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ミッドタウンになんて行かなければ良かった。 吉羅と美しい女性の姿なんて、一番見たくなかったのだから。 いずれにせよ、早晩捨てられていただろうと分かり、吉羅にはこれ以上未練を持ってはならないと香穂子は思った。 吉羅がいないところで、ひっそりと生きてひっそりと死んで行くのだ。 今はそれしか出来ない。 まだ、命に関わる病気であるかどうかは決ったわけではなかったが、ほぼ覚悟は出来ていた。 吉羅は、恐らく、香穂子が生きていることも死ぬことも、そう大して気にはしないだろう。 だからもう、自分を探し出してくれるのではないかだとか、愛していることに気付いて後悔しているだとか、そんな妄想は捨て去ってしまったほうが良いと、香穂子は思った。 ミッドタウンを上手くすり抜けて、何とか地下鉄に乗り込む。 振り返っても、吉羅を視線で見つけることなんて出来なかった。 これで本当に何もかも終わったのだ。 香穂子は涙を滲ませながら、そっと俯いた。 結局、香穂子を見つけることは出来なかった。 同じミッドタウンにいたというのに、結局は会えずじまいだった。 本当に腹が立ってしょうがない。 どうしてここまで自分を小馬鹿にするようなことをするのだ。 香穂子に対しては、段々と苦々しい想いを抱くようになる。 忌々しいといっても良かった。 その夜、吉羅は行きつけのスタイリッシュなジャズバーへと、女を連れて向かう。 すると偶然、金澤の姿を目にした。 「よ! 吉羅じゃないか」 「これか金澤さん、お久し振りです」 「ああ」 金澤もまた、女と吉羅の姿を見て、眉根を寄せる。 金澤は、不思議そうに吉羅に耳打ちをする。 「日野はどうしたんだよ? 誰か他の女とこんなことをしていたら、あいつのことだかなり哀しむぞ」 「日野君は知りませんよ。私も干渉する気はないのでね」 「…別れたのか…?」 「御想像にお任せしますよ」 吉羅はクールにさらりと言うと、金澤から離れた。 「…そうか…。お前に訊けば分かると思ったが…」 「何がですか?」 吉羅があくまで怪訝な態度を崩さないでいると、金澤は首を振った。 「まあ構わないさ…。日野を大学病院で見掛けたからな。お前さんなら、あいつの健康状態が分かると思っただけだ。血液内科の前で見かけたんだがな…。最近、大学でも顔色が優れないようだったからな…」 金澤の言葉に、吉羅は背筋が凍る。 まさか。香穂子は重大な病に掛かってしまっているのではなかろうか。だから吉羅から離れようとしたのではないだろうか。 そんなことが頭をかすめて離れない。 頭がガンガンと痛む。 もしそうならば、香穂子は、吉羅に迷惑を掛けない為だけに、離れたのではないだろうか。 それは哀し過ぎる。 余りにも切ない。 吉羅は、香穂子がもし後少しの命だと知って離れてしまったのならば、いたたまれないと思った。 「…吉羅?」 「金澤さん、香穂子を見たのは何処の大学病院ですか?」 「スモルニィ女子医大だ」 「スモルニィ女子医大…。有り難うございます」 吉羅はもう、ここで無駄な時間などを過ごしている場合ではないと感じる。 とにかく香穂子を救いたい。 それだけだ。 もし余命を告げられたのであれば、少しでも長く一緒にいたいと思う。 いや、決して、死なせるようなことはしない。 吉羅は一緒にいた女にタクシー代金を渡す。 「すまない。用が出来た。これで帰ってくれたまえ」 吉羅はクールなまでの冷酷さを滲ませると、直ぐにバーから出る。 「吉羅!」 いくら金澤が呼び止めても、吉羅は振り返らない。 ただ今は家に帰りたかった。 帰り着いた家は、相変わらず殺風景だ。 香穂子がいた頃とは、本当に何も変わらないというのに、ガランとしてしまっている。 それだけ香穂子の影響力は凄かったのだ。 部屋の端々に残る香穂子の温もりは、吉羅を切なくさせる。 香穂子を彷彿させるような華やかな影が過ぎり、愛しく思う。 思い出すのは、綺麗で可愛い香穂子だけだ。 吉羅のなかで愛しさが募っていくのが解った。 「…香穂子…」 吉羅はポツリと呟くと、溜め息を吐きながらテーブルを眺める。 この場所で、再び香穂子の笑顔を見ることが、果たして出来るのだろうか。 そう出来るようにと、吉羅は初めて祈った。 大学病院での検査の日、香穂子は沈むような想いで向かった。 吉羅にはもう自分は必要ない。 それを思い知らされて、香穂子は益々暗い想いを滲ませた。 だが逆に言えば、吉羅のことを遺していったとしても、安心出来るというものだ。 だから思い残すことなんてない。 香穂子は寂しさと希望のない痛みに胸を痛めながら、ゆっくりと病院へと向かった。 病院の中央入口に差し掛かった時、香穂子は息を呑む。 そこには、どこか疲れたような雰囲気を漂わせた吉羅がいた。 何の為にここにいるのかは解らないが、見つかってはならない。 香穂子はひとに紛れて隠れるように中に入ろうとした。 「香穂子、待つんだ」 吉羅の声が聞こえたかと思うと、いきなり手首を掴まれる。 相変わらずしっかりとした力だ。 驚いてしまうほどの。 香穂子は、思わず顔を見上げると、吉羅を不安げに見つめた。 「離して下さい…」 「駄目だ」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子を自分のすぐ近くに寄せる。 「…時間はあるかね? 話がしたい」 「私には何もありませんし、…それに…診察も…」 「診察には私も着いていく。君に訊きたいことがあってね…。診察開始までには終わる。少しだけ時間をくれ」 吉羅は、“イエス”と香穂子が言うまでは放さないとばかりに、腕に力を込めてくる。 香穂子は、息苦しくてたまらないのを感じながら、頷くしかなかった。 吉羅に連れて行かれたのは、病院内にあるクラシックな喫茶室だ。 一応は紅茶を注文したが、香穂子は全く手をつけなかった。 「…香穂子…、君が私の元から去ったのは…、ひょっとして…病気が一番の原因ではないのかね?」 吉羅の言葉に、香穂子はビクリとする。 確かにそれは大きな要素だ。 だがその他にもあることを、吉羅は気付いてはいないだろう。 「…吉羅さん、確かに病気が原因である可能性は否定しません。…私は、もうひっそりとしたいんです…。静かにこのままいられたら、それ以上に素敵なことはないかなって思っただけです…。これで、あなたも私も自由になりますから…」 香穂子は咄々と言いながら、吉羅の視線をまともに見ることが出来ない。 「それは君の勝手な憶測ではないかね? 君が、重大な病であるならば、私はそばにいて一緒に闘いたいと思っている。君が受けられる限りの医療を受けさせてやりたいと思っている。私の元に来て、一緒に闘うんだ」 吉羅は、まるで香穂子を逮捕するように手首をしっかりと握り締めてくる。その強さや痛みに、泣きそうになる。 「…吉羅さん…。…私…、白血病か再生不良性貧血…かもしれないんだよ…。一年後には、あなたのそばにはいられないかもしれないんだよ…? それでも、構わないの…?」 香穂子は涙を堪えながら、俯く。 吉羅の力強さに頼りたくなる。だがそれは出来ない。 「構わない」 いくら力強く言われても、これ以上は吉羅に甘えられない。 「…駄目だよ…。あなたを苦しめる…。それにあなたには、もう大切なひとがいるでしょう…」 香穂子が否定した瞬間、吉羅は軽く頬を叩いた。 |