*奇跡の恋人*

3


 吉羅暁彦が凄腕のビジネスマンだなんて思ってもみなかった。

 切れ者だとは思ってはいたが、そこまでとは思わなかった。

 香穂子は驚いた表情を菜美に向ける。

「吉羅さんって凄いひとなんだね」

「何、のんびり言っているのよ! 吉羅暁彦って物凄い切れ者なんだよっ。あなた、凄いひとに好かれたものだよね…」

 逆に菜美に感心されてしまい、香穂子はきょとんとしてしまった。

「好かれた…わけではないかもしれないよ。私のヴァイオリンを気に入って貰っただけみたいだし…。それにとてもクールだったけれど、私には優しかったし…」

「だけど吉羅暁彦には気をつけなよ。あの男は、感情なく斬って捨てることが出来るからね。だから、こっちからは近付かないほうが良いよ。私たちのような年端もいかない女子が相手出来るひとではないからね」

 菜美は少し厳しい目に言ってくる。

 香穂子はそれに頷くしかなかった。

 元々、住む世界が違うひとだというのはよく解っている。

 だからこそ深入りすることはないと、香穂子は思っていた。

「もう逢うことはないと思うよ。私のヴァイオリンが気に入ってくれただけだから。逢うとしても、コンサートの時に見に来て貰うぐらいだよ」

「…そうかなあ。何だか、吉羅暁彦が、あなたのことをかなり気に入っているような気がするんだよねえ…。何となく勘だけれど」

「そんなことはないよ。菜美の勘はよく当たるけれども、今回ばかりは当たらないんじゃないかなあ。私はそう思うよ」

 香穂子は吉羅に気に入られるなんてありえないと思う。

 本当にそうだからだ。

「そうだと良いんだけれどね…」

 天羽は溜め息を吐く。

 その勘は見事に当たってしまうのだった。

 

 ヴァイオリンの音色と自分好みの雰囲気とが重なって、興味を持ったに過ぎない。

 だからこそ直ぐに興味は失うかとも思った。

 いいや。

 そうならないことが予測出来たからこそ、そうなるように祈っていたのかもしれない。

 日野香穂子のことが全くといって良いほどに忘れられなかった。

 今も美しい非の打ち所のない女性と食事をしている。

 なのに、吉羅は女性と話をする度に、ここに日野香穂子がいたら良いのにと思わずにはいられない。

 なんてことだろうか。

 ここまで誰かに入れあげたことなんて、今までなかった。

 良いなと思っても、直ぐに醒めてしまうのが常だった。

 今回は違う。

 惹かれた経緯も今までとは違っていたから、しょうがないのだろうか。

 目の前にいる女性のほうが、日野香穂子よりもずっと美しいというのに、吉羅は日野香穂子のことばかりを、考えてしまっていた。

 また逢いたい。

 いち早く逢うためにはどうすれば良いのだろうか。

 吉羅はそんなことばかりを考える自分が恨めしく思った。

 結局は、女性と一緒に食事だけをして、送って帰った。

 日野香穂子のことしか考えられないのに、他の女性と過ごすことは出来なかった。

 相手にもかなり失礼だと思ったからだ。

 香穂子をどうしたら誘えるのか。

 そんなことをぼんやりと考えていた。

 

 香穂子はといえば、吉羅は夢の中に現われた理想の手が届かないひとと思えるようになった。

 まさにそうなのだから。

 それが現実だ。

 ロマンティックなことなんて考えられない。

 香穂子は自分にはそう言い聞かせたが、夢見る部分をなかなか上手くごまかすことは出来なかった。

 

 香穂子は今日も大学を終えて、アルバイト先に向かう。

 今はショッピングモールの本屋でアルバイトをしている。

 ヴァイオリンを勉強するには色々とお金がかかるからだ。

 とはいえ、余り実入りの良い部類のアルバイトではなかったが、それでも自分にはぴったりだと、香穂子は思っていた。

 

