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「愛している」と言われないことに、辛さ以上の苦しみを感じていた。 いつか捨てられるのだろう。 そんな不安ばかりの日々には、もう耐えられやしない。 都心からのアクセスも良く、夜景が最高に美しく見える、ロマンティックなヨーロッパ風の内装が素敵な高級アバートメント。 ここで暮らすのが、始めは夢心地だった。 小さな頃から夢見ていたことが実現出来たように思えて、とても嬉しかった。 何も取り柄がない自分。 しいて言えばヴァイオリンだけ。 音楽大学に通いながらも一応はプロの端くれではあるが、愛するひととの生活を優先する余りに、それも今や中途半端になっていた。 「愛している」と言われないままの、愛の生活。 一方的な愛情を捧げるだけの日々。 始めはそれでも良かった。 だが、一緒に生活することで、より吉羅を愛してしまった今となっては、それも辛い。 それに、吉羅と一緒にいてはならない理由が出来てしまった。 吉羅を充分過ぎる程に不幸にしてしまうだろう理由が。 愛するひとを苦しめたくはないから、それだけは駄目だ。 一緒にいれば、捨てられるか不幸にするか…。 そんな選択しかないのであれば、どちらも要らない。 ならば姿を消すことだ。 何も言わずに。 香穂子は決意を込めて顔を上げると、盆の上に朝食である茶粥を置いて、吉羅が待つダイニングへと向かった。 吉羅は、相変わらず完璧なスーツ姿で、英字新聞を読み耽っている。 香穂子が「どうぞ…」といって、静かに盆を前に置くと、吉羅はほんの少しだけ顔をあげた。 「有り難う…」 吉羅は香穂子の顔を見るなり眉根を寄せる。 ここ一週間ほど、吉羅は仕事が忙しく、香穂子と顔を合わせてはいなかった。 そのせいで蒼白い顔色には気付いていなかった。 「…随分と顔色が悪い。どうしたのかね?」 「…大丈夫です。軽い貧血があるだけですから」 「貧血だからと甘く見ては駄目だ。重病のサインだからね。きちんと病院に行きなさい。ここには女性にも優しい病院がいくつもある。だから、早く行くんだ」 吉羅は、心配するというよりは、怒っているようにしか見えなかった。 香穂子は微笑むと、吉羅に頷く。 「解りました。午前中に行きます」 「そうしてくれたまえ。昼休みに私も電話をするから」 「はい、有り難うございます」 香穂子はいつも以上に明るさを込めて微笑むと、吉羅を見つめた。 「ちゃんと行くんだ。私が確認の電話などしなくても済むように、大人の行動をして貰いたいがね。そろそろ」 「…そうですね…」 大人の行動。どのような基準で言っているのかは、香穂子には解らない。だから曖昧に答えておいた。 「私も食事にします」 香穂子は気を取り直したように言うと、自分の席に着く。 吉羅が、朝食は純和風を選択するのは助かっていた。茶粥なら、食欲のなさもごまかすことが出来るからだ。 吉羅は、手早く食事を済ませると、先に席から立ち上がる。 香穂子は吉羅を見送るために、玄関先へと見送りに出る。 「香穂子、きちんと午前中には診療を受けておくんだ。いいね?」 「はい」 「昼休みには電話かメールをするから、具合はどうだったか報告してくれたまえ。良いね?」 「解りました」 香穂子はおどけたように言うと、敬礼をわざとする。 吉羅は心配そうに目を細めてみつめてくる。頬を触れられるだけで、今にも泣きそうになってしまった。 「ではいってくる」 「行ってらっしゃい」 香穂子は吉羅を玄関先から送り出してひとりになった後、哀しみの余りに涙を零した。 これでもう吉羅とは逢うことはないのだ。 消えていなくなったら、吉羅は哀しんでくれるだろうか。 それともせいせいするだろうか。 どちらであるかは間違いはないが、恐らく後者だろう。 香穂子は、吉羅が出て行ってから一時間経ったところで、手早く纏めた荷物を片手にアパートメントを出る。 パウダールームのミラーにルージュの伝言だけを残して。 有り難う。お幸せに。さよなら 本当にシンプルなメッセージを書くと、香穂子はアパートメントを出た。 電車に乗り込み、実家の近くの駅で降りて、携帯電話の契約解除を行なう。 これで吉羅とはもう繋がっていない。 哀しんでなんかいられないのだ。 自分の為にも前だけを見ていかなければならない。 吉羅は2時過ぎになり、ようやく時間を取ることが出来た。 香穂子に連絡を取る。 心配でしょうがないが、それを素直に出すことは出来なかった。 吉羅は香穂子の番号を呼び出し、耳を疑う。 「この電話は現在、使われておりません…」 まさかだと思った。 香穂子が携帯の契約を解除しているとは思ってはみなかった。 何かあったのだろうか。 それとも…。 吉羅は直ぐに自宅に電話を掛ける。だが誰も出ることはなく、留守番電話に切り替わってしまう。 吉羅は、留守番電話に向かってメッセージを発した。 「香穂子、電話に出てくれ。頼むから」 だが、電話に出る気配は、全くなかった。 吉羅は、乱暴に携帯電話を閉じると、直ぐに席から立ち上がる。 秘書室にいる秘書に、声を掛ける。 「少し家に戻る」 「はい。行ってらっしゃいませ」 吉羅は直ぐに愛車に乗り込むと、自宅であるアパートメントに向かって走り出した。 駐車場に到着した後、吉羅は自分の城へと向かう。 背中に嫌な汗が絡み付く。 最近、仕事の忙し過ぎて、まともに香穂子と接したことはない。 ただ遅くに帰って来て、香穂子を起こしてその躰を愛しただけだ。 ずっとまともに話すらしていなかった。 それが想像以上に辛かったのだろうか。いや違う。以前も同じようなことがあったが、香穂子は何処にも行かなかった。 吉羅はセキュリティを幾つか解除をして、ようやく部屋に入った。 部屋は、不気味なぐらいに静かで、吉羅は益々不安になる。 嫌な予感が、的中してしまいそうで恐ろしい。 香穂子がいなくなっているかもしれない。 「香穂子、返事をするんだ。香穂子!」 何度も名前を呼んでも、香穂子は出ては来ない。 いつもなら、太陽のような笑顔と共にやって来るというのに。 携帯は契約解除されている。家にもいない。 ならば何処に行ってしまったのだろうかと思う。 「…香穂子! 何処だ!」 吉羅は髪を僅かに乱しながら、香穂子の影を探す。 だが、跡形もなかった。 パウダールームに入るなり、そこの鏡に書かれたメッセージに、吉羅は絶句する。 有り難う。お幸せに。さよなら 「…香穂子…」 出ていってしまったのだ。 もう二度と戻っては来ないという決意を滲ませて。 そんなことは許さない。 許したくはない。 ベッドルームのサイドテーブルには、セキュリティ解除の為の鍵が残されている。 ドアを戸締まりする時には必要ないものだから、置いて行ったのだろう。 吉羅は大きな溜め息を零すと、鍵を手に取る。 香穂子と共に過ごした時間が、柔らかな時間となって込み上げてくる。 香穂子に明るく太陽のような笑顔や、誰にでも気遣える優しい心根を思い出してしまい、唇を噛み締める。 一緒に暮らした時間は吉羅にとっては、最も幸せな時間でもあった。 突然に、前触れもなく、それは一方的に遮断されてしまったのだ。 「…香穂子…」 吉羅は次第に頭に血が上っていくのを感じる。 どうして消えてしまったのか、その意味が解らない。 吉羅は恨みすら滲んだ苦い想いを噛み締めていた。 |