*禁断*

1


 彼女がうちに貰われて来た日のことを今も鮮明に覚えている。
 姉が亡くなり、寂しくなった両親はあるひとりの女の子を引き取った。
 まだ3才で、名前は香穂子。
 本当に素直で明るくて純粋な女の子だった。
 本当に可愛くて可愛くてしょうがなくて、私はとてもよく可愛がっていた。
 いつも私の後ろばかりをちょこまかと付きまとうのが可愛かった。
 こんなに純粋で素直な女の子はいないと思ったものだ。
 そんな素直な女の子も、もう大学生だ。
 可愛くてしょうがない少女は、私にとってはかけがえのない、まるで宝石のようにきらきらと輝く女性に成長していた。
 私を異性として引きつけるほどに。
 私は純粋な気持ちで、彼女を愛していた。
 どうしようもないほどに愛しい。
 どうしようもないほどに可愛かった。

「暁彦さん、今日は学院に出勤するんだよね」
 朝食時、香穂子は花のように笑いながら、吉羅を見た。
 戸籍上は兄妹にあたるのだが、香穂子は吉羅を“暁彦さん”と呼ぶ。
 小さな頃からだ。
 香穂子の場合、里親から養子縁組をしたので、昔から自分が“養女”であることは知っている。
 だからなのか、吉羅は一度として“お兄さん”とは、呼ばれたことはなかった。
 昔はほんの一時期だけ“お兄さん”と呼ばれたいと思ったが、今はこの呼び方が気に入っている。
 香穂子とは、自由に恋愛しても構わないという気分にさせてくれるからかもしれない。
「今日は高等部の理事長室で溜まっている仕事を片付けるつもりだ」
「だったら、ファータに逢いにいくついでに寄っても構わない?」
 香穂子は不思議な少女だ。
 通常ならば、吉羅家の直系でなければ、常にファータを見ることは出来ない。
 だが香穂子は、学内コンクールでアルジェント・リリと親密になり、今や常にファータが見られる体質になってしまった。
 何か運命を感じずにはいられない。
「理事長室でヴァイオリンを弾けば、ファータどももやって来るだろう」
「じゃあ大学の講義が終わったら、行きますね」
「ああ」
 吉羅は静かに頷いた。
「暁彦さんは今夜もうちで泊まるの?」
「…いや。今夜は予定があるから六本木に戻る予定だ」
「そうなんだ…」
 香穂子はまるで子犬のようにしょんぼりとしている。
 その表情がまた可愛らしくてしょうがなかった。
「今度、時間がある時に、何処かに連れていくことにしよう」
「有り難う! 楽しみにしていますっ」
 途端に明るい笑顔になる香穂子が、こんなにも愛しい。
 本当はずっとそばにおいておきたい。
 それが難しいのは、自分でもよく解っているように思えた。
 吉羅は席から立ち上がると、静かに玄関先へと向かう。
「車で一緒に行くかね?」
「いいよ。うちから大学まで近いし」
「そうか。では夕方に理事長室で」
「はい」
 香穂子はあどけなく敬礼をすると、先に玄関先から出ていく。
 その後ろ姿を見つめながら、吉羅が愛しく思ったのは、言うまでもなかった。
「…香穂子ももう大学生か…。大人になるはずだ…」
 そろそろ恋人が出来てもおかしくない年齢なのだ。
 吉羅はそう考えるだけで、胸が苦しくなるのを感じた。
 香穂子を本当に大切に思っている。
 これ以上に大切な存在はないのではないかと、思わずにはいられなかった。
 香穂子を誰にも渡したくはない。
 出来ることならば、ずっとずっと未来永劫そばに置きたい。
 この腕の中で、香穂子を抱き締めたまま離したくはない。
 香穂子が養女であるということは知られている事実ではあるが、付き合うことは、ましてや結婚することなんて、倫理的に許されるものではない。
 吉羅もそれは充分過ぎる程に解っている。
 しかも、香穂子が通っている学校法人の理事長であるという事実もある。
 だからこそ苦しかった。
 許されない恋であるが故に胸が痛い。
 息苦しくてしょうがなかった。

