*きみが奏でる物語*


「ヴァイオリン演奏を私に…!」
 金澤に呼び出されて教員室に行くと、いきなり、横浜港開港150周年記念プレパーティでのヴァイオリン演奏の依頼が待ち受けていた。
 香穂子は驚いて目を丸くする。
 嬉しさの余りに、心臓がかなりドキドキしていた。
「本当に私で良いんですか…!?」
「ああ。お前さんがこの間、財界のパーティに出た時の音色が素晴らしかったからな。お前さんがヴァイオリンのソリストに選ばれた。しっかり頑張れ」
「有り難うございます」
 いきなりそのような大きなパーティで演奏をすることになるなんて、思ってもみなかった。
「日野、お前はうちの大学の代表だ。しっかりと励め」
「有り難うございます」
 こんなチャンスがまさかやってくるとは、思ってもみなかった。
 香穂子は、吉羅と出会ってからというものついていることばかりが起こっていると、思わずにはいられなかった。
「…私、しっかり頑張ります…!」
「ああ。お前さんならやれるだろう。しっかりな」
 金澤は頷きながら言うと、香穂子を真直ぐ見た。
 これからしっかりと頑張らなければならない。
 ヴァイオリンの技術を磨いて、良い演奏を届けることが出来るようにと、思わずにはいられない。
「話はそれだけだ」
「はい。有り難うございました」
 香穂子は金澤に深々と頭を下げると、部屋から出た。
 今日からしっかり頑張らなければならない。
 前を向いて、ヴァイオリンの技術を磨いていかなければならない。
 香穂子は躰中にやる気が漲っているのを感じながら、先ずは練習室へと向かった。

 横浜港の開港記念パーティで、ヴァイオリンのソリストに選ばれたことを、吉羅に早く報告したい。
 香穂子は夕食時にうきうきとしながら、吉羅を待ちわびていた。
 恐らくは喜んでくれるだろう。
 香穂子がヴァイオリニストとしてステップアップをするのを、何よりも喜んでくれるひとだから。
 香穂子は、吉羅を待ったが、結局は帰ってこず、先にご飯を食べることにした。
 ご飯を食べても帰ってこず、練習に入る。
 吉羅はなかなか帰って来なくて、段々と切ない気分になってきた。
 誰よりも早く、吉羅には報告をしたいのに。
 いくら待っても帰ってきてはくれない。
 香穂子は、心がしょんぼりとしてくるのを感じていた。

 吉羅が帰ってきたのは、またしても深夜だった。
 流石に香穂子も諦めて、お風呂に入り、今から寝ようとしていた時だった。
 吉羅が帰ってきた音を聞いて、香穂子は慌てて玄関先へと向かった。
「おかえりなさい、吉羅さん」
 香穂子が声を掛けると、吉羅は少しばかり機嫌が悪いのか、不快そうに眉を寄せた。
「…まだ、寝ていなかったのかね?」
「あ、あの…、吉羅さんにどうしても伝えたいことがあったので、こうして待っていたんです…」
 香穂子は、吉羅の冷たい雰囲気にたじろぎながら、何とか誤魔化して言う。
「報告ならば明日の朝でも構わない。明日の朝食では顔を合わせるわけだからね」
「…そうですが…」
 誰よりも早く知って欲しいという気持ちを、吉羅は理解してはいないようだった。
「…吉羅さん、あの…。どうしても聞いて欲しいことがあったんです…。あ、あの横浜開港記念のパーティで演奏することになったんです」
 香穂子はおどおどとしながら言う。
 すると吉羅は、軽く溜め息を吐いてきた。
「…それはおめでとう。だが、明日の朝でも良かったんだがね」
 吉羅は淡々と言うと、香穂子の横をすり抜ける。
「…早く眠りなさい。夜更かしは躰には良くないからね…」
「…そう…ですね…」
 香穂子はそれだけを言うと、吉羅に頭を下げた。
「おやすみなさい…」
 香穂子が吉羅の横を過ぎると、またあの甘くて魅惑的な香水の香りがした。
 自室に帰った後、香穂子は泣きそうになる。
 吉羅は余り喜んではくれなかった。
 大したことはないと、思っているからかもしれない。
 香穂子は妙に寂しい気分になってしまう。
 それに、またあの香水の香りがした。
 恐らくは恋人と過ごしたのだろうと、香穂子は思う。
 本気になってはいけない。
 吉羅はあくまで香穂子のパトロンなのだ。
 だから吉羅が恋愛感情を香穂子に抱くことはあり得ないのだ。
 そう思うと、涙がポロポロと零れ落ちてきた。
 手を伸ばしても届かないひとに、いくら恋をしてもしょうがない。
 解っているのに、吉羅に恋をせずにはいられなかった。

