*奇跡の恋人*

2


 花束を持った、見たことのないとても魅力的な男性が目の前にいる。

 香穂子はこれが誰なのかが分らなかった。

「日野、花束の行方はお前だそうだ」

 金澤は男が持っている豪華な花束を指差す。

 それでようやく、金澤が先ほど言っていた男だということが解った。

 香穂子は男をつい見つめてしまう。

 いままで、こんなにも整った大人の色気を持った男には出会ったことはなかった。

 ついうっとりと見つめてしまう。

「吉羅、こいつは日野香穂子だ。うちのヴァイオリン専攻にいる。二回生だ。日野、こいつは吉羅暁彦といって、有能な経済人といったところだ。ひょっとしてお前も知っているのかもしれないが…」

「ごめんなさい、私は経済に疎くて」

 香穂子はヴァイオリンのことらば詳しいが、経済についてはサッパリだった。

 申し訳ないが、素直にそれは告げた。

 男は冷徹と思ってしまうほどの美貌に笑みすら浮かべることなく、香穂子に花束を差し出した。

「この花束は、君の物だ」

 男は低い感情が殆ど感じられない声で呟くと、香穂子に花束を差し出した。

「有り難うございます」

 両腕で抱えきられないのではないかと思うぐらいの立派な花束を受け取り、香穂子はただ男を見た。

 こんなロマンティックなことなんて、起こることなんて有り得ないと思いながらも、半ばうっとりとした気分だった。

「今日の演奏で一番よく出来ていたのはお前だというわけだ。だから喜べ。それに吉羅は音楽の造詣はかなり深いからな、お前さんを選んだ耳はかなり確かだと思うぞ」

 金澤の言葉に香穂子は嬉しくなる。

 吉羅が純粋に香穂子のヴァイオリンの力量で選んでくれたことが、何よりも嬉しかった。

「有り難うございます。本当に嬉しいです」

 いつもヴァイオリンを弾いても、あからさまに褒められることはなかった。

 だが、こうして褒めて貰えるのが、香穂子は手放しで嬉しかった。

「君の技術はまだまだだが…演奏は…悪くはなかった…。君は、人の心に訴えるものがあるね」

「吉羅さん…」

 吉羅にそう言われると、素直に嬉しい。

 技術はまだまだであることは、香穂子は認める。

 だが、その部分をきちんと指摘した上で吉羅が褒めてくれたのが、香穂子には嬉しかった。

「有り難うございます。技術的にはまだまだであるのは、解っていますから。だけど、私の良いところを褒めて下さって有り難うございます」

 香穂子が率直に礼を言うと、吉羅は初めてフッと笑った。

「君が成長してゆくのが、私にはとても楽しみだけれどね」

「有り難うございます。この評価を頂いたのに恥じないように頑張りますね」

 香穂子は、吉羅に感謝しながら、笑顔で誓った。

「そうだね。君はまだまだ技術面をしっかりと延ばさなければならないからね」

「はい、頑張りますね」

「ああ」

 吉羅と話していると、ときめくのと同時に楽しくなる。

 吉羅と一緒にいると、華やいだ気持ちと同時に、もっと話したいという気持ちになってしまう。

「ふたりとも立ち話は何だ、座って落ち着いて話すと良いさ。吉羅はクラシックの耳に関しては、プロの音楽評論家並だからな。色々と訊くと良い」

「有り難うございます」

 金澤はのんびりと言うと、ふたりにロビーの椅子を勧めてくれる。

 香穂子はもう少しだけで良いから吉羅と話がしたくて、勧められたように腰を掛けた。

 

