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今夜の香穂子はなんと美しいのだろうかと、吉羅は思った。 黒い品のあるレースが綺麗なスリップワンピースなんて見たことはなかった。 相手が土浦だからだろうか。 そう考えると益々腹立たしい想いを抱いてしまうような感覚を覚えた。 「どうかされましたか?」 「何でもありません。コンサートを楽しみましょう」 吉羅はいつものように落ち着いた冷静な口調で言うと、コンサートに集中しようとする。 だが、何度も振り向いて、香穂子の位置を確認しようとした。 吉羅はやはり前方のとても見やすい良い席に座っている。 美しくて知的な雰囲気の女性は、吉羅にとっては特別な存在になっているのだろう。 香穂子は、いよいよ吉羅も結婚を真剣に考えているのだろうと、思わずにはいられなかった。 吉羅が結婚することになれば、妹として家族として当然ながら祝福をしてあげなければならない。 だが、そう出来ない自分がいることに、香穂子は気付いていた。 吉羅を兄としては愛せない自分がいる。吉羅をひとりの男としてしか愛せない自分がいる。 忘れるためには音楽に没頭すれば良い。 なのにそうしたとしても、吉羅のことが頭に染み付いて離れなかった。 香穂子は深呼吸をすると、音楽に集中しようとつとめる。 音楽だけが、今の自分を支えてくれているような気がした。 不意に演奏曲が可愛いらしいものに変わる。 “いつか王子様が”だ。 香穂子が大好きな曲を、より壮大にアレンジされている。 香穂子はそのアレンジを一生懸命一音も逃さないように聴いていた。 いつか王子様が。 香穂子が望んだ王子様は、小さな頃からずっとそばにいるひと。 だがそのひとは、香穂子には遠いひとだった。 決して王子様ではないひとだった。 手を伸ばしても届かないひとだった。 それに気付かなかっただけだ。 いや、気付いてはいたが、気付かないふりをしていただけかもしれない。 香穂子はしみじみとそう思った。 吉羅はコンサートを聴きながらも、香穂子のことが気になって気になってしょうがなかった。 土浦とは、本当の意味で恋人同士なのだろうか。 もしそうだとしたら、こんなに辛いことはない。 ふたりの様子が見たい。 だが、確認が取れない。 頻繁に振り返ることが出来ないから、吉羅はジレンマに陥る。 切なくて辛い。 どうしてこんなに好きなのだろうかと思ってしまうほどに、香穂子のことが好きでしょうがなかった。 香穂子が幼い頃に大好きだと言っていた“いつか王子様が”がかかる。 香穂子はこの曲で可愛いダンスをして、よく吉羅を和ませてくれたものだ。 「…暁彦さんが、私の王子様よ」 こまっしゃくれた笑顔で言っていたのを思い出す。 確かにそうだ。 吉羅のお姫様も、また香穂子であったから。 そんなことをぼんやりと思い出していると、吉羅は愛しい気持ちが込み上げてくるのを感じた。 香穂子が可愛い。 香穂子が愛しい。 それは吉羅にとっては、一番大切な感情だった。 コンサートが終わり、香穂子はのんびりとホールから出る。 二階席の後方だから、なかなか出ることが出来なかった。 のんびりと土浦と話しながらホールから出ると、玄関口には吉羅がひとりで立っていた。 「香穂子」 吉羅に名前を呼ばれて、香穂子は驚いた視線を向ける。 まさかここにいるとは思ってもみなかった。 「…暁彦さん…」 「今夜はもう遅い。車で家まで送ろう。土浦君も如何かね?」 「あ、俺はここから近いのでひとりで帰ります」 吉羅が威圧的だからか、土浦は何処か戸惑っている。 「お前の兄貴理事長、不機嫌そうだな…」 耳打ちをされて、香穂子は苦笑いを浮かべる。 