*禁断*

2


 妹。
 なんて忌々しい肩書きなのだろうか。
 だが、それがなければ、吉羅は自分の気持ちを抑える自信はなかった。
 吉羅は、ヴァイオリンの音色もさることながら、香穂子の美しさに心を奪われる。
 本当に綺麗だ。
 ヴァイオリンの音色は澄み渡った秋の青空のように清々しく綺麗で、そして温かかった。
 その音色は、香穂子の心も美しいのだということを、吉羅に教えてくれた。
 それが何よりも嬉しいことだった。
 心も音色も姿も美しい女性は、香穂子以外にはいないと、吉羅は思わずにはいられなかった。

 ヴァイオリンを奏で終わり、香穂子は恐る恐る吉羅を見る。
 相変わらず表情が読めない。
 とても冷たい表情をしていた。
「…悪くはない。だが、まだまだ研鑽を積まなければならないレベルであるのは変わりない」
 吉羅はシビアに言うと、香穂子を冷たい目で見た。
 香穂子をヴァイオリニストとして、最も冷たい視線で見つめてくるのが、吉羅暁彦なのだ。
「おう! 吉羅香穂子、素晴らしいのだ!」
 リリがひょっこりと現れて、本当に楽しそうに飛び上がっている。
「有り難うリリ。またいっぱい弾くね」
「楽しみなのだー」
 リリが楽しそうにしてくれているのを見るのが、香穂子は楽しくてしょうがなかった。
 不意に吉羅のプライベートな携帯電話が鳴り響く。
「はい吉羅です。君か…。仕事が終わったんだね。私もそろそろ終わる。迎えに行くから、待っていてくれたまえ」
 吉羅が親しげに話をしているのは、きっと新しい恋人なのだろう。
 香穂子は胸がキリキリと痛くなるのを感じながら、吉羅の様子を見ていた。
 優しいまなざしだ。
 恐らくはこのままここにいないほうが良いだろうと思い、帰ろうとした。
 すると帰るなとゼスチャーをしてくる。
 香穂子はしかたがなく、待つことにした。
 吉羅が電話を終えると、香穂子をじっと見つめてきた。
「私も今から出るから、君を家まで送ろう」
「大丈夫です。もう小さくないから帰れます。だから、お先に失礼しますね」
 香穂子は頭を深々と下げると、そのまま出口に向かって歩き始めた。
「じゃあ、また、暁彦さん」
「ああ」
 香穂子はふんわりとした動きで、理事長室から出た。
 一人で帰りたかった。
 香穂子は肩を軽く落とすと、とぼとぼとひとりで帰ることにした。
 とぼとぼと歩いていると、肩をポンとたたかれた。
「土浦くん」
 顔をあげると、そこには指揮科の土浦がいた。
「今、帰りかよ」
「うん、そうだよ。土浦くんは?」
「俺は今からバイト。途中まで一緒に行こうぜ」
「そうだね」
 土浦と肩を並べて歩き始めた。

 吉羅は仕事を終えて、相手の待ち合わせ場所へと車で向かうことにした。
 学院から出て暫くして、吉羅は前方に香穂子と指揮科の土浦が肩を並べて歩いているのが見えた。
 香穂子は本当に楽しそうに歩いている。
 その笑顔は輝いているとすら思った。
 嫉妬が躰の奥深いところからわき出てくる。
 こんなにも痛い感情は他にはないと思った。
 吉羅は、ハンドルを持つ手が、嫉妬で震えていっぱいになってしまう。
 強引にでも送れば良かったと後悔してしまう。
 香穂子を引き止めれば良かった。
 以前から、土浦は香穂子の恋人候補の最有力であることは解っていた。
 いつかふたりが本格的に付き合い始めてしまったら、自分はいったいどうするのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 吉羅はなるべくクールにふたりの横を通り過ぎる。
 本当はクールではいられなかった。