 吉羅は目の前の、まだ少女ともいえる香穂子から目が離せないでいた。

 清らかな雰囲気と温かさが同居している、まさに香穂子が奏でるヴァイオリンの音色と同じだった。

 こんなにも誰かと話していたいだとか、吉羅自身が思ったのは初めてだった。

 だからこそ、つい、じっと見つめて、離れ難くなる。

 こんな女性は初めてだと、吉羅は思った。

 今まで女性に夢中になったことなど、今までなかったというのに。

 もっと逢いたい。

 もっと香穂子のヴァイオリンの音色が聴きたかった。

 こんなに熱情が自分自身にあるなんて、思ってもみなかった。

 だから訊きたかった。

 

「君は他にコンサートなどに出る予定はあるのかね?」

「小さなコンサートならいくつかあります」

 ちいさくてもヴァイオリンを弾くだけで香穂子は幸せであったから、コンサートに出られるだけで満足だ。

 だからこそ誇らしい気分で、香穂子は言った。

「では、私も伺おうとしよう。君が今日と比べて、どれぐらいヴァイオリンが上達をしたのかが興味があるからね」

 吉羅がまたヴァイオリンを聴きたいと言ってくれている。

 それが飛び上がるぐらいに嬉しかった。

「有り難うございます! 是非、聴いて頂きたいです」

 吉羅にまたヴァイオリンを聴きいて貰える。それを思うだけで、香穂子は胸が熱くなった。

「金澤さんを通じて誘ってくれたまえ」

「はい」

 香穂子は頷くと、つい笑顔になった。

「私は君のファンになってしまったようだ。ただ、これからもヴァイオリンの技術はしっかりと磨きたまえ。良いね」

 吉羅はしっかりと釘を刺すように言う。やはりそれだけヴァイオリンには、厳しい目を持っているということなのだろう。

「はい、頑張ります」

 吉羅の厳しい言葉に、香穂子は気持ちが引き締まる気分になった。

「しっかりとヴァイオリンを頑張ります。吉羅さんが、また聴いてみたいと思われるように」

「ああ。期待している。もっと頑張りたまえ。君が今日よりも素晴らしい演奏を聴かせてくれることを期待しているよ」

 吉羅はクールに言うと、香穂子を冷たい目で見つめてきた。

「君が確実にステップアップをしていく努力をするのであれば、私も援助は惜しまないけれどね。君次第だ」

 吉羅はあくまで努力をするならば、手を差し延べて良いと言ってくれている。

 決して豊かな経済状況でヴァイオリンを弾いているわけではない香穂子にとっては、とても有り難い申し出ではあった。

「有り難うございます」

「ただし、君がきちんとステップアップをするための努力を怠らないかを、私は慎重に見極めなければならないと、思っているがね」

 吉羅は、香穂子が努力をするのであればと、条件付きではあるが、手を差し延べようとしてくれている。

「解りました。吉羅さんに認めて頂けるように頑張りますから」

 香穂子はほんのりと勝ち気なまなざしを吉羅に向ける。吉羅へのある意味の宣戦布告でもあった。

 吉羅はフッと僅かに微笑んだ。

「ああ。期待しているよ」

 吉羅は静かに立ち上がると、時計をスマートに見る。

「タイムリミットだ。これにて失礼する」

 吉羅は感情ない声で言うと、静かに背中を見せて立ち去る。

 その広い背中を、香穂子はいつまでも見つめていたかった。

 

 吉羅はホールの駐車場に向かいながら、切なくて何処か温かな気持ちを感じていた。

 こんな風に思うのは久し振りだ。

 いや、久し振りどころか、初めてかもしれない。

 印象的なヴァイオリンと、印象的な少女。

 大学生ではあるが、まだ少女と言っても良いぐらいの女性だった。

 吉羅にとっては、今まで範疇にない相手であるはずなのに、気になってしょうがない。

 こんなにも気になる相手は初めてなのかもしれない。

 それぐらいに、吉羅にとっては、ある意味衝撃的な相手だった。

 相手は子供だ。

 特別な感情なんて起こるはずもない。

 なのに。

 どうしてこんなにも気になってしょうがないのだろうか。

 いくら考えても答えは見つからなかった。





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