*きみが奏でる物語*


 吉羅は、香穂子のこころが滲んだヴァイオリンの音色を、静かに聞き惚れる。
 こんなにも素敵だと美しいと温かいと思う音色は、他にはないのではないかと、吉羅は思う。
 香穂子らしい音色だと思った。
 ヴァイオリンを奏で終わり、香穂子は頬を赤らめて吉羅を見ている。
 それがとても綺麗だった。
 思わず見惚れる。
「…有り難う。悪くない演奏だったよ」
 吉羅は静かに言うと、香穂子に拍手をする。
 香穂子が笑顔になった。
 その笑顔が愛らしくて、吉羅はフッと微笑む。
「その調子で、横浜開港記念パーティの演奏を頑張ってくれたまえ。私もパーティ参加者として、君の演奏を聴くのを楽しみにしているから」
 吉羅は静かに言うと、香穂子の頭をそっと撫でた。
「はい…!」
 香穂子の顔が赤らんだ華やぎのある表情になり、吉羅は笑みを零す。
 香穂子のこのような表情を、独り占めしたかった。

 ヴァイオリンの練習に熱が入る。
 吉羅が聴いてくれると言ってくれたから、香穂子は余計に頑張らなければならないと思った。
 大好きなひとには最高の演奏を聴かせたかった。
 吉羅が笑顔になるような、そんな演奏をしたかった。

 いよいよ、本番前日だ。
 香穂子は衣装を余り持ち合わせてはいないので、またいつもの衣装になる。
 吉羅と出会った時に着ていた衣装だ。
 これぐらいしかまともなものがないのだからしょうがない。
 ヴァイオリンは本当にお金がかかる。
 だが、それでもヴァイオリンの美しさに魅入られた者としては、止められなかった。
「日野君、いるのかね?」
 吉羅が帰ってくるなり、香穂子を探すように名前を呼んだ。
「はい」
 香穂子が声と顔を出すと、吉羅が静かにやってきた。
「日野君、明日の衣装に困っているだろう。こちらを着たまえ」
「あ、有り難うございます」
 吉羅はぶっきらぼうにいきなり、香穂子にドレスが入っているであろう立派なケースを差し出してきた。
「…あ、有り難うございます」
「君に似合うと思うが、試着をしてくれたまえ」
「はい!」
 吉羅がこうしてドレスを用意してくれるのが、何よりも嬉しい。
 香穂子はときめく余りに、踊ってしまいそうになった。
 香穂子は一旦自室に入ると、ドレスに着替えることにする。
 箱を開けて、香穂子は息を呑んだ。
 箱の中には、白いドレスが入っていた。
 シンプルだが、本当に美しいデザインだ。
 香穂子は手に取って、まじまじと見つめてしまった。
「…綺麗…」
 何度見ても飽きないのではないかと思うほどに、綺麗なデザインのドレスだ。
 息を呑んで眺めていたくなる。
 だが、きちんと着て、吉羅に見せなければならない。
 香穂子は、ドレスを汚さないように気をつけると、ゆっくりとドレスを着た。
 ドレスを着るだけで、何だか吉羅に愛されているように思える。
 香穂子はほんのりと自信を漲らせると、吉羅の元へと向かった。
「吉羅さん…」
 香穂子がその名前を呼んで、ゆっくりと吉羅の前に現われる。
 すると吉羅は一瞬、息を呑んだ。
 だが直ぐに冷たくて気難しい顔になる。
 いつもよりもかなり厳しくて、香穂子は眉を寄せた。
 気に入らなかったのだろう。
 吉羅がイメージをした雰囲気とは違っていたのだろう。
 それはしょうがないとは思うが、ほんのり切なかった。
「…大きすぎることはないかね?」
「大丈夫です。本当にぴったりですから」
「それは良かった」
 吉羅はさらりと言うと、香穂子を値踏みするかのように見つめた。
 そんなまなざしで見られてしまうと、本当にドキドキしてしまう。
 こんなにも緊張することは他にはなかった。
「…まあ、悪くはないだろう…。当日、メイクはするつもりかね?」
「失礼でないようにはメイクはしようと思ってはいますが…」
「そうか。君は余り濃いメイクをしないほうが良いと、私は思うがね」
「…吉羅さん…」
 吉羅はメイクをした香穂子を余りお好みではないようだ。
 だが、少しでも綺麗になりたくて、香穂子はいつもよりはきちんとメイクをしようと決めていた。
「なるべく皆様を不快にはさせないような形でメイクをします」
「ああ」
 吉羅はあくまで素顔でいるようにと、思っているような気がした。
「ドレス、有り難うございます。本当に嬉しいです」
 香穂子が礼を言うと、吉羅は頷いてきた。
「あ、ドレスがシワになるといけないですから、直ぐに脱いできますね」
 香穂子はもったいないような気がしてしょうがなくて、結局はドレスを脱ぐことにした。
 部屋に戻って直ぐにドレスを脱ぎ、香穂子はいつもの部屋着になる。
 ドレスはなるべくシワにならないように慎重にハンガーにかけた。
 本番にはあのドレスを身に纏って、ヴァイオリンを奏でるのだ。
 それを想像するだけで、甘酸っぱい気分になった。

