*君へと続く道*

2


 香穂子は、吉羅との縁が総て切れてしまったことを、切なく想いながら、これから残された時間を前向きに 生きていかなければならないと、思っていた。
 吉羅との生活を思い出すと、楽しい時間だけが想い浮かんでくる。
 こんなにも素晴らしい時間はなかったと、今更ながら思っていた。
 だが、それはもう過去のことだ。
 振り返らない。
 そう決めたのだから。
 香穂子は、吉羅の目が及ばない少し離れた小さな病院に出向き、そこの待合で小さな躰を震わせて待った。
 頭痛、倦怠感、知らないうちに出来ていた内出血痕、そして粘膜からの出血。
 これらが揃うと、命に関わる病気だと、疑いを持つしかない。
 それは体調が余りにも不調で、ミッドタウンの病院に行った時に、血液の病気を疑わざるをえないと、言われてハッと気付いたのだ。
 様々な血液の病があり、一概には重病とは判断出来ないとは言われたが、それでも切なく哀しい気分には違いなかった。
 どのような血液の病であれ、愛するひとを闘病に巻き込むことは出来ないから。
 苦しみを与えることなんて出来ないから。
 それ以上に、吉羅にはそこまで愛されてはいないのは解っていたから。
 香穂子は診察の番になり、医師に症状を伝えた。
「直ぐに大学病院に行って下さい。紹介しますから」
「…はい…」
 記された病院名を見て、香穂子は唇を噛み締める。
 吉羅の友人で香穂子の恩師である金澤が、喉の病で通っている病院だ。
 金澤と鉢合わせをしなければ良いのにと半ば祈るしかない。
「…日野さん。至急検査を受けて下さい。今から行けば、まだ診療に間に合いますから」
「はい…」
 香穂子は溜め息を吐くと、紹介状を持って大学病院へと向かった。

 大学病院の雰囲気は嫌いだ。
 香穂子は苦々しい想いを抱きながら、待合室で待ち続ける。
「日野さん、採血を行ないます」
「はい」
 緊張しながら腕を出して、香穂子は採血をする。
 採血をした後で、直ぐに医師がやってきた。
「日野さん、直ぐに結果が出ると思いますが…、あなたが訴えている症状は…、正直言ってかなり厄介です…。ご両親やご家族をお呼びして、話をしなければならないかもしれません」
「覚悟は出来ていますから…」
「…そうですか…」
 医師は切なげに溜め息を吐くと、もたらされた結果を直ぐに見た。
 眉根が僅かに寄せられる。
 それを見ると、香穂子は泣きそうになった。
「…日野さん…」
 名前を呼ばれて、心臓が飛び上がってしまうほどにドキリとする。
 覚悟はある程度出来ていると思っていたし、勇気を掻き集めていた筈なのに、医師の表情を見ると、地獄に突き落とされるような気分になる。
「…そうですね。血小板がかなり減少しています。後は白血球の異常な増加…、赤血球も少ない…。明らかには分かりませんが、再生不良性貧血か…、白血病の疑いがあります。どちらであるかは、骨髄液を採取してみないと分かりません。あなたの場合、来週、骨髄液の採取を行ないます。よろしいですね?」
「…はい…」
 骨髄液の採取。
 かなりの痛みが伴うことを聞いたことがある。
 痛みに堪える姿は誰にも見せたくはないから。
 香穂子はひとりで検査に臨むことを決めた。
 家族には知らせない。
 正式な診断が下りるまでは。
 そして吉羅にはどんなことがあっても連絡はしない。
 そう決めた。

 香穂子が診察室から出ると、嫌な偶然と遭遇する。
 金澤が歩いているのを見掛けてしまったのだ。
 香穂子は咄嗟に、柱の陰に隠れた。
「日野…? 何だか日野に似た陰を見つけたような気がしたんだが…、気のせいだったかな…?」
 金澤は周りを見渡した後、諦めたように何処かへ行ってしまう。
 香穂子はホッとして、暫くしてから会計へと向かった。

