*こい・うた・ひめ*


 あのひとと出会ったのは、桜が満開の時。
 初めて見たあのひとは桜の王のように麗しく、そして力強さがあった。
 あれが“運命の出会い”あれ以上の出会いなんて、生涯、探してもないだろう。
 あれほど愛せる相手に出会えるのは…。


 透き通るほどに美しい青空は、横浜に春が来たことを告げている。
 光は日に日に力強さを増し、躍動感に溢れていく。
 昨日まで重いコートを着ていた人々が一気に華やいで軽くなり、内気なティーンエイジャーのように春に恋をしていた。
 春とはそういう季節なのだ。
 香穂子も例外に漏れることなく、春にはにかんだ恋情を向けていた。
 春は香穂子に柔らかな美しさを沢山見せつけてくれている。
 満開になった桜を香穂子に見せつけて、自分に恋をするように囁いているように思えた。
 桜は目に鮮やかに美しく、香穂子は花見を目当てに、横浜の山手を歩く。
 桜は猫のくしゃみで花を散らしてしまうのではないかと思うほどに、桜の花は不安定に揺れていた。
 鈍色の柔らかな光が桜の花びらに差し込み、透き通った淡い桜色が宝石よりも綺麗に輝いている。
 本当に綺麗で時間を忘れてしまいそうだ。
 香穂子は時計を見て、大きく伸びをする。
 約束の時間まではまだある。
 もう少し桜を見て、のんびりすることが出来るようだ。
「本当に綺麗だよね…、やっぱり…」
 一年のうちでも桜が華麗に咲き誇る時間が、香穂子は最も好きな時間だ。
 のんびりと散歩を堪能していると、不意に耳に柔らかな声を聴いた。
「…この路地に入るのだ!」
 何だか少し偉そうなのに何処か可愛い声。
「まだ時間もあるし、少し冒険しちゃおうかな?」
 香穂子は声に導かれるままに、路地の中に入っていく。
 路地の袋小路になっていて、終点には見事な桜が咲き誇っていた。
 今まで見たことがないと思うほどに桜の花びらは美しく、香穂子は思わず見入ってしまう。
 これほどまでにきらきらと輝く桜の花びらを、香穂子は見たことがなかった。
 本当に息を呑むほど美しくというのは、この桜の花びらのことをいうのだろうと、香穂子は思った。
「…桜の花は綺麗だろう!」
 先程聴いた声にハッとして、香穂子は意識をそれに向ける。
「ねぇ、誰が話しているの?」
「我輩だ!」
 可愛い声に導かれるように視線を向けると、小さな妖精がひらひらと待っているのが見えた。
「……!!!」
「我が輩はアルジェントリリだ! お前はヴァイオリンが好きだろう?」
 香穂子は目を丸くしたまま、ただ頷くことしか出来ない。
「我が輩がお前を呼んだのだ! お前は音楽に祝福されている!」
 嬉しいことを口にしてくれる妖精だが、香穂子は白昼夢を見ているような気分になる。
「本物の妖精…だよね…?」
 香穂子が妖精に触れようとすると、ピクリと跳ね上がった。
「我が輩はアルジェント! 失礼だぞ!」
 矜持の高い声で言われてしまい、逆に香穂子がビクリとした。
「我が輩はリリ。アルジェントだ」
 アルジェントなんて何だか分からない。
 だがここは名乗らなければならないと思い立ち、香穂子は名乗る事にした。
「日野香穂子だよ」
「日野香穂子、宜しく頼む!」
 リリが小さな手を差し出してきたものだから、香穂子も手を差し出して握手をした。
 可愛い手に、思わずくすりと笑ってしまう。
「そこに、誰かいるのか?」
 低くよく通る魅惑的な声が背後から聞こえて、香穂子は思わず振り返る。
 そこには長身の隙がないほどに総てが細微なまでに整った男が立っていた。
 男を見つめた瞬間、香穂子の心は大きく跳ね上がり、そのまま高みまで舞い上がっていく。
 魂が揺さぶられると思うほどに、香穂子は一瞬にして魅了されていた。
 こんなにも素晴らしく麗しい男はいないのではないかと思う。
