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今夜の香穂子の演奏は、華やいだ雰囲気がとても良かった。 本当に楽しそうに演奏をしていて、太陽のように明るい楽しさが感じられるのが良かった。 しかもジャズを奏でている者たちとは心を通わせているようで、それが音に出ていた。 だからこそ、ジャズバーにいる誰もが、楽しむことが出来たのだ。 香穂子は特にピアニストと仲が良いようだった。 ふたりで楽しんで演奏をしていたと言っても良い。 それが吉羅には気に入らなかった。 解っている。 子供染みていることぐらい。 いつもならばこんなことにはならないのだが、香穂子が相手だと、調子が狂ってしまうのだ。 まるで恋を知らない子供のように嫉妬をしてしまうのだ。 それがほんのりと痛かった。 ステージの上にいる香穂子は本当に輝いていて、綺麗だった。 独り占めしたくなるような明るい笑顔を滲ませる香穂子が、吉羅は愛しいと感じるのと同時に、何処か憎らしくもあった。 それは恋をしているからだろう。 それ以外はあり得ない。 それゆえに、つい冷たくしてしまった。 吉羅は自室でそっと溜め息を吐く。 こんなにも独占欲が強いなんて、思ってもみなかった。 それを教えてくれた香穂子には、愛しさが込み上げてきた。 離したくはない。 誰かのものにはしたくない。 香穂子を自分だけのものにしたかった。 そんなわがままな感情を香穂子には伝えることが出来なくて、吉羅は溜め息を吐いた。 吉羅は、香穂子への想いを最早、止めることは出来ないと感じていた。 吉羅に嫌われてしまったかもしれない。 香穂子はその事実に苦しめられる。 息苦しいと言っても良いぐらいだ。 恋する資格なんてない。 なのに恋をせずにはいられないひと。 想いを昇華させるのはただひとつの方法しかない。 ヴァイオリンを奏でることだけだ。 香穂子は吉羅への想いを、ヴァイオリンに込めて練習に打ち込むことにした。 脇目をふれずに、ただヴァイオリンだけに集中する。 朝ご飯の時に、吉羅と顔を合わせるのだけが、唯一の楽しみになっていた。 朝から体調が優れなくて、香穂子は朝食を上手く食べることが出来ない。 不意に吉羅の突き刺さるような視線を感じた。 「日野君、体調は余り良くないんじゃないのかね?」 吉羅に咎めるように言われて、香穂子は誤魔化すように笑う。 「大丈夫ですよ。本当に…」 「私にはそうは見えないがね!?」 吉羅は厳しい声で言うと、いきなり香穂子の額に手を伸ばしてきた。 「……!!」 吉羅の優しくて大きな手で額の熱を計られて、香穂子は一気に顔が熱くなるのを感じた。 「…熱があるじゃないか…。ったく君は…。ヴァイオリンに集中するのは良いが、それは健康だからこそ出来ることだ。余り無理をするんじゃない」 吉羅はピシリと香穂子に言うと、睨み付けてきた。 「ただの風邪ですから」 「風邪は万病の元だと言う言葉を君は知らないのかね!? 今日はゆっくり休みなさい。午前中休んで体調が良かったら、午後からはヴァイオリンの練習をしなさい。無理は禁物だ。良いね」 「…はい…」 有無を言わせない吉羅の物言いに、香穂子は頷くしかなかった。 「部屋に戻ってゆっくりと休みなさい」 「解りました…」 香穂子は溜め息を吐くと、素直に吉羅の言う通りにする。 それが一番正しいことのように思えた。 香穂子は着替えて、ベッドに入り、ゆっくりと休むことにする。 うとうとし始めたところで、ドアをノックする音が鳴り響いた。 「…はい」 「日野君、薬を持ってきた。入っても構わないかね?」 「…はい」 香穂子が返事をすると、吉羅が薬を持ってやって来てくれた。 「有り難うございます…」 「薬をしっかりと飲んで休みなさい。風邪なら薬を飲めば良くなるだろう。午後からは医師が来るように手配をしておいたから、指示に従うように」 「…はい。解りました…」 吉羅はそれだけを言うと、市販の薬と、果物を置いていく。 冷たいように見えるのに、さり気ない優しさが、香穂子を温かくする。 「有り難うございます。吉羅さん、いってらっしゃい」 香穂子が背中に向かって声を掛けると、吉羅は振り返って頷いてくれた。 吉羅に優しくされる。 これ以上の特効薬は他にはない。 吉羅に優しくされるだけで、こころがたっぷりと満たされる。 香穂子にとっては、最高の薬になる。 置かれた果物を食べた後、香穂子は風邪薬を飲む。 そうすると気持ちがよくなってきて、香穂子はうとうととまどろみ始めた。 次に目覚めた時は、頭がスッキリとしていた。 薬が効いたのかもしれない。 時計を見ると、正午前だった。 薬と果物の皿をダイニングに持っていくと、家政婦が驚いた笑顔でやって来てくれた。 「有り難う香穂子ちゃん。お昼はしらすと卵で優しい雑炊を作ったから、一緒に食べましょうか」 「有り難うございます」 しらすの雑炊ならば食べられそうだ。 香穂子は頷くと、ダイニングチェアーに腰を下ろした。 しらすと卵の雑炊は絶品で、食べながら香穂子は作り方を教わる。 これなら体調が悪くて食欲が余りなくても大丈夫だと、香穂子は思った。 ヴァイオリンの練習を数時間ならば出来るだろうと香穂子は思い、部屋で少しだけ練習をすることにした。 ヴァイオリンをしっかりと奏で、香穂子は前向きに取組んでいく。 やはりパーティでは最高の演奏を披露したかった。 そのためにはヴァイオリンを熱心に頑張らなければならない。 医師が来るまでの間、香穂子は練習に集中することにした。 練習の合間で診察を受け、疲労と風邪が重なったのだろうと診断された。 診断結果は吉羅に報告をされるだろうから、香穂子は無理をしないように決めた。 医師が帰った後、香穂子は少しだけ昼寝をして、ヴァイオリンの練習をした。毎日少しずつで良いから練習することで、より良いものが出来るようになっている。 だからこそ密度の濃い練習をしなければならないと香穂子は思った。 夕食時にダイニングルームに行くと、吉羅がいつもよりもかなり早く帰ってきてくれた。 しかも、巷ではふわふわとした食感で大人気のロールケーキを買ってきてくれた。 香穂子はそれが嬉しくて、思わずにっこりと笑う。 「有り難うございます。とっても嬉しいです」 「食事の後、デザートとして食べると良い」 「有り難うございます」 吉羅と一緒に食事が出来る上に、こうしてデザートまでついてくるなんて。トータルではなんて幸せな日なのだろうかと思う。 まだ本格的な食事は苦しいから、香穂子は軽く夕食を食べた。 その後にはデザートが待っている。 やはり甘いデザートは、食欲が余りなくても食べられる。 「やっぱり甘いデザートは美味しいです。明日からまた頑張って練習が出来そうです」 「だが、余り無理はしないように」 「はい」 吉羅に釘を刺されてしまったが、それでも気持ち良く受け入れられる。 吉羅は当然のことをしたのだから。 香穂子は吉羅の気遣いに礼をしたくなった。 ヴァイオリンを弾く事ぐらいしか出来やしないが、それでも礼をしたかった。 「吉羅さんヴァイオリンを弾いても構いませんか?」 「ああ。お願いする」 吉羅の言葉に香穂子は笑顔になると、ヴァイオリンを構えた。 香穂子は静かにヴァイオリンを奏でる。 吉羅のためにだけ、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 |