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吉羅とは余り顔を合わさない。 いつも待ってはいないと思っているのに、一目逢いたくて待ちくたびれていた。 花冷えの朝、香穂子は喉に違和感を感じた。 まだまだ季節は不安定で、体調の管理がかなり大変だ。 春特有の嫌な風邪だろうか。 それならばほんの少しばかり切ない。 今は開幕ダッシュとばかりに、軌道に乗って行きたいところだからだ。 香穂子は早く治さなければならないと思いながら、サプリメントなどを取って様子を見ていた。 体育の時間、空が鈍色になり、雲の重さで今直ぐに墜ちてくるのではないかと思った。 雨がポツリポツリと降り始める。まるでスコールのように一瞬にして激しくなってしまった。 誰もが直ぐに校舎に向かって走っていく。 勿論、香穂子もだ。 余りに激しい雨だったため、全身がずぶ濡れになってしまった。 「これは凄い雨になるね」 「本当に…」 香穂子はぼんやりと呟きながら、躰が冷えてくるのを感じた。 思わず躰を震わせると、クラスメイトが心配そうに見つめて来た。 「香穂子、大丈夫!?」 「うん、大丈夫だよ。平気だよ」 言ったところで大きなくしゃみをしてしまう。 「ダメだよっ! 早く髪を乾かしてしまおうよ!」 「そ、そうだね」 香穂子は更衣室へと急いで向かい、直ぐに髪を拭いて制服に着替えた。 だが、震えは一向に治まらなかった。 「大丈夫!? 早退したほうが良いんじゃない!?」 「何とか授業だけは受けていくよ。流石に放課後の練習は無理かもしれないけれど」 「…そうだね。余り無理をしないほうが良いよ」 「うん。有り難う…」 切ない恋をしているせいで心が弱っているから、きっと躰にもそれが伝わってしまったのかもしれない。 それはそれで苦しい。 この一年間、大好きな男性と一番近い場所にいられるのは嬉しい。 だが、近いのに手が届かないのはもっと辛いと香穂子は思った。 溜め息を吐きながら、香穂子は頭が混乱する。 躰まで弱ってしまうと、本当にろくなことを考えないと思った。 何とか授業をやり過ごしたものの、帰る頃にはふらふらになっていた。 熱っぽくて物が二重に見える。 「日野さん? どうしたの?」 遠くで呼ばれたような気がして顔を上げると、目の前に保健医が立っていた。 「…先生…?」 「どうしたの? 顔色が悪いわよ? 少し保健室で休んでから帰る?」 「…だ、大丈夫です…。先生。何とかなりますから家に帰ってから直ぐに寝たら何とかなります」 「家に連絡をしようか?」 「大丈夫です。今の時間は誰もいないですから」 吉羅に連絡なんて出来ない。出来たとしても迷惑をかけるだけだから出来ない。 「…そう…。だったら良いけれど…。本当に気をつけるのよ」 「はい。有り難うございます」 香穂子は何とか笑顔を作って返事をすると、ふらふらなりながらも何とか家に帰ることにした。 吉羅はひと仕事を終えて、会議室から理事長室へと戻っていく。 いつもなら香穂子が笑顔で歩いているのが見える。 吉羅にとっては何よりもの癒しの瞬間だ。 それを香穂子は気付いてはいないだろう。 香穂子の笑顔が、吉羅をいつも前向きにさせてくれるのだから。 香穂子の姿を無意識に探す。 だが、一向に見つからない。 吉羅はこころが曇ってくるのを感じた。 香穂子という名の太陽がいなければ、吉羅の世界は晴れ上がらない。 今までは誰かの存在で自分の気候が変わることなんてなかったというのに。 香穂子が現われてから世界が姿を変えてしまった。 ふと香穂子のクラスメイトが歩いているのが見える。だが、そこには香穂子はいなかった。 