*奇跡の恋人*

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 こうして吉羅と肩を並べて歩くことが、香穂子にとってはかなり不思議なことだった。

 今までなら決して接点が発生しないようなひとと一緒にいることが、とてもロマンティックで、何処か不思議。

 吉羅と暫く歩いた後、パーキングに到着する。

 パーキングには立派なフェラーリが停っている。

 吉羅はそれに目掛けて歩いていった。

「どうぞお嬢さん」

 吉羅はエスコートをするように、助手席のドアを開けてくれた。

 こんなにもきちんとエスコートをして貰ったことはなくて、香穂子は驚いた。

「有り難うございます」

 普段着を着ているのが恥ずかしい。

 花柄のふわりとしたチュニックにジーンズ。

 全くカジュアル過ぎる。

 髪も無造作にしているから、本当に恥ずかしかった。

「美味しいカジュアルダイニングの店に行こうか。君も気に入る筈だよ」

「有り難うございます」

 このようなスタイルでは、きちんとしたレストランは行けないだろう。

 香穂子はほんの少ししょんぼりとした。

 もう少し綺麗目なスタイルにすれば良かったと思わずにはいられなかった。

 吉羅は、お洒落だがかなりカジュアルな雰囲気のレストランの前で、車を停めた。

「金澤さんとよく来ているんだよ」

「そうなんですか…」

 金澤と来るのであれば、確実にカジュアルだろう。

 金澤は堅苦しい場所は苦手だからだ。

 香穂子は、ほんの少しだけホッとしていた。

「さあ、行こうか」

 吉羅はあくまでも紳士的に香穂子を扱ってくれている。

 それはかなり嬉しい。

 店の雰囲気はカジュアルだが、あくまでも気品があるカジュアルだ。

 吉羅とふたりで、海が見える席に案内をされた。

 とても綺麗な夜景が見られる。

 吉羅とふたりで、ハーフコースを注文をしたが、充分すぎるぐらいの量だった。

「アルバイトは楽しいかね?」

「はい、楽しいですよ」

「だろうね。君はいつでも笑顔でいるからね。楽しそうに働いていると思って見ていたよ。だが、ヴァイオリンを弾いている時のほうが、もっと楽しそうに笑っているように見えるけれどね」