 香穂子が見つからない。
 思い付くところは総て連絡をしたし、行ってみたのだが、香穂子の陰は何処にもなかった。
 裏切られた気持ちがこころのなかを満たすのを感じ、気分が悪かった。
 どうして何も言わずに消えてしまったのだろうか。
 こんな仕打ちを女にされたのは、生まれて初めてだ。
 吉羅はムシャクシャする想いの余りに、何も集中することが出来なかった。
 一緒にいた頃は、ごく当たり前だと思っていた。
 香穂子がそばにいるということが。
 だが、そうではないということを、こうして思い知らされる。
 香穂子がそばにいてくれた時は、こうして消えてしまう日が来るなんて、思いもしなかったのだ。
 だから大事にはしていなかったかもしれない。
「愛している」とも言ったことはない。
 それは言葉なんて、所詮は消えてしまう、うたかたのものに過ぎないからだ。
 だから言わなかった。
 香穂子への愛情は、態度できちんと伝えたつもりなのに、それでは伝わらなかったようだ。
 言葉でしか伝わらないのは、こちらとしても辛い。
 そんな安っぽいものに縋って、一体どうなるというのだろうか。
 吉羅は苦々しく想いながら、香穂子がいなくなった空間をぼんやりと見つめていた。


 香穂子は、吉羅との想い出が詰まっていた、ミッドタウンをぼんやりと歩く。明日はいよいよ骨髄液の検査だ。
 不安でどうしようもなくて、香穂子は泣きそうになって歩く。
 不安でたまらない時は、結局、吉羅と過ごした時間を欲してしまう。
 これ以上に癒してくれる時間はない。
 だがそれは許されないことだ、ならば、ここにいるだけで吉羅の香りを感じたい。
 ミッドタウンの中に吉羅の面影を探して、歩いた。
「おや、香穂子さんではないですか?」
 聞き慣れた声に、香穂子が顔を上げると、そこには吉羅の家にいた時に、よく利用したミッドタウンの病院の医師がいた。
「先生、こんにちは」
「貧血の具合は如何かな?今日も随分と顔色が悪いね」
 心配そうに顔色を診る医師に、香穂子はごまかすように笑った。
「大丈夫です。少しばかり疲れているだけですから」
「だったら良いが、余り無理をしないようにね」
「はい。有り難うございます。では急いでいますから…」
 香穂子が先を行こうと頭を下げると、医師もまた頭を下げる。
「またいつでも診てあげるから来なさい」
「有り難うございます」
 香穂子は頭を下げて礼を言った後、医師に背中を向けて歩き出す。
 数歩歩いて振り返った瞬間、息を呑む。
 数メートル先に、吉羅と美しい女が仲睦まじく歩いているのが見えた。
 やはり出て行っても、何も思われなかったのだ。
 それが哀しかった。

 香穂子がいなくなってから、もう直ぐ一週間ほどになる。
 吉羅は捜索するのを諦めようとしていた。
 心当たりにいない以上は、探しようがなかった。
 大都会に紛れてしまえば、本当に偶然なんて奇跡なのだから。
 香穂子のことだ。ある日ひょっこりと家に帰ってくるかもしれない。
 吉羅はそんな希望を強く抱きながら、香穂子を待つ。
 だが荒れた気持ちをどうすることも出来なくて、後腐れのない知り合いの女と共に過ごしていた日、吉羅が女とミッドタウンを歩いていると、顔見知りの医師が頭を下げてきた。
 医師は、よく風邪を引く香穂子を度々往診してくれていた。
 吉羅の相手が香穂子でないと知ると、半ば驚いたようだった。
 知り合いの女を見るなり、何か言いかけたことを医師は飲み込む。それが気になってしょうがなかった。
「先生、如何されましたか?」
「…いや、先程…香穂子さんにそこで偶然出会って…」
 吉羅は話を最後まで聞かずに、医師が来た方向に走る。
 ここに香穂子がいたのだ。
 こんなも近くに。
 だが、いくら探しても香穂子は見つからなかった。



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