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吉羅は、香穂子を直ぐに抱き上げる。 流産してしまったらどうしようか。 子どもだけならまだしも、香穂子に何かがあれば、そるこそ生きてはいけないかもしれない。 吉羅は息苦しくなるのを感じながら、直ぐに携帯電話で救急車を呼ぶ。 「どうしたんです? 暁彦さん」 幼馴染みが連れの男と一緒に来てくれる。 「…妻が…」 「彼は医師よ。一緒に救急車に乗って貰いましょう」 「頼んだ」 救急車到着の知らせに、吉羅は香穂子を連れていく。 「たらい回しにされなければ良いが…」 吉羅は珍しく不安を口走ってしまう。 やはり愛する者が絡んでいるからだろう。 吉羅は一緒に救急車を乗り込みながら、香穂子が助かるように祈った。 香穂子さえいれば、それだけで幸せだ。 それだけで幸せな気分になれるのだ。 「…香穂子…」 吉羅は香穂子の手を握り締めると、ただ祈った。 「…これは…虫垂炎かもしれませんね…」 同乗してくれた医師は、香穂子を診ながら、頷くように言う。 「盲腸ですか?」 吉羅は意外な診断に驚いていた。 「手術が必要になりますね…。これは…。胎児への影響がないように処置しなければなりませんね」 医師は冷静に言うと、テキパキと指示をし始めた。 どうか助かって欲しい。 吉羅はそれだけを祈らずにはいられなかった。 どれぐらい眠っていたかは解らない。 目を開けると、吉羅が心配そうに見ていた。 「…暁彦さん…」 「赤ん坊は無事だ。盲腸炎だそうだよ」 「…盲腸…」 香穂子は浅く呼吸をすると、吉羅を見上げた。 「通りで痛い筈ですね…」 「余り無理はしないように。彼女の恋人が医師で助かったよ」 香穂子が驚いたように目を見開くと、吉羅の背後からあの女性と、先ほど一緒にいた男性が姿を現した。 「…大丈夫ですよ。幸い軽かったですからね。処置は薬で散らします。胎児には影響はありませんから、大丈夫ですよ」 優しい雰囲気の医師は、テキパキと言ってくれている。 その向こうには吉羅とよく出掛けていたあの女性だ。 本当に穏やかな表情で香穂子を見ている。 「本当に良かったわ。何もなくて…」 「はい…」 この女性に恋人がいるということは、吉羅とは恋愛関係にないのだろうか。 「お大事にね。良い赤ちゃんを産んでね」 「はい。有り難うございます」 香穂子はほんのりと笑顔で言うと、女性も微笑んで静かに病室を後にした。 ふたりきりになった後、香穂子は吉羅をじっと見つめた。 「…何か訊きたいことがあるのかね…?」 「吉羅さん、…あの方とは恋人同士ではなかったんですか…?」 香穂子の言葉に、吉羅は逆に驚いたように目を見開く。 そんなことは考えられないとばかりに。 「…私たちは一度もそのような関係になったことはないよ。お互いに“カモフラージュ”はあったがね。お互いに周りに色々と言われたり、ちょっかいが多いからね。ちょうど良かったんだよ。私たちが愛し合っているのなら、幼馴染みだし、とうに結婚していたよ。何の障害もなければ、逆に喜ばれるぐらいだったからね」 吉羅はくすりと微笑むと、香穂子を見る。 確かに吉羅の言う通りだ。 ふたりの年齢を考えても、とうに結婚していただろう。 「…確かに…、そうですね…。だけど…、よく一緒に出掛けていらっしゃったし…」 「確かにね。それは彼女の父親にカモフラージュするためだった。私たちには友情はあっても、愛情はないのだからね」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子の瞳を覗きこんだ。 「…吉羅さん…」 「だから、私たちは結婚しないよ。