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あのひとは奇蹟。 出会ったことすら奇跡。 そして愛されたこともまた奇跡だった。 学内コンサート。それは香穂子にとって、演奏を披露できる数少ないチャンスだ。 香穂子はコンサート前の、最後のミーティングをしていた。 「お前さんたち、今日の演奏はしっかりやれよ。頑張れよ」 コンサート前の最後のミーティングで、金澤はメンバーに発破をかけてくれた。 「はい」 「よし、お前たちにご褒美を用意する!」 ご褒美と聞いて、誰もが色めきたつのは言うまでもない。 かくいう香穂子も楽しみな気持ちになった。 どのようなご褒美だろうか。 期待してしまう。 「今日、俺の後輩で、クラシックにはかなり造詣が深い実業家が来ている。そいつが気に入ったプレイヤーに、豪華なカサブランカの花束をプレゼントする」 カサブランカ。 とても豪華で素晴らしい花で、香穂子も大好きだ。 誰もが豪華な花束に笑顔になる。 このようにちょっとしたゲームを取り入れてリラックスさせてくれる金澤が、香穂子は大好きだった。 「金やん、該当者がいなかったら?」 「該当者がいなかった場合は、ウメさんに進呈される」 「えー、猫!?」 誰もがくすくす笑いながらも頷く。 ちょっとしたゲームだ。 香穂子は、段々とリラックスするのを感じながら、ヴァイオリンに集中することが出来ると、金澤には感謝をしていた。 いよいよ自分の番だ。 香穂子はステージに立つと、甘くて幸せな恋を思い浮べながら演奏を始めた。 こんな恋が出来たら幸せだろう。 そんなことをふんわりと考えながら、香穂子はヴァイオリンを奏でる。 ヴァイオリンを奏でている間は、現実の自分とは違い、音楽で表現された物語の中の主人公のような気分になれる。 その瞬間が、香穂子は大好きでたまらなかった。 本当にヴァイオリンを弾いている間は楽しい。 楽しくてしょうがないぐらいだ。 香穂子は、ヴァイオリンで作り出す音の世界の住人になっていた。 先輩の金澤に言われて、しょうがなく聴きに来たコンサート。 まさに人の心に訴えかける音色だ。 ずっと聴きたいと思っていた理想的な音が、まさに繰り広げられているのだ。 素晴らしいだとか、陳腐な言葉では表現出来ない。 感動しただとか、そんな生易しいものではない。 吉羅の魂を揺さぶってくる音色なのだ。 これほどまでに素晴らしいヴァイオリニストを他に知らない。 こんなにも気持ちを揺さぶられるなんて、疲れているのだろうか。 いいや、そうじゃない。 疲れなんて何処かにいってしまうような、そんな雰囲気だった。 やがてヴァイオリン演奏は終わり、ヴァイオリニストは頭を下げて、ステージの袖へと引っ込んでしまった。 続いて別のヴァイオリニストが演奏を始めたが、吉羅は少しも感動しなかった。 冷徹だと思うぐらいに心が全く動かない。 吉羅は、やはり先ほどのヴァイオリニストの音色が特別なものであったことを改めて気が付いた。 吉羅は、これほどまでに感動した音楽はないと思う。 カサブランカの行方は既に決まってしまった。 暫く、惰性で聴いていると、またあのヴァイオリニストが登場した。 今度はアンサンブルだ。 吉羅は、直ぐに音に集中する。 アンサンブルの中でも、あの音色は突出しているだろうか。 吉羅は目を閉じて、音に集中した。 演奏が始まる。 やはりあのヴァイオリニストの音色は直ぐに分かる。 だがひとり抜きに出てアンサンブルのバランスを崩しているのではなく、優しく包み込んで一体化させている。 アンサンブルとして聴いても、素晴らしい仕上がりになっている。 不思議な事だ。 ヴァイオリンの神様に愛された者の音だと、吉羅は思った。 