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パーティで香穂子のヴァイオリンに演奏をつけてくれるピアニストが決まった。 指揮専攻の土浦だ。 同じ学年であるから、香穂子にとってはお馴染みの相手だった。 今はピアノを専門にはしていないが、その技術はかなりのもので、将来的には、オーケストラと“弾き振り”共演なども見られるのではないかと、香穂子は思っていた。 土浦とはヴァイオリン練習の合間に、何度か合わせることになった。 気心が知れた土浦が演奏者だから、香穂子も安心してヴァイオリンを奏でることが出来るのだ。 それは強みになる。 香穂子は今日もヴァイオリン練習の後で、土浦のピアノと合わせることにした。 「あ、日野、今度、近くのジャズバーで、演奏者するんだが、お前も良かったら参加しないか? 勉強になるぜ。俺はピアノで参加する予定だが、良かったらこれをやらないか? ジャズのスタンダードだ。お前が良ければ、このナンバーに参加して欲しいんだよ」 土浦は、香穂子に楽譜を手渡してくれる。 それを見ると、香穂子は俄然やる気になってきた。 “私を月に連れていって” “帰ってくれて嬉しいわ”の2曲だ。 「お前もパーティでの演奏があるから、無理はするなよ。まあぶっつけ本番ぐらいのイメージで、2、3回練習してくれたら良い。お前なら出来るだろう」 「有り難う。だけど、訊いてみるね」 「訊いてみるって、誰にだよ」 土浦は不思議そうに言う。 「一応、今、音楽の保護者と一緒なんだよ。だからね」 「そうなのか」 土浦は不思議そうに香穂子を見つめているが、上手く説明をする自信が、香穂子にはなかった。 翌朝の朝食の席で、香穂子は吉羅に訊いてみることにした。 「吉羅さん、来週の土曜日の夕方に、ジャズバーに飛び入りでライブに参加しようと思っていますが、参加しても構わないですか…?」 「ジャズバー…」 吉羅は途端に、少し気難しい表情になる。 「…それは何時からかね?」 「7時に始まって2曲だけ参加します。それでおしまいです」 「7時か…」 吉羅は厳しい声で溜め息を吐いている。 今まで、香穂子がかなり規則正しい生活をしていたせいか、吉羅はあえて生活のルールなどを言っては来なかった。 「…そのライブに私が見に行き、君が演奏を終えて直ぐに私と帰るのなら許可をしよう」 吉羅は条件をつけてきたが、渋々ではあるが認めてくれている。 それが香穂子には嬉しかった。 「吉羅さん、有り難うございます。ではその条件で良いです。パーティの演奏に良い影響を出せるような気がして、参加したかったんです。有り難うございます」 香穂子が深々と頭を下げると、吉羅はフッと笑った。 「私も君のヴァイオリンが聴けるのを楽しみにしている」 「はい」 吉羅にヴァイオリンを聴いて貰えるなんて、こんなにも嬉しいことはない。 吉羅には、色々なライブを聴かせたかった。 吉羅にヴァイオリンを聴いて貰える。 それだけで嬉しくて、香穂子は渡された楽譜を1日だけだがしっかりと練習をした。 開港記念パーティでの演奏が疎かにならないようにと、思ったからだ。 香穂子は持ち前の耳の良さで感覚を掴んでいき、ヴァイオリンを奏でていく。 吉羅に聴いて貰える。 それだけで嬉しかった。 当日はリハーサルも兼ねて、少しだけ早くジャズバーに入った。 「今日は宜しくお願いします」 ジャズマンや土浦に深々と頭を下げて、香穂子は挨拶をした。 「今日は宜しくな」 挨拶の後は、早速、音合わせを兼ねたリハーサルになる。 流石はプロも含まれているだけに、かなり音が合わせやすかった。 正確には合わせてくれているのだろう。 