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吉羅の家にいよいよ引っ越すことになった。 香穂子が転がりこんでも、全く大丈夫な広さの家に住んでいるのだという。 しかも定期的に家政婦がやってくる上に、防音になっている。 ヴァイオリニストを目指す香穂子にとっては、まさに理想的な住宅と言っても良かった。 自室としてあてがわれた部屋も広く、もちろん防音。 キッチンも外国製の美しくて使い勝手が良いものになっているし、バスルームの雰囲気も外国風で素敵だった。 こんなところで住めるなんて素晴らしいと、香穂子は思わずにはいられなかった。 荷物を整理して、香穂子は一息吐く。 本当にこの家は桜の王様の邸宅には相応しい。 庭も見事で、今の時期は桜が麗しいほどに美しかった。 特に香穂子が使わせて貰っている部屋は庭が一望出来る上に、横浜のアーバンな部分が遠くに霞んで見えている。 本当に綺麗な景色を堪能出来る場所だ。 香穂子は窓から景色をじっと見つめる。 ここで暮らす1年間は素晴らしい経験の連続だろうと予感する。 この景色がそう囁いているようだ。 ライティングデスクから見る景色は、本当に綺麗だ。 柔らかな春特有の光が注ぎ込み、香穂子はうつらうつらしてしまう。 あまりにも気持ちが良くて、香穂子はいつの間にか目を閉じてしまう。 こんなにも気持ち良い昼寝場所はないと思った。 「香穂子、片付けは済んだのかね?」 吉羅がノックをして、開いているドアからそっと様子を伺う。 すると香穂子が気持ち良さそうに眠っているのが見えた。 その様子に吉羅はフッと微笑む。 こんなに気持ちが良さそうに眠っている様子を見ると、こちらまで幸せになってしまう。 「まるで子猫だな…」 まだまだあどけない寝顔だ。 当分は見守っていかなければならないだろう。 自分の恋情などは押し殺して。 だが、果たして恋情を押し殺して見守るだけで満足をするだろうか。 吉羅は苦しい気分になり目を閉じるしかなかった。 いつの間にか気持ちが良くて眠っていたらしい。 気がついたら頬に冷たい風が吹き付けていた。 「…やっぱりまだ夕方になると肌寒いんだ…」 香穂子は窓を閉めると、立ち上がって伸びをした。 家の中の様子を見に行くと、静まり返っている。 吉羅は呆れて何処かに行ってしまったのかもしれない。 「…やっぱり眠りこけていたら顰蹙だよね…」 香穂子はそっとダイニングルームへと向かう。 するとそこには吉羅がいて、ノートパソコンを開いて仕事をしていた。 大きなテラス窓から夕日が差し込んできて、吉羅を麗しく照らしている。 なんて美しいのだろうかと、香穂子は思わず見惚れていた。 輝かしい姿は麗しい桜の王そのものだ。 不意に吉羅が顔を上げ、冷たい雰囲気を湛えた瞳で香穂子を見つめる。 余りにも怜悧なまなざしに心臓が跳ね上がる。 「…目が覚めたのかね?」 「は、はいっ」 居眠りをしていたのは図星だから、香穂子を思わず直立不動になった。 「…そろそろ夕食の時間だ。今日は引越しなどで疲れているだろう。近くのレストランで夕食を取ろう。帰ってきたら、ヴァイオリンを一曲奏でてはくれないかね?」 「はい」 淡々と言う吉羅の話を聞いているだけで、緊張感が漲ってくる。 吉羅がいるだけで、空気が張り詰めたような雰囲気になっていた。 吉羅が車を出してくれ、近くにあるレストランに向かう。 吉羅の愛車はランボルギーニで、余りにもらしいと思う。 外車なんて乗ることがなかったから、香穂子は緊張してしょうがなくなる。 車内では殆ど話をすることはなかった。 連れて行ってくれたのは、オーガニックを売り物にしたレストラン。 なかなか美味しくて、香穂子はようやく笑顔になることが出来た。 「やっぱり自然な食材は美味しいですね。沢山、沢山食べられて幸せです」 「それは良かった。ここは、デザートも有名でね。君も気に入るだろう」 「はい、嬉しいです」 吉羅とようやく自然に話せる。だが緊張は常に何処かにはあるが。 「これから一年間は、ヴァイオリンにしっかりと励みたまえ。私が君を預かったのも、それが一番の理由だからね。来年、君が学院を卒業する頃には、ヴァイオリニストとして、今よりは数段ステップアップしてもらいたいものだね。私も出来る限りは協力する」 「はい、頑張ります。プロのヴァイオリニストになるのが、私の夢なので、そのような環境を下さることは嬉しいです」 香穂子は笑顔で弾むような声で言う。 環境自体は有り難い。 だが、吉羅が全面に協力してくれたら、今よりももっともっと好きになってしまうだろう。 今ならば、諦めることはギリギリ可能かもしれない。 だが、これ以上深入りをされてしまったら、諦めることなんて出来なくなるだろう。 「…君はヴァイオリンにだけ専念したまえ。そのような環境を私は作るつもりだ」 「有り難うございます」 香穂子は嬉しいのに喉の奥が苦しくなるのを感じながらも、笑顔のままでいた。 本気になってはいけない。 叔父なのだから。 香穂子は何度も何度も自分自身に言い聞かせていた。 吉羅の家に戻り、リビングへと向かう。 「さて、君のヴァイオリンの技倆を聴かせて貰おう」 「はい」 学校の実技テストよりも緊張する。 香穂子はケースからヴァイオリンを取り出すと、静かに構えて集中する。 吉羅に良いところを見せようだとか、そんな考えは更々ない。 ただ楽しんで貰えたらそれで良いと思う。 香穂子は、“魅惑のワルツ”を奏でる。 気に入ったいる曲のひとつなのだ。 香穂子はヴァイオリンを奏でながら、ただ真直ぐ吉羅の心に訴えかけた。 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅を恐る恐る見つめた。 すると神経質そうに見つめてくる。 「…技術面ではまだまだだね」 吉羅は冷静に指摘をしてくる。 だが、指摘は的を得ていて、香穂子は反論することすら出来なかった。 香穂子に足りないもの。 それはヴァイオリンを弾く技術だ。 曲へのアプローチの新鮮さや、音色の温もりは、いつも褒めて貰えるが、それだけなのだ。 技術面はいつもギリギリの点数しか貰えなかった。 「…だが、曲想の理解はとても新鮮で良いところもある。音色が温かなところも評価すべきだろう。君は先ずは技術面を伸ばしていかなければならないだろう。だが、君が思っている以上の力はあることを忘れないように」 「…あ、有り難うございます…!」 吉羅に意外と褒められて、香穂子は驚いてしまった。 もっと辛辣な評価をされると思い込んでいたのだ。 吉羅が最初に向けてきた瞳は、それほどまでに冷徹だった。 「これからは技術に磨きをかけていくんだ。技術の壁を乗り越えられないのであれば、ただのヴァイオリンを趣味にした少しばかり素人より上手いぐらいの地位になる。それは勿体ないからね。心してかかりたまえ」 「はい」 吉羅は本当に厳しい人なのだろう。 その人に着いていくためには、かなりの努力が必要だ。 「香穂子、君なら出来るはずだ」 「はい」 吉羅に着いていく。 それは恋から逃れられない運命なのかもしれない。 香穂子はそう思った。 「…吉羅さん、妖精が見えたのは、やはり血ですか?」 香穂子は先程から気になっていたことを言うと、吉羅は首を横に振った。 「それは違う…。さあ、早くお風呂に入って寝るんだ」 「はい」 何だかはぐらかされたような気がした。 |