*きみが奏でる物語*


 吉羅家での生活は、香穂子にとってはとても快適だった。
 今までよりもかなりヴァイオリン演奏に時間を割くことが出来るし、何よりも気兼ねなく練習することが出来るしのが嬉しかった。
 ヴァイオリンに今は力を入れていかなければならない。
 これほどまで手を差し延べて貰っているのだから、それに応えたかった。
 香穂子が練習に集中出来るようにと、住込みのハウスキーパーまで雇ってくれた。
 ハウスキーパーの女性は六十代で、以前から吉羅家を切り盛りしてくれていた。
 そのせいか香穂子も直ぐに打ち解けることが出来た。
 様々な環境を整えて貰えて、これ以上のことはない。
 だからヴァイオリンで恩返しをしなければならない。
 良い演奏を吉羅に聴いて貰いたい。
 返せることと言えば、それぐらいしかないのだから。
 ヴァイオリンで繋がっている吉羅との関係。
 これ以上は望んではいけないのだ。
 そんなことをすれば、本当に罰が当たるだろう。
 高望みは決してしてはいけないと言い聞かせて、香穂子はヴァイオリン演奏に集中することにした。

 吉羅は多忙なせいか、殆ど家で顔を遭わせることはない。
 いつも家政婦さんとふたりきりの食事だ。
 やらせてばかりだと申し訳ないから、香穂子はなるべく手伝うようにしていた。
 ただ洗い物だけは、吉羅から言われているせいか、殆どさせては貰えなかった。
 いつ吉羅が帰ってくるのか、香穂子は殆ど知らない。
 仕事の他のことも色々とあるのだろうかと思う。
 香穂子はそんなことを考えながら、いつも眠りに落ちていた。

 真夜中、香穂子は喉が渇いてしまい、キッチンへミネラルウォーターを取りに行った。
 これからは部屋に置いておかなければならないだろうと、香穂子はぼんやりと考えていた。
 ダイニングチェアーに腰掛けて、ミネラルウォーターを飲んでいると、物音が聞こえた。
「どうしたのかね!? こんな時間まで起きていたのかね?」
 吉羅がキッチンに入ってきて、香穂子を冷たく見つめている。
「…喉が渇いて目が覚めたので、ミネラルウォーターを飲みに来たんですよ」
 香穂子は、厳しい吉羅のまなざしにほんの少しだけ戸惑う。
「…そうか。早く部屋に戻って休みなさい。明日も大学だろう?」
「はい。お気遣い有り難うございます」
 香穂子は頷くと、椅子から立ち上がった。
「吉羅さんもお忙しいのは解りますが、余り無理をされないようにして下さいね」
「解っているよ」
 吉羅はフッと僅かに笑うと、香穂子の頭を撫でた。
 一瞬、甘くて魅惑的な香水の香りがする。
 女性の香りだ。
 恐らくは一緒にいた女性がつけていたものなのだろう。
 香穂子には到底身に纏うことが出来ないタイプの香水。
 大人で美しい女性を象徴しているもののように、思えた。
 恐らくは吉羅の恋人が好む香りなのだろう。
 それが香穂子にはほんのりと痛い事実として、胸に刻まれる。
 つい吉羅の整いすぎたクールな横顔を見つめてしまう。
 それに気付いたのか、吉羅は不快そうに眉を上げた。
「…早く休みなさい…」
「はい。おやすみなさい…」
 香穂子は、胸が詰まるほどに痛くなるのを感じながら、吉羅に頭を下げた。
 自室に戻るまでも、ドキドキし過ぎて、どうしようもなくなってしまう。
 息苦しくてどうして良いのかが、香穂子には解らない。
 部屋に戻ってひとりになった時、香穂子は瞳から涙が溢れるのを感じた。
「…何、泣いているんだろ、私…」
 香穂子は何度も手で涙を拭う。
 深呼吸をしても胸の痛みがおさまらない。
 吉羅がコロンの香りをさせていただけで、こんなにも胸が痛いなんて、思ってもみなかった。
 ベッドに入ってもなかなか眠れない。
 解ってはいる。
 嫉妬などしたところで、どうにもならないことぐらいは。
 吉羅とは住む世界が違うひとなのだ。
 いくらひとつ屋根の下にいたとしても、吉羅は手を伸ばしても届かない存在なのだ。
 そのことを自分でも解らなければならないのに、なかなか解らない。
 それが香穂子には辛いところだ。
 目を閉じて、深呼吸をして、何度も自分を落ち着かせようとする。
 だが落ち着けない。
 甘くて魅惑的な香りの持ち主は誰なのだろうか。
 そればかりを考えてしまい、香穂子はなかなか眠れなかった。