 吉羅は横浜での仕事を終えて、出先の直ぐ近くのショッピングモールに向かい本屋を探した。

 興味深いビジネス記事が載っているヨーロッパの雑誌が欲しかったのだ。

 吉羅は本屋の洋書コーナーで手に取ると、直ぐにレジへと向かった。

 レジに並んだ瞬間、全くついていないと思った。

 ちょうどレジスタッフが代わるタイミングだった。

 列を変わろうかと思った時だった。

「…日野君…」

 交代したレジ係が日野香穂子だったのだ。

 これには吉羅も驚いてしまった。

 まさかこのような場所で香穂子に逢えるなんて、思ってもみないことだった。

「あ…吉羅さん…」

 香穂子は吉羅に気付いたようで、にっこりと微笑んでくれた。

「こんにちは」

「こんにちは。ここでアルバイトかね?」

「はいそうなんです」

 余り話しかけても迷惑になるだけだろう。

 吉羅はとにかくそれだけの会話をして、列から出た。

 まさかこんな場所で、日野香穂子がアルバイトをしいるなんて、考えもしなかった。

 日野香穂子が何処でつかまるか。

 解っただけでもかなりの収穫だろう。

 吉羅は一転、かなりラッキーになったような気分になった。

 吉羅は幸せな気持ちで満たされるのを感じながら、つい微笑んでしまう。

 日野香穂子に逢えた。

 それだけで嬉しくてしょうがない。

 そんなことを思ったのは生まれて初めてで、吉羅は良い気分になったのが解った。

 

 まさかこんなところで吉羅暁彦に出会えたのは嬉しかった。

 吉羅は相変わらず素敵で、香穂子はついうっとりとしてしまう。

 やはり住む世界が違うひとではあるが、それでも憬れずにはいられなかった。

 

 吉羅は、香穂子に声を掛けてみることにした。

 まるで高校生にでもなったような気分になりながら、香穂子のアルバイト先へと向かう。

 誰かを誘うのに、こんなにも緊張してしまったのは初めてかもしれない。

 全く初めてのことばかりが起こる。

 感情に振り回されているといっても良かった。

 香穂子は、本当に純粋な女性だ。

 あんなにも透明な純粋さを持った女性は初めてなのかもしれない。

 少なくとも吉羅が出会ったひとの中では。

 吉羅は、香穂子を探すために本屋へと向かった。

 すると香穂子は本の整理しており、一生懸命やっていた。

 仕事中に声を掛けるのは憚られたが、ほんの少しならと声を掛けてみる。

「日野くん」

 声を掛けると、香穂子は頬をほんのりと染めながら振り返ってくれた。

「吉羅さん!」

「日野君、仕事はいつ終わるかね?」

「この本の整理が終わったらです」

 吉羅は頷くと、香穂子を真直ぐ見つめた。

「では、アルバイトが終わった後に、少しお茶でもご一緒しないかね?」

 ドキドキしながら相手を誘うなんて、吉羅にはありえないことなのに。

 この若きヴァイオリニストの前だと、初々しい気持ちになってしまう。

「分りました。お茶に行きましょう」

 香穂子が笑顔で良い返事をしてくれたのがとても嬉しかった。

「ああ。有り難う」

 吉羅は香穂子に微笑んで貰えただけで、同意をして貰っただけで、とても幸せに思えた。

 

 香穂子はきちんと自分の仕事をし終えた後、吉羅が待つ本屋の入口に来てくれた。

「お待たせしました」

 少し息を弾ませてやってくると、とっておきの笑顔を向けてくれる。

 こちらまで甘く微笑んでしまうではないか。

「アルバイトの後ならお腹が空くんじゃないかな?」

「そうですね」

「だったら、軽い夕食でも取るかね?」

「そうですね。軽くなら」

「じゃあ行こうか」

 香穂子と一緒にのんびりと歩く。

 こんなにも気分が良いとは思わなかった。





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