*君へと続く道*


「勝手に決め付けるんじゃない」
 吉羅の厳しい声と共に響くのは、痛み。
 そんなにも強く頬を叩かれた訳じゃない。
 それどころか吉羅に殴られるのが初めてだ。
 頬を軽くはたく程度なのに、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「あ、あれ…? 涙が止まらないよ…」
 ごまかすように笑いながら慌てて涙を拭おうとしたが、吉羅がその前に拭ってくれる。
「一緒に闘って欲しいんだ…。それに今の医学では、治らない病気ではなくなっているはずだ。君を死なせやしない。私は…」
 吉羅は約束をするように強いトーンで言うと、香穂子を改めて見つめてくる。
「最高の医療を受けられるようにする。このままだと君は自殺行為をするような気がしてならないからね」
「自殺行為なんてしません…。生きたくても生きられないひとの気持ちは、私がよく解ります…。…ひとりで静かに…」
 香穂子は力なく言うと俯く。
「…君はそうやって猫みたいに、死ぬ時は隠れるなんてことをするのかね…!?」
 吉羅は低い声で厳しいことを言うと、香穂子を詰るように睨み付けてくる。
 お願い。そんな目では見ないで欲しい。
「…私は静かに、自分が出来る闘病をしようと思っています。…だから、猫のように逃げたわけではありません…。誰にも迷惑…かけたくなかったし…」
 香穂子は瞳に涙が零れ落ちるのを堪えながら、俯くことしか出来ない。
「迷惑だなんて思うはずはない。私たちはこの一年、家族同然に一緒に暮らしてきたんじゃないかね…?」
 吉羅が手を握り締めてくる。まるで自分の力を香穂子に与えるかのように握り締めてくれる。
「…香穂子…、一緒に闘わないか?」
「まだ、重大な病気だって決ったわけではないから…。今から骨髄液を摂取して、その結果次第なんです…。だから、大丈夫ですから…」
 香穂子は、かたくなだと思われても良いと思いながら、震える声で呟く。
「…香穂子…、君はどうしてそんなに頑固なんだ」
 吉羅は苦々しい声で呟くと、溜め息を吐いた。
「…吉羅さん、私のことは早く忘れて下さい…。お願いします。もうすぐ診察の時間ですから、行きますね」
「行かせない。君が、私と闘うと言うまでは行かせない」
 吉羅は握り締める手に力を込めると、香穂子を捕らえてしまう。
「あなたはもう別の女性と一緒にいるんでしょう!?  こうして申し出て下さるのはとても嬉しいです。ですが 同情では申し出て欲しくありません…」
「同情ではない、断じて! それに私は誰とも付き合ってはいない」
 珍しく吉羅の声が乱れるのが解る。
 息苦しい程にときめいてしまう。
「…吉羅さん…。どうかお願いです…、離して下さい…」
「嫌だ。君はそうして私をふり払うことで何の得もしないはずだ。違うかね? 君が私をふり払えば、君は私を 苦しめることになる。ひとを苦しめたくはないのなら、こんなことは出来ないはずだろう?」
 吉羅の剣のような言葉に、香穂子は躰を震わせる。
「…吉羅さん…」
「一緒に闘おう。香穂子…。その為にも結婚しないか…?」
「吉羅さん…」
 喜んで良いのか、哀しんで良いのかよく解らない。
 香穂子が泣きそうな顔で笑うと、吉羅は頬を撫でてくれる。
「一緒に闘わせてくれないか?」
 吉羅の声が誠実に響く。
 一緒に暮らし始めてから一年、ずっと待っていた言葉でもあった。
 吉羅といつかそうなれば良いと思いながら、ずっと夢見るように過ごしてきた。
 その願いが叶うのだ。
 それ以上に素晴らしいことは、他にないはずだ。
「…香穂子…」
「…少し考えさせて下さい。検討します」
 香穂子がやっとのことで言うと、吉羅は渋々ではあるが頷いた。
「…解った。良い返事を待っているから」
「…はい。では診察に行きますね」
「私も一緒に行こう」
 吉羅はそう言うと、香穂子の手を繋いだままで、一緒に立ち上がる。
「…解りました」
 まるで捕らえられたように手を繋いだままで、吉羅と一緒に診察室に向かう。
 流石に診療室の前では外してしまったが。
 香穂子が診察室に入ると、医師は吉羅の姿を見て僅かに眉を上げた。
「日野さん、その方は…?」
「婚約者です」
 吉羅は香穂子が答えられないようにと、間髪入れずに答える。
「婚約者の方ですか。では、後で血液検査だけを受けて頂いて構わないですか? 理由は今からお話しますよ」
 医師は穏やかに言うと、にっこりと笑って香穂子を見つめる。
「…日野さん、良かったですね。あなたは白血病でも再生不良性貧血でもなかったです。血液検査でミスがあったんですよ。あなたの病名は単核白血球増加症という、伝染病です。白血病や再生不良性貧血に血液検査の結果が似ているので、検査技術が間違えたのかもしれません。白血病と極めて症状が似ています。貧血、喉が腫れる、そして発熱や、異様なだるさ…。だから間違えることもあるんです…」
 香穂子は説明を聞きながら、全身からホッとして力が抜けるのを感じた。
「…こちらのミスです。で、感染原因ですが、誰かとジュースを回し飲みをしたこととかありませんでしたか?」
「…そういえば暑い日だったので、友人にペットボトルのミネラルウォーターを一口上げたことが…」
「その子は、その後に体調を崩して長期で休むといったことはありませんでしたか?」
「…はい。ありました…」
 医師は頷くと、香穂子に笑みを零した。
「それで感染したのでしょう。念の為に、婚約者の方も血液検査を受けて下さい。感染力はそんなに強くはありませんが、念の為に。あなたはそのタイミングで体力が弱っていたんでしょうね。だから感染して酷くなったのでしょう。薬を出しておきますから、安静になさって下さい。良くなるまでは無理は禁物ですから」
「解りました。そうさせます」
 香穂子の代わりに吉羅は答えると、強い視線を送ってきた。
「…では、明後日、もう一度顔を出して下さい。では婚約者の方の採血を行ないますね」
「解りました」
 吉羅の採血がされる間、香穂子は泣きそうな気分になる。
 知らなかったとはいえ、吉羅をこんな病気にさせてしまったら、それこそ後悔以上のものが残る。
 採血が済むと、医師は帰って構わないと言ってくれた。
 香穂子は頭を下げると、吉羅に促されて診察室を出る。
「有り難うございました」
 ホッと力を抜いて、香穂子はゆっくりと会計へと向かう。
「暁彦さん、有り難うございました…」
「重大な病でなくて良かった」
「はい」
 本当にそう思う。
 これが重大な病であったならば、恐らくはひとりで怖くてたまらなかっただろう。
 一安心だ。
 そして、これ以上吉羅に迷惑をかけない為にも、やはりここは離れるべきなのだ。
 会計が済むと、香穂子は処方箋を貰って病院前の薬局へと向かう。
 ここで吉羅とはお別れだ。
「吉羅さん、有り難うございました。ここからは私ひとりで行けますから。本当に感謝しています。そしてごめんなさい…」
 吉羅に謝ると、綺麗な顔が僅かに歪む。
「香穂子…君は全く解ってはいない。私はうちに君を連れて帰って看病をするつもりだ。だから、君をこのまま離さない」
 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子の手を捕らえてくる。
 その力が強くて、香穂子は逃げることが出来なかった。



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