*きみが奏でる物語*

10


 吉羅はやはり、香穂子のことをただのヴァイオリニストとしてしか、見てはくれないのだろうと思う。
 ヴァイオリンで上手くいかなくなったら、きっと捨てられてしまう。
 その危惧に、香穂子は切なくてしょうがなくなる。
 吉羅が恋をするのは自分と同じ世界に生きる女性なのだ。
 決して香穂子じゃない。
  吉羅が心から愛する女性も、同じだ。
 同じ世界のひとしか愛せない、愛さないひとなのだ。
 だから香穂子はヴァイオリンでしか繋がることが出来ないのだ。
 それはどうしようもないぐらいに切ないものに思えてならなかった。
 吉羅が香穂子がこちらを見ていることに気付いたようだった。
 だが、わざと視線を逸らされる。
 それが香穂子には辛かった。
 愛する女性がそばにいるのに、他の女性に目移りするはずがないのだ。
 あの吉羅暁彦に至っては。
 香穂子は視線を合わせるのを止めてしまい、小さく溜め息を吐いた。
 今は切ない想いを抱いている場合じゃない。
 折角のチャンスなのだから、頑張ってヴァイオリンを奏でなければならない。
 香穂子はヴァイオリンに集中をすると、雑念を振り払って集中することにした。

 香穂子がこちらを見てくれていたのは、とても嬉しかった。
 それなのに、つい素っ気ない態度を取ってしまったのは、我ながら大人気ないと思う。
 吉羅は自分自身に苦笑いを浮かべるしかなかった。
 今日の香穂子は本当に清らかで美しい。
 ずっと見つめていたいと思う。
 誰にも渡さない。
 渡したくない。
 吉羅の中で独占欲が炎となって燻り始めていた。
 香穂子を見つめる瞳に、傲慢なほどに強い独占欲が満ち溢れてくる。
 絶対に放したくないと、吉羅は強く感じていた。
 香穂子の演奏ととても相性の良い伴奏も気にかかる。
 まるでピアノ自身が恋をしているように、吉羅には聞こえた。
 温かで清らかな、人々に感動を与える香穂子の演奏が終わる。
 誰もが香穂子の音の良さに気付いたのか、大きな拍手を送っている。
 嬉しい反面、何故だか切ない寂しさを感じていた。

 ヴァイオリンを奏で終わり、温かな気持ちになっていると、大きな拍手が起こった。
 こんなに嬉しいことはないと、香穂子は深々と頭を下げる。
 本当に聴いて貰えるだけで有り難いのに、温かな拍手のプレゼントまで貰えるなんて、香穂子はソリストとしての最高の幸せを手にしていた。
 香穂子はピアノ演奏をしてくれた土浦に、笑顔で礼をする。
 しっかりと握手をして、香穂子は何度もお礼を言った。
「土浦君の演奏は本当に弾きやすいよ。どうも有り難う」
「ああ、こちらこそ、良い演奏の手伝いが出来てとても嬉しい。有り難うな」
 土浦には本当に感謝だ。
 こんなにも演奏しやすい伴奏は初めてだったからだ。
「有り難う…」
 香穂子は土浦に礼を言っ後、会場にいる吉羅に視線を向けた。
 喜んでくれていたら良いと期待を込めて見つめる。
 しかし吉羅のまなざしはとても冷たくて、香穂子はその冷たさに震えてしまう。
 こんなにも冷たいまなざしを見たのは初めてだ。
 吉羅の冷たさに、香穂子は震え上がることしか、出来なかった。

 香穂子と仲が良さそうにしている男が気に食わない。
 あのようなピアノ演奏をしたということは、恐らくは香穂子に恋をしているのだろう。
 香穂子を失いたくない。
 他の男に横取りをされたくない。
 まるで小さくて我が儘な男の子のような感情を、吉羅は抱いてしまっていた。
 香穂子がこちらにやってくる。
 いつもよりも輝いて見える。
 頬を紅潮させている姿は、恋をする女性そのものだ。
 伴奏をしていた男と恋をしているのだろうか。
 それとも…。
 様々な可能性を考えては苛々してしまう。
 吉羅は思う。
 恋は、ひとを幸せにすることも、不幸にすることも簡単に出来てしまうのだと。
 吉羅は、香穂子を真直ぐ冷たい視線で見つめた。