 いよいよ横浜開港記念パーティが開幕する。

 パーティの当日、香穂子は友人の天羽に、パープルとピンクで色のあるメイクをして貰い、髪を愛らしくアップして貰った。
 持つべきは器用な友人だと思いながら、香穂子は感謝していた。
 鏡を見ても信じられないぐらいに、綺麗にして貰っている。
 吉羅がプレゼントをしてくれたドレスともとてもよくあったヘアメイクだ。
 香穂子は思わず天羽を見た。
「有り難う、本当に自分じゃないみたいだよ」
「それは良かった。新進気鋭のヴァイオリニスト日野香穂子の登場にはぴったりの雰囲気だと思っているからねー。香穂が最高に輝くのは解っているよ。大丈夫、上手くいくよ!」
 天羽の言葉を聞いていると、たくさんのやる気と勇気が湧き上がってきた。
「有り難う、頑張るね」
 香穂子が笑顔を浮かべて、力強く言うと、天羽もまた励ますように笑ってくれた。

 パーティは香穂子にとってはある意味戦場だ。
 気分を引き締めて、演奏者控室へと向かう。
 大好きな吉羅もパーティにやってくる。
 吉羅とは別行動だ。
 香穂子はあくまでも吉羅たち招待客を楽しませる立場にあるのだから。
「日野さん、会場の待機場所に移動をして下さい」
「はい」
 会場に入ると、更に気分は引き締まる。
 パーティ会場では、つい吉羅を探してしまう。
 吉羅が聴いてくれると言ってくれているせいか、俄然、気合いはかなり入っていた。
 そして。今日は精一杯お洒落をしたのだから、吉羅にもこの姿を見せたいという想いもある。
 いつもよりも綺麗な自分を、吉羅には見て貰いたかった。
 吉羅には、こうして着飾ったところを、余り見せたことはなかったから、その想いが強かった。
 だが、吉羅が会場で見当たらない。
 どんなにひとが多くても、吉羅を発見することが出来るのに、今回はそれが出来ない。
 到着がまだなのだろうか。
 そう思っていたところで、会場がざわつき始める。
「吉羅さんよ! 随分と綺麗な方を連れてきていますわ」
 騒がしい声のなかのひとつを聞いて、香穂子はハッとする。
 吉羅が、本当にゴージャスに美しい女性を伴って、会場に入ってくるのが見えた。
 誰もが認める美しいひとだ。
 吉羅ともとてもバランスが取れている。
 それに比べて、自分はどうなのだろうか。
 全くと言って良いほどに、バランスが取れていないではないか。
 いくら綺麗にしたとしても、吉羅とはバランスが取れない。
 その事実に、香穂子は涙が滲むのを感じる。
 いくら綺麗にしても、手の届かないひとなのだということを、思い知らされた。



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