「香穂、具合悪そうだったけれど大丈夫かな?」 「あれはひどい風邪だよ。心配だなあ。両親が海外赴任をして親戚に世話になっているらしいから、ストレスを溜めていないと良いんだけれどね…」 「本当にそうだよね」 クラスメイトの会話を聞きながら、吉羅は心配で仕方がなくなる。 香穂子がひどい風邪を引いていたとなれば、きちんとした処置をしてやらなければならない。 吉羅は早目に仕事を切り上げ、残りは家ですることにする。 吉羅は慌てて理事長室に戻ろうとすると、今度は保健医と香穂子の担任が話しているのが聞こえた。 「日野さん、風邪が酷いようですので、明日はお休みかもしれないですね。ひとりで平気だと言って帰ってしまったんですけれどね…」 「そうですか…」 これはファータの悪戯か。 香穂子の状況が、不思議と吉羅の耳に入ってくる。 ある意味有り難くはあるのだが。 吉羅は理事長室に戻ると、どうしてもやらなければならない案件だけを処理して、学院を出た。 風邪を引いていれば食欲がないだろうとのことで、冷たいゼリーと果物、スポーツドリンクを買って帰る。 香穂子には早く快復して欲しかった。 吉羅が家に戻ると、中は静まり返っていた。 「香穂子」 吉羅は名前を呼びながら香穂子の部屋に行き、ノックをする。 すると力のない返事が返ってきた。 「…はい…」 「入って構わないかね?」 「はい」 吉羅がそっと香穂子の部屋に入ると、ぐったりしてベッドに横たわっているのが見えた。 「香穂子、具合はどうだ?」 「…大丈夫…だとは言えません…」 熱っぽい声で言う香穂子は、本当に気分が悪そうだ。 吉羅は香穂子のベッドに近付くと、その顔を覗き込んだ。 吉羅の顔がこんなにも近い。 それだけで香穂子はドキドキしてしまう。 吉羅の整い過ぎている美しい顔が目の前にあるのだ。 風邪で息苦しいものとは別の苦しさがある。 心臓がどうしようもないほどに跳ね上がった。 このまま飛び出してしまうのではないかと思うほどだ。 「熱はあるのかね…?」 低いよく通る声で囁かれて、香穂子は甘酸っぱい気分になる。 吉羅に顔を近付けられて、まともに目を開けることなんて出来やしない。 香穂子は全身が震えてどうしようもないと思った。 吉羅が額を自分の額にくっつけ、その上そっと背中に手を置いて抱き寄せてくる。 そんな甘い行為をされてしまったら、それこそ爆発して粉々になってしまいそうだ。 「…熱は、かなり高いね…」 こんなに熱いのだから当たり前だ。 熱の熱さに加えて、別の甘ったるい熱さが加わってどうしようもない。 このままでは全身がとろとろに蕩けて、砂糖水になってしまうかもしれない。 そんなことを考えたところで、吉羅はようやく額を外してくれた。 「何か食べて風邪薬を飲みなさい」 「余り食欲がなくて…」 「だったらゼリーを買ってあるからそれを食べてから、薬を飲むんだ」 「有り難うございます…」 吉羅は、帰る途中で買ってきてくれたのだろうゼリーを、香穂子に差し出してくれた。 「…有り難うございます…」 吉羅はどうして風邪を引いていることに気付いてくれたのだろうか。 香穂子はそれをぼんやりと不思議に思いながら、吉羅を見つめた。 「ゼリーを食べて薬を飲んだら休みなさい」 「…はい…」 吉羅は香穂子を起こしてくれる。 吉羅の優しさをダイレクトに感じられて、香穂子は泣きそうになった。 本当に泣きたくなるぐらいに幸せで、何処か切ない。 これは家族としての優しさ? それとも…。 恋をする相手としての優しさならば、こんなにも嬉しいことはないのに。 華やいだことはないのに。 だが。 恐らくは家族としてなのだろう。 それが辛かった。 |