 吉羅の冷徹なまなざしに、香穂子は震え上がる。
 吉羅は今夜の演奏を気に入っていなかったらしい。
 まなざしでそう感じて、香穂子は益々しょんぼりとしてしまう。
 肩を落として、胸が痛くなるのを感じた。
 先ほどまでは世界が薔薇色に輝いているように思えたのに、今は少しも思えない。
 改めて、自分の生活が吉羅中心で回っていることを、香穂子は気付いた。
 吉羅は香穂子を値踏みをするように見る。
 横にいる女も同じで、それがあからさまのような気がした。
「…演奏は悪くはなかった」
 吉羅はシンプルに言うが、ニコリとも笑わない。
「…有り難うございます」
 吉羅が笑わないということは、気に入らないのと同じことなのだと、香穂子は思った。
 横の女性が吉羅を見上げる。
「暁彦さん、ご挨拶をしなければ」
「…そうだったね」
 吉羅は、女性にはとても柔らかなまなざしを向ける。
 それは香穂子にとって泣きたいほどに痛い光景だった。
 これが真実なのだ。
 吉羅はヴァイオリンでしか、香穂子を評価することはないのだ。
「…では日野君、また…」
「…はい…」
 吉羅は香穂子に背を向けると、セレブレティが数多く集まるテリトリーに行ってしまう。
 香穂子には到底近付くことが出来ない、所謂“別世界”なところだ。
 香穂子は溜め息を吐く。
 これでシンデレラの魔法はとけたのだ。
 また寮に戻って、元の貧乏学生の生活に戻るだけだ。
 何も失ってはいない。
 今までと何も変わらないはずだ。
 香穂子はそう強く思うようにした。
「お疲れ様でした。食事を用意していますから良かったらどうぞ。パーティ内で召し上がって頂いても構いませんよ」
 パーティの係員に言われて、香穂子は笑顔で返す。
「有り難うございます。別室で頂くことにします」
 今はただ静かな場所にいたかった。
「日野、あっちで食事を用意してくれているらしい」
 土浦が屈託なく声を掛けてくれる。
 それにホッとする。
「うん、有り難う。行こうよ」
「ああ」
 香穂子は、ヴァイオリンを持つと、土浦とふたりで演奏者控室へと向かった。
 温かな食事が用意されてはいるが、余り食べることが出来なかった。
「…日野、余り食べていないみたいだが、大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ土浦くん。どうも有り難う」
 香穂子が笑顔で答えても、土浦は心配そうな表情を変えない。
「厳しい目で俺たちを見ている男がいたから、落ち込んでいるのかと思ってな」
「うん、それもあるんだ。あの方は私がヴァイオリニストになれるように手を差し延べてくれるひとだから、一番 理解してくれると同時に一番厳しいひとなんだ…」
 香穂子はそっと溜め息を吐く。
 言葉にするだけで、胸が痛かった。

 吉羅は一通りの挨拶を終えた後、演奏者控室へと向かう。
 香穂子が、あの伴奏者と一緒に行ってしまったのが気に食わない。
 吉羅は苦しい想いを抱きながら、香穂子が出てくるだろう、控室の前に立った。

 控室から出て、着替えに行こうとしてハッとする。
 吉羅が腕を組んで、待構えていた。
 相変わらず完璧だ。
 男としての色香を滲ませている。
 香穂子は鼓動が激しさを増すのを感じる。
 もう呼吸することが出来ないぐらいだ。
「…日野君…、帰るぞ。直ぐに支度をしなさい」
 吉羅はいつもよりも厳しい声で言うと、香穂子を睨むように見つめる。
「解りました…」
 吉羅に抵抗することが出来ない。
 香穂子はただ頷くことしか出来なかった。



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