それをよく解っているからこそ、香穂子はもっと頑張らなければならないと思った。 「本当に合わせやすいね、君のヴァイオリンは」 チェロ担当に言われて、香穂子は嬉しくなった。 「それは皆さんの演奏がかなり巧みだからです。本当に有り難うございます」 このセッションに参加をして、本当に良かったと思う。 吉羅により良い音を聴かせることが出来ると思うだけで、嬉しくてしょうがなかった。 「…土浦君、誘ってくれて有り難う。本当に嬉しいよ。こんなにも素敵なセッションに参加出来るなんて、なかなかこのような機会はないからね」 香穂子は本当に嬉しくて、土浦に向かってキラキラと輝くような笑顔を向ける。 本当に嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。 「…日野…。こちらこそ有り難うな」 土浦は照れるように甘く笑うと、香穂子を優しく見つめてくれた。 いよいよセッションが始まる。 客席を見ると、吉羅が端に腰掛けているのが見えた。 吉羅が聴きに来てくれるのが、何よりも嬉しい。 香穂子は、音楽に吉羅にときめきながら、とても良い気分で、ヴァイオリンを奏で始めた。 先ずはロマンティックに“私を月まで連れていって”だ。 スタンダードなジャズナンバーだ。 吉羅とならば、月まで行けるような気がした。 香穂子は、本当にふわふわした甘い気持ちに酔い痴れながら、ヴァイオリンを奏で続けた。 本当に気持ちが良い。 音と気持ちがぴったりと重なったような気分だ。 演奏が終わると、土浦が親指をしっかりと立ててくれて、嬉しくて思わずハイタッチをした。 そして続いては、“帰ってくれて嬉しいわ”だ。 これもスタンダードだ。 香穂子はまるでスウィングするような気持ちで、ヴァイオリンを奏でた。 2曲を奏で終わると、大きな拍手が起こる。 「今夜は可愛いヴァイオリニストさんを特別にお迎えしました。日野香穂子さん!」 紹介をされて、香穂子は深々と頭を下げた。 土浦を始めとして、音を一緒に奏でたメンバーは、皆、香穂子に笑顔を向けてくれている。 それだけで仲間として認めてくれているのだろうと思った。 香穂子は嬉しくなり、吉羅にも視線を向ける。 すると、吉羅のまなざしは冷たくて、かなり気まずくなった。 気に入らなかったのだろうか。 そう思うだけで、先ほどまでスウィングしていた心は、一気に沈んでいった。 香穂子は客席と、一緒に音を奏でてくれたジャズマンたちに深々と頭を下げた後で、ステージから下りた。 ヴ ァイオリンをケースの中に片付けると、香穂子はしょんぼりとした気分で、吉羅のところへと向かった。 「私の演奏は終わりました」 「…では、帰ろうか」 「はい…」 吉羅は感想すらも言ってはくれない。 吉羅は気に入らなかったのだろう。 香穂子は沈んだ気分になると、ただ俯くことしか出来なかった。 吉羅は立ち上がると、いきなり香穂子の手をギュッと握り締めてきた。 ドキドキして、思わず吉羅を見上げたが、感情は何もたたえてはいなかった。 吉羅と手を繋いだ状態で、香穂子は車まで導かれる。 そのまま何も言わないままで、ふたりは車に乗り込んだ。 車が出ても、吉羅は何も言わない。 ジャズなんて気に入らなかったのだろうか。ひじょうに厳しい顔をしていた。 結局は、家に着くまでの間、一言も話す事はなかった。 家に着いて中に入ってから、吉羅はようやく口を開く。 「…今日の演奏は悪くはなかった…。ただ、余り燥ぐのは慎みたまえ」 吉羅は冷たく言うと、そのまま自室へと行ってしまう。 演奏を褒められたのは嬉しい。 だが、冷たくされるのはかなり辛いし、こたえる。 香穂子は複雑な胸の痛みに、溜め息を吐くしか出来なかった。 |