このヴァイオリニスト程、素晴らしい音色を奏でる者はいない。 アンサンブルの他の音ですら、上手く取り込んでしまうのだ。 これには吉羅は唸った。 益々、ヴァイオリニストに興味が出て来た。 一度間近でその音色を聴いてみたい。 それと同時にこれほどまでの音を奏でる人物が、いったいどのような人物なのかを、知りたいと思った。 ひとに興味を持つ。 そんなことは今まであり得なかった。 誰かに興味を持つなんて、吉羅には考えられないことだった。 それなのに、このヴァイオリニストだけには興味をそそられてしまう。 話したい。 その内面が知りたい。 吉羅は心が熱くなるのを考えていた。 香穂子はいつものようにごく自然体にヴァイオリンを奏でていた。 とても心地好くヴァイオリンに集中出来る。 このホールの音響が大好きだと、そんなことをぼんやりと考えていた。 香穂子は、アンサンブルでも楽しい気分でヴァイオリンを奏でる。 気の合う仲間たちと組むアンサンブルが、一番演奏しやすかった。 アンサンブルは、みんなの音色とひとつになって高まる雰囲気が好きだ。 香穂子は笑顔でヴァイオリンを演奏し終えた。 コンサートが終わり、香穂子たちは楽屋件ミーティングルームで、ホッとしながら軽食を摘んでいた。 「今日のホールはやっぱり超一流のクラシック専門ホールだね。音の響き方が違ったよ」 香穂子がうっとりと呟くと、仲間たちは笑顔になった。 「香穂子は本当にヴァイオリンのことばかり考えているねー。ヴァイオリンを楽しんでるって感じ。確かに今日のホールの音は良かったけれど、それを楽しむことなんて出来ないぐらいに緊張したよ」 仲間のひとりが苦笑いを浮かべて香穂子を見た。 「みんなは演奏している時は楽しくないの?」 「まあ、それなりに楽しいんだけれど、やっぱり今日のようなところだと緊張しちゃうかなあ…。香穂は、本当にヴァイオリンを弾くことが楽しくて堪らないといった感じだね」 「うん、そうだよ。ヴァイオリンを弾いている時が一番幸せなんだ」 香穂子は素直に笑顔で言うと、誰もが見守るような温かな笑みを浮かべてくれた。 「羨ましいかな、正直。香穂のようにそこまでヴァイオリンを好きになれたらって思うよ」 仲間はフッと寂しそうに笑った。 ふと、楽屋のドアがノックされる。 ドアが開いた瞬間、いつもとは違う冷徹な雰囲気が感じられた。 無機質といっても良い。 ひととしての感情が感じられない。 そんな雰囲気だった。 だが、ドアの向こうから顔を出したのは金澤だった。 「日野、ちょっと来い」 「はい」 金澤に呼ばれて廊下に出ると、そこにはカサブランカの花束を持った、隙のない眉目秀麗な男性が立っていた。 まるでロマンス小説に出て来るような、全く非の打ち所がない男だ。 豊かな身長に、しなやかな獣のような強靱で引き締まった躰。仕立ての良いスーツが本当によく似合っている。 さらには甘い影のある、とても美しいと言っても良いほどの、氷の美貌だった。 こんなにも完璧な男性が、この世界に存在していたのだ。 香穂子は、男を見惚れずにはいられなかった。 若い実業家というのはこの男のことを言っていたのだろうか。 カサブランカの花束を持っているから間違ないだろう。 香穂子は胸が苦しくなるぐらいになりながら、男を見つめていた。 吉羅は、ヴァイオリニストが現われた時、時間が止まってしまったのではないだろうかと思った。 それほど衝撃があった。 直ぐそばにいるヴァイオリニストは、女性へのステップを昇り始めたばかりのような印象を受けた。 明るく真直ぐで、しかも純粋な雰囲気が滲んでいる。 ヴァイオリンの音色があれほど温かいのは、この雰囲気のせいなのだろう。 絶世の美女というわけではないが、それ以上の魅力があると感じた。 ふたりは見つめ合う。 まなざしで恋を感じた。 |