 艶やかな髪。
 怜悧さと何処か情熱を秘めたような瞳、筋の通った高く美しい鼻梁、そして整った少し酷薄な雰囲気を漂わせた完璧な唇、シャープなフェイスライン。
 何処を取っても整い過ぎていて、香穂子はぼんやりと見つめることしか出来ない。
 不意に春特有の風が渦を巻くような風が吹き渡り、音を立てて桜の花びらが吹雪になって舞い散る。
 花びらが擦れる音が大きく響き渡り、香穂子は胸がキュンと鳴るのを感じた。
 まるで男に合図をされたかのように、完璧なタイミングだ。
 桜吹雪を浴びながら、男は空を見上げていた。
 その姿は本当に美しくて、香穂子はこの世のものとは思えないと思いながら、まるで美術品を見るような 気持ちでじっと見つめていた。
 ひょっとして先程の妖精は桜の精で、悪戯が過ぎるから追いかけてきて叱ろうとしている、桜の王様なのかもしれない。
 そんなおとぎ話めいたことを、香穂子はぼんやりと考えていた。
「…何をじっと見ている?」
 よく通るテノールが心に刺さるように響き渡り、香穂子は思わずビクリと躰を揺らした。
「桜の王様?」
「何を馬鹿なことを言っているのかね? お嬢さん」
 ピシャリと言い放つところは、何処かリアリストな部分が見え隠れする。
「…あ、あの…、先程、妖精を見たというか…、あの…、アルジェントというリリって名前の…」
 香穂子は自分では何を言っているのかが分からないまま、しどろもどろな言い訳をする。
 つい苦笑いを浮かべてしまっていた。
 男の様子を伺っていると、眉を神経質そうに寄せて香穂子を見ている。
 恐らくは“頭がおかしい”とでも思われているのだろう。
 クールなほどに整った顔で険悪な表情を浮かべられると、かなり怖い。
 いや、“かなり”なんて生易しいものではないのかもしれない。
 だが、男から返ってきたのは意外なまでの言葉だった。
「…君は、アルジェント・リリが見えるのかね!?」
 男は驚いたように香穂子を見つめる。
「…?」
 本当に“桜の王様”なのかもしれない。
 これほどその肩書きが似合う男はいないだろう。
「…み、見えますが…それが何か…?」
 香穂子は小首を傾げながら、不思議な気分で男を見つめた。
「…うちの一族以外で、羽根虫が見える人間に逢ったのは初めてだからね…」
 男は軽く溜め息を吐くと、感情のない瞳で、香穂子を見つめる。
「普通のひとには見えないんですか?」
「ああ。見えないよ」
 男はキッパリと言うと、更に深みのあるまなざしを向けてくる。
 鼓動が大きくなり、リズムが早くなる。
 喉がからからになりどうして良いかが解らなかった。
 この男性の総てを知りたい。
 そんな想いが強くなり、沸騰していく。
 香穂子がじっと見つめていると、男は一瞬、目をすがめた。
「あっ…!」
 男に引寄せられて、香穂子は思わず甘い声を上げた。
 そのまま抱き締められて、頬に触れられた。
 香穂子は息を呑む。
 だが、全く嫌な気分にはならなかった。
 むしろもう少し抱き締められたいとすら思ってしまう。
「…あ…」
 見つめられて、そのまま唇が近付いてくる。
 ごく普通に目を閉じて唇を受け入れた。
 ほんの一瞬だけのキス。
 ファーストキス。
 ロマンティックで甘い甘いキスだ。
 ほんの短い時間だったのに、香穂子にとってはそこに永遠を閉じ込めたようなキスだった。
 唇が離れた瞬間、その喪失感に泣きそうになる。
 香穂子はどうして良いかが分からなくて、そのまま男から離れてしまう。
 泣きそうなのにドキドキして幸せで。
 慣れない感情に、香穂子は戸惑いを感じていた。



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