 キッチンで香穂子を見た時、吉羅は清らかな妖精がいるのかと、一瞬、錯覚してしまった。
 今まで、“清らかさ”とは無縁の場所にいたせいか、香穂子の清々しい美しさは新鮮だった。
 吉羅にとってはここまで清らかさを発する女性は初めてだった。
 香穂子の姿を見た瞬間、心が癒されたのは言うまでもなかった。
 今日の財界の会合で一緒に来て貰った女は、確かに美しい。
 だが、香穂子のようにナチュラルな美しさではなかった。
 知性もあり、美しさもある。
 だが、香穂子のように人としての美しさが足りない。
 香穂子とつい比べてしまう。
 吉羅は比べてもしょうがないのは解ってはいるが、香穂子と比べずにはいられない自分が嫌で仕方がなかった。
 吉羅は溜め息を吐いてミネラルウォーターを口に含む。
 香穂子がずっとキッチンにいれば、あのまま抱き締めてしまっていただろう。
 流石にそれは出来なかった。
 まだ共に暮らしたばかりの上、香穂子の弱い立場を利用するようなことは、したくはなかった。
 香穂子がひとりの男として思ってくれているのであれば話は別なのだが、そうでない以上は抱き締めることは出来そうになかった。
 吉羅はゆっくりと自室へと戻る。
 香穂子を抱き締められたら良いのにと、思わずにはいられなかった。

 今日もまたヴァイオリンの練習に集中しようとする。
 だが、昨夜の吉羅が纏っていた香りが頭に張り付いて離れなくて、なかなか集中出来ない。
 香穂子は何度も深呼吸をして、切ない邪念を振り払おうとした。
 だが、難しいことに気が付いた。
 香穂子は何度も溜め息を吐きながら、今すべきことは、ヴァイオリンに集中することだと、何度も自分に言い聞かせる。
 だが、言い聞かせればするほど、ヴァイオリン演奏は上手くいかなかった。
 そんな大それた想いを抱いてはならない。
 解ってはいる。
 だが、吉羅のような男がそばにいたら、夢見ずにはいられない。
 近くて遠いひと。
 心がもっともっと近ければ良いのにと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 吉羅は、金澤に呼び出されてバールに来ていた。
「まさかお前さんがそこまで行動するとは、俺は思わなかったがな」
 金澤は苦笑いを浮かべながら、吉羅を見る。
「私は彼女を何不自由なく立派なヴァイオリニストにするために動いたまでですよ」
 吉羅はしらっと言うと、金澤を何でもないことのように見た。
「吉羅よ、日野が留学をするとか言ったら、お前は許さないんだろうな」
 金澤に指摘をされて、吉羅はドキリとする。
 確かに香穂子に留学したいと言われたら、許せないかもしれない。
「…やっぱりな…。しっかし、お前がそこまで誰かに執着をするなんて、本当に珍しいな。今までなかったんじゃないか?」
 金澤の的を得た指摘に、吉羅は言葉を繋げることが出来なかった。
「…日野君は素晴らしいヴァイオリニストになります。私はその様子を目を離さずに見ていきたいんです」
 吉羅はそれだけを言うと、カプチーノに口をつける。
 今はそれしか言うことが出来なかった。
 香穂子を離したくない。
 想いはただそれだけだった。



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