、他にないのかもしれない。
 香穂子はベイブリッジからの美しいサンセットではなく、すっかり吉羅暁彦に魅了されていた。
 こんなにもうっとりと見つめることが出来る男性は他にいない。
 パーティの夜、吉羅を見て大騒ぎをしていた者たちの気持ちが痛いほど解るような気がした。
 車は横浜に入り、直ぐに臨海公園へと着く。
 あっという間のドライブ。
 本当に短くて、香穂子はしょんぼりとした気分になった。
 ヴァイオリンを片手に、ベイブリッジを望む場所で香穂子は立つ。
 ここが香穂子にとっての定番の場所だ。
 ここでいつもヴァイオリンを演奏している。
 ロマンティックな気分になれるからだ。
「…では、この雰囲気にぴったりの曲“新世界”を…」
 吉羅が頷くと、香穂子はヴァイオリンを構えた。
 心を込めて、ヴァイオリンを奏でる。
 吉羅への感謝とほんのりと芽生え始めた想いを音色へと乗せて。

 吉羅は、香穂子の姿もヴァイオリンの音色にも魅了されていた。
 香穂子の姿を目で追い、耳では彼女にしか奏でることが出来ない音色を追いかけている。
 臨海公園で初めて見て聴いた時よりも、更に美しく温かになっている。
 こんなにも素晴らしい音色と姿は他にはない。
 香穂子を捕まえていたい。
 こんなにも美しいシーンは他にはないと吉羅は思った。
 夕陽と“新世界”のメロディがノスタルジーを誘う。
 吉羅にとっては最高のビジュアルと音だった。
 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は拍手をする。
 すると本当にやせ細った子猫がひょろひょろと歩いて、香穂子に近付き甘えながら一声鳴いた。
「有り難う」
 香穂子はヴァイオリンをケースに片付けると、子猫をそっと抱き上げる。
「…可愛い。だけど、可愛いそう…」
 香穂子はボロボロの猫を見て、今にも泣きそうになっている。
「お前を飼いたいのに、飼えないんだよ…。私は寮に住んでいるから…」
 香穂子は切なくて溜め息を吐く。
 吉羅はそっと猫を見つめた。
「…私が飼っても構わないがね…」
「…え…?」
 香穂子は泣きそうだった瞳から涙を引っ込めて、吉羅を見上げた。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。うちなら部屋はあるからね。…だが、先ずは獣医とペットサロンに連れていかなければならないね」
「はい」
「早速、連れて行こうか」
「はいっ!」
 吉羅の言葉に、香穂子は本当に愛らしい笑みを浮かべる。
 吉羅は何度見ても、本当に愛しいと思った。

 子猫を獣医に診て貰い、免疫を上げるための注射を受けに、数日、通わなければならないとのことだった。
 吉羅は、ペットサロンで子猫をシャンプーに出している間、必要なものを総て買い揃えた。
 大きなものは総て配送にしたが、直ぐに必要なものは車に積み込む。
 流石は吉羅暁彦だと、香穂子は関心してしまう。
 吉羅には感謝してもしきれないと思った。
「とりあえずは君を寮に送らなければならないね。子猫がいるからレストランには入れないから、ドライブスルーで何かを買おう」
「有り難うございます」
 吉羅は結局、ハンバーガーショップでドライブスルーをしてくれた。
 猫まで面倒を見てくれるなんて、思ってもみないことだった。
 子猫と吉羅と暮らす。
 これ以上に理想的な生活は他にないのではないかと思った。
 香穂子の気持ちはこれで完全に決まった。
 吉羅と暮らすことが、一番良いように思える。
 猫と一緒にいられることも勿論だが、誰よりも吉羅と近い場所にいられるのが嬉しかった。
「…吉羅さん…、私…、吉羅さんのところで下宿をさせて頂いても良いですか…? 吉羅さんのところにいるのが、一番良いような気がします」
 様々な辛いこともあるかもしれない。
 だがそれを乗り越えていけそうな気もしていた。
「そうか…。私も君にとってはそれが一番良い方法だと思う」
 吉羅は淡々と言い、頷いてくれた。
 なんて心が広い男性なのだろうかと、香穂子は思う。
 ここまで手を差し延べてくれるのは、吉羅が初めてだ。
 香穂子は、辛いことは素敵な生活で乗り越えてゆけるだろうと感じていた。
「だったら、早速だが、引越しの準備をしてくれたまえ。日野君。うちはいつでも君を受け入れられるから。私の連絡先も渡しておこう」
「はい、有り難うございます」
 吉羅はメモに連絡先を丁寧に書いて渡してくれた。
「日野君、待っているから、近いうちに引越ししてきたまえ」
「有り難うございます」
 早く引越しの準備をしなければならない。
 だが、直ぐにそれは終えることが出来るだろうと、香穂子は思った。
「これからお世話になります」
「こちらこそ宜しく頼むよ」
 吉羅との生活が始まりを告げた。

 翌日から、香穂子は退寮の手続きに入った。
 荷物は余りなく、吉羅が単身の引越しパックを頼んでくれたのが、かなり助かる。
 また寮に帰って来ることがあるかもしれないが、それは出来る限りに避けたいと香穂子は思っていた。
 吉羅の申し出を受けてから一週間程で片付けを終えて、香穂子は横浜山手にある吉羅邸での生活を始めることになった。
 引越しをして先ず驚いたことは、吉羅の言葉通りに、かなりの大きな家で、沢山部屋があった。
 香穂子はその中のひと部屋をあてがって貰った。
 広くてゆったりとした部屋は、寮よりも格段に気持ちが良かった。
 荷物を片付け終わると、猫の小さなサークルが香穂子の部屋に置かれた。
 猫が何処でも眠ることが出来るようにと配慮されているのだろう。
 香穂子にとってもそれは嬉しかった。
 猫と一緒にヴァイオリンを自由に奏でても良い生活が送れるなんて、こんなにも嬉しいことはないと、香穂子は思う。
 今夜は家政婦が食事を用意してくれたお陰で、香穂子はゆったりとした気分で、吉羅を待つことにした。
 吉羅が帰って来ると、香穂子は早速猫と一緒に、吉羅を迎えにいった。
「おかえりなさい…」
「ただいま」
 吉羅は低い声で言うと、そのまま自室へと向かった。
 何も出来ないのは辛いところだが。香穂子はやることが出来る部分はやることにした。
 香穂子が食事の準備をした後、吉羅がダイニングにやってきた。
「有り難う」
「ついで並べただけです」
「それでも充分だよ。有り難う」
 吉羅と家でひとつのテーブルを囲んで食事をする。
 今日からはここが香穂子の自宅になるのだから。
 吉羅ととりとめのない話をしながら、食事を楽しんだ。
 香穂子は、レストランで食べるよりも、こうして笑顔でいられるのが嬉しかった。

 後片付けをした後で、香穂子はヴァイオリンの練習をする。
 その様子を、吉羅がじっと耳で確認をしてくれた。
「日野君、君はもう少し技術を磨くだけで、良いヴァイオリンの音色を奏でることが出来るだろうね。ここでは 練習を気兼ねなく出来るから、頑張るんだ」
「はい、有り難うございます」
 吉羅は香穂子のヴァイオリン演奏の向上のためだけを考えてくれている。
 それはとても嬉しい。
 だが、切ない。
 この気持ちが何なのか、香穂子は知りたくないと思っていた。



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