 吉羅の車が静かに通り過ぎる。
 香穂子はドキリとした。
 しかし、吉羅はまるで香穂子たちなど眼中にはないとばかりに、通り過ぎてしまった。
 やはりただの“妹”なのだ。
 香穂子は益々気持ちが沈んでいくのを感じた。
 所詮は“妹”だから。
 もう諦めないといけないのかもしれない。
 香穂子はそのようなことをどんよりと考えてしまっていた。
「どうしたんだよ」
「あ、うん、何でもないんだ。明日も精一杯ヴァイオリン頑張らないといけないなあって思って、気が引き締まる気分だなあって! もっともっと頑張ろうって思って」
「そうだな。俺も立派な指揮者になれるように頑張らなければならないな」
 土浦はぐっと背伸びをすると、爽やかで温かな笑顔を香穂子に向けてくれた。
「そうだね。お互いにしっかりと頑張ろうっ!」
 香穂子はこのようなことで落ち込んでいてもしょうがないと思い、なるべく笑顔でいられるようにしようと思う。
「今度さ、みなとみらいホールであるコンサートに行かないか? 勉強になると思うんだ」
「うん。是非、一緒に行きたいよ。宜しくお願いします」
 今は色恋のことなんて考えないほうが良い。ただ、ヴァイオリンのことだけを考えていれば良い。
 香穂子はしみじみと思った。

 女性と食事をしていても、吉羅は香穂子のことばかりを考えてしまう。
 あれから土浦とどうなったのだろうかと、やきもきばかりしている。
 やきもきし過ぎて気分が余り乗らなかった。
 解っている。
 香穂子がそのような年頃であることぐらいは。
 祝福してやるぐらいの余裕があると良いのに、そうすることは出来ない。
 誰よりも香穂子を愛してしまった代償とも言えた。
 吉羅が、この年になるまで特定の女性と結婚前提で付き合わなかったのは、ずっと心の中で香穂子に恋をしていたからだ。
 香穂子以上に愛することが出来る女はいなかったからだ。
 だが、香穂子も年頃だ。
 誰と結ばれてもおかしくない年齢になってきた。
「どうされました?」
「いいや何でもない」
 吉羅は意識から香穂子を追い出そうとするが、なかなかそうすることが出来ない。
 どんな女性に出会っても、香穂子以上の女性は見つからなかった。

 吉羅がうちに余り顔を出さなくなって半月ほど過ぎようとしていた。
 理事長室に行ってもいつでも逢えるわけではないので、戸惑ってしまう。
 逢わないままで、香穂子は土浦とのコンサート観賞の日を迎えた。
 今日はクラシックコンサートだから、黒のスリップワンピースにボレロを羽織り、髪をノーブルに纏めてから出かけた。
 待ち合わせ場所に現れた土浦は少し照れたような顔をしたが、それが香穂子には新鮮で魅力的だった。
 吉羅は絶対にしてくれない表情だからだ。
 土浦にエスコートをされるように会場に入ると、ばったり吉羅と出くわした。
 吉羅の横には本当に綺麗な女性がいる。
 隙がないほどのエレガントさに、香穂子は沈んだ気持ちになった。
「…香穂子、君も来たのかね?」
「勉強方々、土浦くんと来ました」
「相変わらず君は勉強熱心だね」
 吉羅は余り感情が籠っていないような声で呟くと、横の女性を見た。
 大切な女性なのだろう。
 まなざしを見ているだけで解る。
 こんなまなざしをこれ以上見ていたくはない。
 香穂子は胸が痛むのを感じながら、作り笑顔をした。
「この可愛いらしい方はどなたですの?」
「私の年が離れた妹です」
「まあ、妹さん! 初めまして」
 一緒にいる女性は、本当に温かい笑顔を香穂子に向けてくれている。
 だが、香穂子はそのような笑顔を造ることが出来なかった。
 人間性で自分が劣っているように思えてならなかった。
「では、私たちはこれで」
 吉羅は早く女性とふたりきりになりたいからか、先に行ってしまった。
 その背中に拒絶されているような気になり、香穂子は胸が張り裂けてしまいそうになった。



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