*こい・うた・ひめ*

4


 音楽の妖精に祝福された少女。
 恐らくは大ヴァイオリニストになるだろう。
 今まで、忌々しい音楽の妖精が、人選びを間違えたという記録はないのだから。
 日野香穂子は誰よりも音楽の妖精に愛されているのかもしれない。
 普段は一族にしか見ることが出来ない妖精を、見ることが出来たのだから。
 ヴァイオリンの音色を聴いて、その意味は直ぐに解った。
 あんなにもひとの心に温かく訴える音色を奏でることが出来るヴァイオリニストに出会ったことがないのだから。
 技術はまだまだ未熟なところはあるが、そんなものは後から着いてくる。
 それよりも、香穂子の持つ天性の感性は得難いものなのだ。
「…羽根虫は結局はきちんと見ているのかもしれないな…」
 吉羅は甘くフッと笑うと、窓を眺める。
 一目で惹かれた少女だった。
 だがこれほどまでに吉羅の魂を揺さぶる存在だとは思いもしなかった。
 一緒にずっと暮らせば、もう逃げることは出来ないだろう。
 彼女への恋情からは。
 解ってはいる。
 表面上は禁忌な関係になることぐらい。
 今までなら、絶対に踏み込まなかった領域だ。
 だが、素直に踏み込みたいと思っている自分がいる。
 社会がどう思おうとそんことはどうでも良いとすら思っている。
 吉羅は、愛しさに歯止めが効かなくなると思わずにはいられなかった。

 新学期が始まる。
 この春から、吉羅が学院の理事長になる。
 自分の叔父が理事長になるなんて、何だか不思議な気分だ。
 香穂子は、吉羅との間には柔らかで決して飛び越えることが出来ない境界線があることを感じている。
 いつかその境界線を越えることが出来るのだろうか。
 そればかりをつい考えてしまう。
 越えてはいけないのに、越えてしまいたいなんて、どうかしている。
 理性では理解をしていても、本能では理解してはいなかった。

 吉羅と本格的な生活が始まる。
 だが吉羅はいつも帰宅が遅くて、ほとんど擦れ違いの生活をしていた。
 香穂子が眠る頃に吉羅が帰ってくるというパターンだ。
 吉羅とは朝少しだけ顔を合わせる以外は、ほとんど接触はなかった。
 吉羅に避けられているのだろうか。
 そうしか考えられない。
 休みの日ですら仕事をしているのだから。
 その方が香穂子に負担がかかると思っているようだが、逆に無視をされているような気分になりいたたまれなかった。
 吉羅はあの時のキスを忘れてしまったのだろうか。
 吉羅のことだ同一人物とすら思っていないのかもしれない。
 それとも必死になって忘れたいことなのだろうか。
 香穂子にとっては夢のような瞬間だったのに。
 忘れなければ。
 そればかりを考えてしまう。

 日曜日。
 香穂子はヴァイオリンの練習をするために、学院近くの公園へと向かう。
 吉羅は久しぶりの休みなのか、まだ眠っているようだ。
 香穂子は、吉羅のために茶粥を土鍋に作って置いておく。
 これぐらいはしてあげたかった。
 行き先を言わなくても心配はしないとは思うが、臨海公園に行くとメモを残しておいた。
 香穂子はひとりでヴァイオリンの練習をする。
 吉羅にはゆっくりと休んで貰いたかった。
 香穂子が夢中になってヴァイオリンを何度か弾いた後、拍手が聞こえた。
 顔を上げると、そこには吉羅が立っている。
「…なかなかだった」
 吉羅はフッと笑うと、軽く拍手をしてくれる。
「有り難うございます」
「朝食のお礼に、昼食を一緒にどうかね?」
「有り難うございます」
 昼食に誘われるのは嬉しい。
 香穂子は小さな子供のような無邪気な笑顔をつい浮かべてしまった。
 すると吉羅が優しく甘いまなざしを向けてくれる。
 こんなまなざしを見つめられると、香穂子は胸の奥が蜂蜜のように熱く蕩けて甘くなる。
「行こうか」
「はいっ!」
 擦れ違いではあるが、吉羅は家族として大切にしてくれている。
 それが嬉しくて、同時に切なくもある。
「美味しいイタリアンの店がある。そこに行こうか」
「はい」
 今は家族としての温かな気遣いを有り難く受け取っておこう。
 それが良い。
 香穂子は心の奥底では切なさを感じながら、笑顔で振る舞っていた。