君が気にしていたのは、そのことなのかな…?」 「はい…。愛する人がいるのに、赤ちゃんが出来ただけでどうして私なんかと結婚するのかと、ずっと思っていました…」 「…君が掛け替えのない存在であるからだよ」 吉羅は静かな口調であったが、キッパリと香穂子に言った。 掛け替えのない存在。 そう言って貰えるのが、香穂子にとっては何よりも嬉しい。 「…有り難うございます…。私…嬉しいです…」 吉羅の言葉に、今までかなりかたくなだったこころが柔らかくなっていく。 「…吉羅さん…」 「君は私にとっては本当に大切な存在だよ…。だから離したくはない…。子どもがいなければ、確かに結婚するのはもう少し後になっただろうが…、私は君を離す気は一切なかった」 「…吉羅さん…」 吉羅の告白を聞き、香穂子は嬉しくてしょうがない。 いや、嬉しいという言葉を超えているかもしれない。 「…私…すごく嬉しいです…。あなたにこうして…大切な思って貰えるのが…私…」 「香穂子…」 吉羅は香穂子のまなざしを覗き込むと、その手をしっかりと握り締めてくれた。 唇がそっと耳に近付いてくる。 「…香穂子…、ちゃんと言ってはいなかったね…? 君を愛しているよ…。世界で一番君を愛しているよ…」 吉羅の愛の言葉に、香穂子は嬉しさの余りに涙が零れ落ちてくる。 こんなにも幸せで良いのだろうかと、つい思ってしまう。 だが幸せで良いのだ。 お互いに愛し合っているのだから。 「…君は…、私を愛してくれているのかね…? 妊娠は君にとって負担にはなっていないのかね…?」 吉羅の表情が暗くなる。 明らかに心配そうに不安そうに見つめていた。 「…吉羅さん…、妊娠が解った時は…嬉しさしかなかったです…。大好きな男性の赤ちゃんだから…」 香穂子は笑みを浮かべると、吉羅を真直ぐ見つめた。 「吉羅さん…、私もあなたのことを愛しています…」 香穂子はようやく笑みを浮かべると、吉羅の手を握り締める。 「香穂子…!」 吉羅は香穂子の名前を情熱的に感動的に呼ぶと、そのまま抱き締めくれた。 苦しくてだけど幸せで、こんなにも胸が騒ぐ感覚は他にはないと思った。 しっかりと抱き合った後、ふたりはキスを交わす。 愛し合っていると確かめあった初めてのキスだ。 「…吉羅さん…、愛しています」 「私も、君を愛しているよ…」 吉羅は愛を囁いてくれた後で、香穂子に苦笑いを浮かべた。 「…吉羅さんという呼び名は卒業出来ないかな…? 君も既に吉羅さんなんだから…」 「…そうですね…」 吉羅の指摘に香穂子は苦笑いを浮かべて頷いた。 「…ちゃんとこれからは“暁彦”と呼ぶんだ」 「…はい…」 香穂子ははにかみながら返事をすると、吉羅に「暁彦さん」と呼び掛ける。 香穂子が名前を呼ぶと、吉羅は抱き締めてくれた。 もう心配することも、不安になることもない。 香穂子にはそれが嬉しくてしょうがなかった。 妊娠中から吉羅はかなり協力的だった。 吉羅は、どちらかと言えば子どもよりも香穂子に気遣いをしてくれていた。 出産にも立ち会ってくれ、子どもが産まれてからは、香穂子に負担がかからないようにと、かなり手助けをしてくれている。 子育てに協力をするために、今日も早めに帰ってきてくれた。 香穂子とふたりでの温かな時間を何よりも大切にしてくれているのも嬉しい。 子どもをベビーベッドに寝かせた後、香穂子は子守歌代わりにヴァイオリンを奏でる。 それを聴きながら、ふたりのかけがえのない子どもは眠ってしまった。 「…これからはふたりの時間だ。香穂子、いつも有り難う」 「私こそ有り難う」 いつも幸せな気分を与えてくれる吉羅に感謝をしながら、香穂子は微笑む。 これからもずっとふたりで、幸せの物語を奏でていければ良いと、思わずにはいられなかった。 |