「最近、いつもそうなんだよ」 香穂子は、土浦に相槌を打った後、吉羅を見る。 「お連れの方は?」 「彼女は帰ったよ。さあ、香穂子、来るんだ」 「あ、はい」 いつもにも増して、吉羅は強引だ。香穂子は逆らうことが出来なかった。 「土浦君、妹は責任を持って連れて帰るから、安心したまえ」 「はい…、ではお願いします。じゃあな」 「うん。またね、土浦君」 香穂子が土浦に手を振ると、頷きながら帰っていった。 吉羅はその横で厳しいまなざしをしている。 どうしてそんなにも厳しくて冷たいまなざしなのか、香穂子には分からなかった。 「行こうか」 「はい」 土浦に送って貰うよりも、香穂子は吉羅に送って貰うほうがときめいてしまう。 これは恐らくは、恋情があるかないかの違いだろう。 香穂子は思わずにはいられなかった。 「香穂子、余り遅くなるコンサートを男と一緒に行くのは関心しない」 「土浦君は良い友達だよ。本当に」 香穂子が土浦を庇うように言うと、吉羅のまなざしは冷徹に光った。 「君は男というのがまるで解ってはいない。男というものがどのような人種かが解るまでは、君は夜男と出歩かないほうが良い」 吉羅にピシャリと言われてしまい、香穂子はしょんぼりとしてしまう。 同時に、そんなにもまだ子供だと思われてしまうのが苦しくもあった。 「…私…、そこまで分別のない子供ではありません」 「ほお…」 吉羅が怪訝そうなまなざしを向けて来る。香穂子はそれが痛くてしょうがなかった。 「…本当に…君は大丈夫なのかね? 私から見ればかなり無防備に見えるがね」 「そんなことはありません」 吉羅の言葉に、香穂子は反発せずにはいられなかった。 どうして最近、こんなにも冷たいのだろうか。 香穂子を鬱陶しい存在だと思っているからだろうか。 そんなこと考える余りに、香穂子は暗い気分になった。 吉羅の車に乗り込んだ後、香穂子はしょんぼりとする。 「…暁彦さん、私はもう…子供じゃありません…。私が鬱陶しいのであれば…しょうがありませんが…、きちんと対処出来るように頑張っています。子供ではないです」 香穂子は悔しくて、吉羅にやんわりと反抗していた。 吉羅は黙ったまま、車を出す。 「君はまだまだ自立をしていない以上は子供だ。そのことは自覚するんだね」 「だからこそ、早く自立をして頑張れるようにしているんです。…私は、早く自立して子供から卒業したいと思っていますから…」 香穂子は静かに言うと、拳を握り締めた。 「本当に大丈夫ですから、暁彦さん…。本当に…」 「私からしたら君はまだまだ子どもだよ」 吉羅はさらりと言う。 吉羅に子ども扱いされることほど辛いことはないと、吉羅は解ってはいない。 香穂子は唇を強く噛み締めた。 「…本当に、いつまでも子ども扱いはしないで下さい。暁彦さん」 香穂子が力強く言った瞬間、吉羅は急ブレーキを掛けた。 いつまでも子ども扱いはしないで欲しい。 その言葉に、吉羅の理性の糸がプツリと切れた。 まだ誰のものにもなって欲しくはなかったから、吉羅はずっと守るように監視の目を光らせてきた。 どのような男も、香穂子に近付かせない為に。 そうしてきたことが仇になってしまったのだろうか。 吉羅はブレーキを掛けると、車を路肩に乗り上げさせた。 「…君はどうすれば…、大人の女性として扱われていると思うのかね…?」 「…それは…」 香穂子は一瞬口ごもったが、真っ直ぐ吉羅を見つめる。 「…それは…、暁彦さんが私をひとりの成人した女性として、扱ってくれたなら…」 香穂子が吉羅を見る。 艶のある女のまなざしだ。 次の瞬間、吉羅は香穂子を思い切り抱き締めた。 |