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彼女と出会ったのは、桜が満開の時。 初めて見た彼女は桜の妖精のように美しく、そして清らかだった。 あれが“運命の出会い”あれ以上の出会いなんて、生涯、探してもないだろう。 あれほど愛せる相手に出会えるのは…。 赤毛の美しい少女が立ち去って行くのを、吉羅はただ見送るしかなかった。 今までこのようなことなどしたことはないというのに。 感情に溺れてしまうかのようにキスをしたことなど、今までの自分ではあり得なかった。 そのことに吉羅は先ず驚いてしまう。 「…参ったな…」 吉羅は苦笑いを浮かべながら、髪をかきあげた。 今までは、誰かを深く欲しいと思ったことなど一度としてなかった。 なのに少女に対して、本当に欲しいと思った。 まるで桜の精かと見紛うほどに美しく、聖なる存在だった。 魂ごと魅入られてしまったといっても良い。 アルジェント・リリを見る事が出来ると知った瞬間、運命の相手だと本気で思った。 また逢えるだろう。 これで縁が尽きる相手では、決してないはずだ。 吉羅は、艶めいている髪に舞い落ちる柔らかな桜の花びらを指先で弾きながら空を見上げる。 近いうちに逢える。 そんな確信が強くあった。 香穂子は特に走らなくても良いのにも拘らず、つい一生懸命に走ってしまう。 緩やかな坂道出たところで、香穂子は息を弾ませながらようやく止った。 まだ男の残像が瞼に焼き付いている。 忘れたくない残像だ。 消してしまいたくなくなるほどの、美しい残像だった。 香穂子は唇に指先を宛てる。 本当は夢だったのではないかとつい考えてしまう。 それほどまでに素晴らしかった。 あのように素敵な男性を、香穂子は見た事はないと思う。 夢のように素晴らしい男性にキスをして貰えたのが嬉しい。 香穂子だけの宝物だ。 恐らくはひと目惚れなのだろう。 また逢いたい。 だが、逢うにはどうしたら良いのかを、香穂子は分からない。 香穂子は男のことを考えながら、ときめきを抑えることが出来なかった。 大きな溜め息を吐いた後で、香穂子は時計を見る。 そろそろ良い時間なのかもしれない。 遅刻をしても困るので、香穂子は目的地に向かって歩き始めた。 今日は、初めて逢う叔父との対面の日だ。 両親が海外に赴任をするため、香穂子は叔父に預けられるのだ。 叔父は叔父でも、母親側の叔父だ。 母親とよりも、香穂子とのほうが年が近いと聞いている。 母親がかなり信頼していると聞いている。 かなり堅物らしいので、香穂子は一緒に頑張れるかは不安だ。 「良いひとだと良いんだけれどね…」 香穂子は約束の場所である、老舗の高級レストランへと向かった。 普通なら行くような場所ではないが、今日は特別だからだと母親から聞いている。 食事をするのは楽しみだが、叔父に逢うのは緊張していた。 香穂子がそっとレストランに入ると、既に両親は到着をしているようだった。 「香穂子!」 「お父さん! お母さん!」 香穂子が声を掛けると、母親が手を振ってくれている。 ゆっくりと笑顔で向かうと、一瞬、ドキリとする。 先程逢った男にとてもよく似ているシルエットを見つける。 髪と仕立ての良いスーツに、桜の花びらが柔らかく留まっている。 香穂子はドキドキしながら、男に近付いていく。 背筋を伸ばして歩き、香穂子は両親のいる席にたどり着いた。 「………!!!」 先程出会った男が、母親の横に座っているのが見える。 一度も出会ったことのない叔父が、先程の男だなんて思ってもみなかった。 だからこそこんなにも惹かれたのだろうかと思う。 また逢えた。 嬉しいのに、切なく重い気分になってしまう。 叔父。 それは恋愛対象にしてはいけないことを示している。 それが辛い。 香穂子が男の向かい合わせに座ると、何ごともなかったかのようにクールな表情でこちらを見ている。 「香穂子、こちらは吉羅暁彦、あなたの叔父よ」 「初め…まして…、日野香穂子です」 本当は“初めまして”ではないことぐらいは、お互いに解っているが、そう言うことしか出来なかった。 「宜しく、吉羅暁彦だ」 吉羅は整っているのに包容力のある手を差し延べてきてくれる。 香穂子もまた、吉羅の手を取る。 手をしっかりと握りあった。 「宜しくお願い致します」 握り締められた手の力強さが、香穂子の心に訴えかけて来る。 「香穂子、暁彦に迷惑をかけないようにするのよ」 「はい、お母さん」 母親には笑顔で答えた後、香穂子はちらりと吉羅を見つめる。 先程のキスなんてなかったかのような顔をしている。 香穂子はそれが切なくてしょうがなかった。 吉羅はあくまでクールに話をしている。 「香穂子、君は、ヴァイオリンをやるのかね?」 「はい。星奏学院の音楽科に在籍しています」 「星奏学院…。私はそこの理事をしている」 「…え…!?」 こんなにも若い理事がいるなんて、香穂子は思ってもみなかった。 「この春から理事長に就任する予定だ」 静かに声で呟かれて、香穂子は目を見開く。 「え…?」 まさか吉羅が理事長に就任するとは思わなかった。 「君がどれくらいのヴァイオリンの技倆があるかどうかを見せて貰いたいものだね」 「解りました。お世話になったらお聴かせします」 「楽しみにしているよ」 吉羅の甘い声で言われると、胸がきゅんと鳴り、呼吸が苦しくてしょうがない。 「暁彦君、香穂子を宜しく頼む。我が娘にしてはしっかりしているはずだがな」 ちらりと父親に視線を送られて、香穂子は困ってしまう。 「宜しくお願いします。精一杯頑張りますから」 香穂子が緊張気味に言うと、吉羅は苦笑いをした。 「何だかコンクール前に頑張る生徒のようだね。そんなに力を入れなくて構わないんだ」 「はい」 吉羅にクールに指摘をされてしまい、香穂子はほんの少し萎縮した。 キスをした桜の王とは同一人物だとは思えない。 総てが夢幻であったかのようだ。 本当にそうなのかもしれない。 香穂子はキスを忘れなければならないと、必死になって思う。 だが忘れることが出来ないほどに鮮やかで華やかな記憶だった。 叔父さん。 だから忘れなければならない。 禁断で不毛な関係だ。 それは解っているからこそ、向こうも忘れようとしているのかもしれない。 忘れよう。 だが、忘れられない。 そのジレンマが、香穂子を強く苦しめていた。 まさか、面倒を見ることになる相手だとは思ってはいなかった。 だが、これは運命でないだろうかと、思わずにはいられない。 出会った瞬間から、魂が揺さぶられた相手なのだから。 吉羅にとってはこのような相手は初めてであった。 吉羅は香穂子の様子を見る。 そこにいるだけで心が癒されると同時に、熱く甘い感情で満たされる。 なのに素直にその感情を表すことが出来ない。 吉羅は香穂子を見つめながら、初めて自分の不器用ぶりに息が詰まった。 姪。 世間的にはそうだ。 禁忌な関係だと思われるだろう。 奇異な目で見られて香穂子が傷付いてしまうのは本意ではない。 だからこそ、ここは大人として分別を持って行動しなければならないのだろう。 吉羅は感情を抑えつけなければならないと、自分自身に言い聞かせる。 そうしなければならないだろう。 香穂子のためにも。 だが運命の相手だ。 吉羅もまたジレンマに苦しめられていた。 |