 吉羅にそう言って貰えるのは、喜ばしいことだ。

「ヴァイオリンを弾いている時が一番、幸せなんですよ」

 香穂子はついうっとりとしてしまう。

 本当にヴァイオリンを弾いている時間が一番幸せだからだ。

「だからなのかな。君の音がとても魅力的なのは。どのような曲であっても、心を込めて弾いてくれているのは、聴いていて、とても気持ちが良いからね」

「有り難うございます。そうおっしゃって頂けるのは嬉しいです」

 自分自身を褒められるよりも、演奏を褒められるほうがずっと嬉しいです」

「そうか」

 クラシックの造詣が深い吉羅に褒められるのが、香穂子は嬉しかった。

「君のヴァイオリンは何度も聴きたいものだね」

「有り難うございます」

 ヴァイオリンをまた吉羅の前で奏でたい。

 そして、もっともっと感動して欲しいと思った

「さあ、食べなさい。色々とヴァイオリンの話を聞かせてくれないかね?」

「はい」

 「君はいつからヴァイオリンをやっているのかね?」

「…実は高校生の頃からなんです。だから、みんなよりもヴァイオリンの技術が低くて…」

 香穂子がしょんぼりと言うと、吉羅は驚いたようだった。

「君のキャリアはそんなに短いのか…。驚いたよ…。そんなに短いキャリアでここまで演奏が出来るヴァイオリニストは聞いたことがなかったからね…」

「はい、有り難うございます。是非、演奏させて頂きますね」

 吉羅が好意的に受け取ってくれたことが、香穂子には嬉しい。

 このひとの前で、もっとヴァイオリンを弾きたい。

 このひとにもっとヴァイオリンを聴いて欲しい。

 香穂子は、吉羅が最高のオーディエンスになることは容易に想像することが出来た。

「日野君、私のところで小さなリサイタルを開いてくれないかね?」

「リサイタル…!」

 ソロで数曲は演奏したことはあるのだが、リサイタルのように何曲も演奏したことはない。

 吉羅に何曲も聴いて貰えたら、これほど嬉しいことはない。

「是非演奏させて下さい」

 香穂子は身を乗り出して吉羅に言う。

 すると吉羅は僅かに笑って、頷いてくれた。

 これほど誰かにヴァイオリンを聴かせたいと思ったことはない。

 吉羅には一番近くでヴァイオリンを聴いて貰いたいと思った。

 

 香穂子のヴァイオリンを独占する。

 我ながら大胆なことを考えたとは思う。

 だが、あの音色を、ひとときでも構わないから独占したいと思った。

 それほど素晴らしい。

 ヴァイオリンの音色と香穂子。

 そのどちらにも深い興味を抱く。

 こんなことは初めてだ、

 誰かの音色を楽しみにして、誰かに逢うことを楽しみにするなんて。

 吉羅は、自分が恋というものにかなり疎かったということを、今更ながらに気が付いた。

 香穂子の笑顔を見ているだけで癒される。

 香穂子の話を聴いているだけで構わない。

 自分がこんな風に思うなんて、思ってもみなかった。

 香穂子のそばにいたい。

 そばに置いて、もっとその笑顔を独占したい。

 もっとその声を独占したい。

 香穂子を独占したい。

 そんな想いに駆られる。

 香穂子ひとりだけで良いなんて、そこまでは考えられないが、今は時間を共有したかった。

 

 ふたりはレストランを出て、家路につく。

 吉羅の車に乗り込むと、とてもロマンティックで、何だか甘い気分になった。

 とろりとしてしまうような甘い気分。

 少し苦しいけれど幸せな気分は、香穂子の感覚を刺激した。

「日野君、君の住まいは何処かね?」

「日吉です」

「学生街だね」

「はい。そこで友人とマンションをシェアして住んでいます。気を遣わない相手なのでとても快適です」

「それは良かった」

 吉羅は落ち着いた声で言うと、車を日吉に向けて走る。

 いつか。

 本当にいつかで良いから、吉羅と夜の街をドライブしてみたい。

 吉羅とドライブをしながら、ロマンティックな時間を過ごせたら、どんなにか幸せだろう。

 くすぐったいぐらいに甘い妄想に、香穂子自体も苦笑いをした。

 カーステレオからは心地好いモーツァルト。

 何だかリラックス出来る。

 香穂子は、素晴らしい夜だと、まるでふわふわと雲の上にいるような気持ちで思っていた。

 酔っ払いの心地好い千鳥足気分はこのようなものだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていた。

 やがて日吉近くになり、香穂子はナビゲートをする。

「そのマンションです」

「解った」

 決して築浅ではないが、香穂子はこのマンションが気に入っていた。

 ヴァイオリンのスタートには丁度良いマンションだからだ。

「有り難うございました」

「ああ。では、また。気をつけて」

「吉羅さんこそ気をつけて下さいね。有り難うございました」

 香穂子は何度も深々と頭を下げると、走り去る吉羅の車が見えなくなるまで見送った。

 香穂子が部屋に戻ると、まだ天羽は帰って来てはいなかった。

 ほんの少しではあるが安心してしまう。

 恐らくは天羽のことだから、心配して怒ってしまうかもしれない。

 吉羅暁彦には、かなり厳しい目線を持っているからだ。

「吉羅さんは酷い男性ではないんだけれどね…」

 くすりと笑いながら、香穂子は窓の外を眺める。

 とても快適な気分。

 今でも空を飛べてしまいそうなぐらいに幸せな気分だと、香穂子は感じずにはいられなかった。




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