 あのひとは恋をしてはいけないひと。
 あのひとが恋をしてくれることはないこと。
 余りに立場が違いすぎる。
 香穂子は泣きそうな気分で毎日を過ごす。
 パーティでの演奏者に選ばれた以上は。頑張るしかないのだが。
 香穂子は心が沈んでいると、何もかもが沈んでくることを改めて知った。
 練習室から出ると、吉羅と出会ったパーティで一緒に演奏をした者たちと出会った。
「日野さん! 今度、横浜港開港記念パーティで、ヴァイオリンを演奏されるんですってね!」
 声を掛けられて、香穂子はふわりと柔らかな笑みを浮かべながら頷いた。
「そうだよ、その演奏のために練習しているんだ」
「皆さん、パーティに参加するからと断られた方が多いと聞きましたわ。沢山音楽学部のメンバーが見えると思いますから、頑張って下さいね」
 香穂子は心臓を針で突かれたような気分になる。
 だが、言い返すことは出来なかった。
 何とか自分の中で我慢をして、香穂子は耐え忍んだ。
 笑顔を向けながら、香穂子はじっと耐える。
「では、皆さんが笑顔で聴いて下さるように、頑張るね」
 香穂子はそれだけを言うと、足早に立ち去った。
 吉羅への恋心でこころが折れてしまいそうになっているのに、更に追い討ちをかけられているような気分になる。
だが、そんなことぐらいで怯めない。
  何とか踏ん張らなければならない。
 香穂子は深呼吸をすると、わざと歩幅を大きくして歩いていった。
 ここを乗り越えてゆけば、きっと虹が見えてくると思うから。

 香穂子は雑念を振り払い、今はパーティの演奏が上手くいくように集中することにした。
 なるべくヴァイオリンのことだけを考えるようにする。
 吉羅への生身を引き裂かれるような想いを、ヴァイオリンがうめてくれるかもしれないと、思ったから。
 雑念を払うと、不思議とヴァイオリンの力がついてきたような気がする。
 香穂子は、なるべく吉羅とは今は距離をおかなければならないと、考える。
 自分の精神衛生的なことを考えて。

 最近、香穂子が余り顔をあわせては来ない。
 ひとつ屋根の下で暮らしているというのに、朝食時間以外で逢うことがない。
 吉羅は切なくて重い気分になる。
 吉羅が今までこのような想いを抱いたことなど、一度としてなかったからだ。
 香穂子が横浜港開港記念パーティのソリストに選ばれたのは、吉羅としても嬉しいことだった。
 だが、それ以上にステップアップして欲しくて、あえて褒めることをしなかったのだ。
 それが裏目に出てしまったのだろうか。
 香穂子は以前よりも素っ気なくなり、ヴァイオリンにだけ心を開いているように思えてならなかった。
 近付けたと思えば、また遠くなる。
 恋とはなんて複雑怪奇なものなのだろうかと、吉羅は思わずにはいられなかった。
 香穂子への想いが日に日に深くなっていく。
 段々とその想いで息苦しくなっていくのが、吉羅にはたまらなく幸せで、切なかった。



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