 香穂子は、大学までの坂道を上がりながら、溜め息を吐く。
 いつまで、いったいいつまで吉羅暁彦の可愛い妹を演じなければならないのか。
 香穂子はそれを考えるだけで苦しくなった。
 吉羅家に引き取られてから、香穂子はずっと吉羅暁彦が好きだった。
 最初は、兄として慕う気持ちだったかもしれない。
 だが、そうではなかった。
 小学生高学年には、それが異性に対する恋心であることに気付いた。
 生意気かもしれないが、本当に出会った小さい小さい頃から、異性として意識をし続けていたのかもしれない。
 だが、そんなことを口に出来る立場ではなかった。
 養女であるということ。
 吉羅が、香穂子が通う学校法人の理事長であるということ。
 そして。妹としてしか、見ては貰えないということ。
 それが大きな影となって、香穂子に襲いかかっている。
 香穂子が知っているだけでも、吉羅はかなりの数の女性と付き合ってきた。
 誰もが大人でエレガントで、しかも知的で美しい女性ばかりだ。
 所謂、セレブリティばかりだ。
 吉羅暁彦もその世界の人間だから、そうなるのだろう。
 所詮、同じテリトリーの人間が出会って結ばれるのだから。
 香穂子は、いつまで経ってもセレブリティな世界には慣れることは出来ないでいる。
 吉羅家に貰われて最高に嬉しいし、両親にも吉羅にもとても感謝している。
 だが、もう一歩、セレブリティな世界には入り込めない。
 これが自分にとってはある意味強みだと、香穂子は思っていた。
 いつまでもその感覚を大切にしたいとも思っていた。
 吉羅が今度はどのように美しく、そして素晴らしい女性と付き合うのだろうか。
 もうとうに結婚をしてもおかしくはない年齢だから、香穂子はいつもドキドキしていた。
 吉羅暁彦が今度こそ結婚するのではないか。
 そればかりが頭の中でぐるぐると渦巻いていた。

 講義の後、香穂子は吉羅がいる理事長室へと向かった。
 学院の理事長室は大好きだ。
 こころが落ち着く。
 吉羅がいるからだろう。
 香穂子はノックをすると、真っ直ぐドアを見た。
「香穂子です」
「入りたまえ」
 いつもの答えにくすりと笑いながら、香穂子は理事長室に入った。
「失礼します」
 ちょうどタイミングよく西日が差し込んできて、吉羅が琥珀色に輝いてとても美しく見えた。
 ついうっとりと見つめてしまいたくなる。
 本当に素敵だ。
「ヴァイオリンを弾きにきてくれたのかね? 私の妹さんは?」
 妹。
 その言葉に胸が痛む。
 香穂子は、自分が養女とはいえ、吉羅の妹であることを思い知らされる。
 吉羅が、香穂子のことを年が離れた可愛い妹ぐらいにしか思ってはいないことは解っている。
 それでもそばにいられるだけでも良いから、妹でいようと努力してきた。
 だがもう無理なのかもしれない。
 生身を引き裂かれるような胸の痛みに、耐えられなくなるぐらいに、吉羅のことを愛してしまっている。
 こんなに激しく愛してしまうなんて思ってもみなかった。
「今日は何を弾いてくれるのかね?」
「ドビュッシーの“美しい夕暮れ”を…」
「ではそれを聴きながら仕事を続けるとしよう」
 香穂子は頷くとヴァイオリンを構える。香穂子にとって吉羅は最高の観客だった。

 吉羅は香穂子がヴァイオリンを弾く様子を、じっと見つめる。
 美しい夕暮れ。
 ちょうど今時分の時間をいうのだろう。
 だが、夕暮れよりも、黄昏色の光に照らされた香穂子のほうが、ずっと美しいと思った。
 本当に綺麗だ。
 吉羅は、女神よりも美しいのではないかと、思わずにはいられなかった。



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