 吉羅が連れていってくれたレストランは、やはり申し分ないところだった。
「本当に美味しいです。美味しいレストランばかり教えて頂いて、感謝しています」
 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は僅かに微笑んでくれる。
「美味しい夕食を沢山作ってお返しをします! 私にはそれぐらいしか出来ませんから!  ご飯作りは、ずっとお母さんの手伝いをしてきましたから、大丈夫です」
 香穂子が笑顔で言うと、吉羅はスッと神経質そうに目を細めた。
「…ヴァイオリニストは指先が大切だ。怪我をしたり指先が荒れるようなことはなるべく避けてくれたまえ」
 吉羅はクールにキッパリとした口調で言う。
 料理をすることを否定されてしまったようで、香穂子はいたたまれなかった。
 ヴァイオリニストとして気遣ってくれているのは嬉しい。
 だが、それが逆に切ないのだということを恐らく吉羅は気付いてはいないのだろう。
「解りました。お気遣い有り難うございます」
 香穂子はそれだけを言うと、しょんぼりとする。
「君は姉さんからの大事な預かり者だからね。ヴァイオリンの技術を伸ばすことだけを考えていなさい」
 吉羅は淡々と事務的に呟いた。
「そうですね。ヴァイオリンだけに専念します…」
 それだけを言った後、香穂子は視線を下げる。
 あのキスはなかったのだ。
 吉羅は遠回しにそう言っているに違いない。
 泣きそうだ。
 香穂子にとっては生涯残るファーストキスだったというのに、吉羅にとっては気紛れに過ぎなかったということだろう。
 香穂子は胸が切り裂かれてしまったように痛くて、呼吸をどのようにして良いのかが解らなかった。

 吉羅との関係は他人以上家族未満で落ち着いてきた。
 お互いに干渉をしないような形になってきている。
 叔父でありながら、今までは存在すら知らなかった。
 だから吉羅のことは余りにも知らないことだらけだ。
「ねぇ香穂、新しい理事長ってさ、かなりやり手らしいよ? 何でも外国のヘッジファンドの役員である上に、うちの理事長なんだって。学院直系の血を引いているらしくて、経営を建て直しにやって来たんだって!」
 報道部の天羽の情報を聞きながら、本当に何も知らないことを痛感してしまう。
 だが引っ掛かることもある。
 母親から星奏学院の直系だなんて聞かされたことなどなかった。
 香穂子はその点が不思議でならなかった。
 本当にありとあらゆる面で、吉羅は謎だらけだ。
 香穂子は本当に何も分からない。
 ふと噂をすれば影とばかりに、吉羅がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 吉羅は香穂子をちらりと見ることもなく、ただ前を見て歩いていくだけだ。
 本当に、吉羅にとっては香穂子なんて取るに足りない存在なのだろう。
 姪と一緒にいるというよりは、育てているヴァイオリニストと一緒にいる感覚なのだろう。
 桜の王とのキス。
 そんなことは忘れてしまえ。
 いや、忘れてしまえたらどれほど楽なのだろうかと思う。
 忘れようと思う度に、恋情が湧き上がってくる。
 熱くてたまらないほどに沸騰しているのを感じる。
 香穂子は息苦しさを感じながらも、吉羅に恋をすることを止めることが出来ない。
 どうしてこんなにも諦めきられないのか、解らなかった。



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