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家に帰ると、家政婦さんがいつものように食事の準備をしてくれていた。 いつもそれを温めるだけが、香穂子の仕事だ。 それだけなのだ。 本当は吉羅には温かな料理を作ってあげたい。 それだけなのだ。 だが、指を怪我してはいけないと何もさせてはくれないのだ。 それが香穂子には切ない。 折角、恋人になったのだから、出来る限りのことはしてあげたい。 逆にそう思うのが、迷惑なのだろうかと思ってしまったりもする。 吉羅はいつも帰ってくるのが遅いから、香穂子は先に食事をしていつも練習をしている。 吉羅が帰ってくるまでの日課だ。 今夜もヴァイオリンの練習を終えたところで、吉羅が帰ってきた。 いつものように玄関先まで迎えにいく。 「おかえりなさい、吉羅さん」 「ただいま」 笑顔を向ければ、吉羅は笑みを向けて抱き寄せてきた。 「食事を温めますね」 「ああ」 香穂子が言うと、吉羅は更に力強く抱き締めてくる。 これ以上に甘い抱擁はないと思った。 吉羅と甘いキスを交わした後で、抱擁を解かれる。 「着替えてくる」 「はい」 吉羅が着替えている間、香穂子は吉羅の食事を温めた。 本当に温めることしかしないのが申し訳ない。 香穂子が食事を温め終わった頃、吉羅がダイニングへとやってきた。 いつものように吉羅が食事をするのを見守る。 「…香穂子、何かあったのかね?」 「え…?」 吉羅に訊かれて、香穂子は目をまるくした。 「何もないですよ」 「何だか少し切なそうな顔をしている。何かあったのかね?」 吉羅は何もかもお見通しとばかりに、香穂子を見つめてくる。 嘘を吐いてもしょうがないのは解っている。 だが、ストレートに言うことも出来なかった。 吉羅は困ったように微笑むと、香穂子の頬を優しく撫で付けてくる。 「素直に言いなさい…。君は我慢をする癖になっているようだからね」 「…はい…。有り難うございます。吉羅さんと休日をのんびり過ごしたいと思っただけですよ…」 香穂子は観念して素直に言うと、吉羅から視線を外した。 「…そうか」 「みんな、彼と出掛けているから、ほんの少しだけ切なかっただけです。だけど大丈夫です。お仕事ですから」 香穂子は笑顔でさらりと言ったつもりだったが、吉羅は眉を寄せた。 一瞬、怒られたかと思ったが、そうではなかった。 「…次の日曜日に時間が取れる。一緒に出かけよう。ふたりでゆっくりとしようか」 「本当に?」 「ああ。行こう」 吉羅の言葉に、香穂子は笑顔になる。 吉羅と本格的なデートをするのは初めてだから、それが嬉しくてしょうがなかった。 「本当に嬉しいです」 香穂子は踊りたくなるような気分になり、香穂子はついクラシックな曲の調べを鼻歌にしてしまう。 曲は無意識に“ジュ・トゥ・ヴ”だった。 それを聴きながら吉羅は微笑んでいる。 子どもだと思われただろうか。 香穂子はそう思うとしょんぼりとしてしまった。 子どものようだなんて思われたくはない。 それが香穂子の気持ちだ。 「どうしたのかね?」 「ちょっと子どもっぽいなあって、思ってしまって…」 香穂子がしゅんとしていると、吉羅が頬に手を伸ばしてきた。 「そんなことはない…」 「…え…?」 「君は私を充分なぐらいに挑発をしているよ…」 「…あ、そ、その…」 ドキリとするような官能的なまなざしで吉羅に見つめられて、香穂子は急激に息を詰まらせる。 「その曲の意味を解っているのかね…?」 「…わ、解っていないと…思います…」 「…全く…。君はいけない女性だよ」 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子からそっと離れた。 「…私は子供っぽいですか…?」 「…え?」 吉羅は、そんなことなど考えたことはないとばかりの声を出した。 「…考えたこともない。君は自分が子供だと思い込んでいるようだね…。君は子どもじゃない。それを今度、出かける時に教えよう」 吉羅のヴェルヴェットのようになめらかで甘い声を聴いていると、本当にそういう気持ちになるのが不思議だ。 艶のある女だということを思い込ませてくれる。 それが香穂子には嬉しかった。 吉羅のマジックと言えるのかもしれない。 「では、楽しみにしていたまえ。君はお風呂に入って早く休みなさい」 「はい」 吉羅は食事を終えると手早く片付けにいく。 香穂子には片付けの手伝いすらさせてはくれないのだ。 吉羅の後ろ姿を見つめながら、香穂子は複雑な気分になっていた。 その晩、香穂子は奇妙な夢を見た。 吉羅の子供になってしまう夢だ。 ほんのりと切なさが含んだ夢に、香穂子は目覚めてしまった。 妹や娘のように扱われるのが一番嫌だ。 女として認めて貰えていないのではないかと思うから。 香穂子は溜め息を吐くと、ダイニングに下りていくことにした。 ダイニングでミネラルウォーターでも飲もうかと思っている。 喉を潤して、夜空でも眺めたら気分は晴れるかもしれないから。 香穂子がリビングに入り窓辺で水を飲んでいると、背後で物音がした。 心臓がすくみ上がるほどにびっくりしてしまい、香穂子はびくびくしながら振り返った。 「香穂子、君は何をしているのかね?」 立っていたのは吉羅で、香穂子は力が抜けてしまうほどにホッとした。 「…喉が渇いたのでお水を飲んでいたんです…」 「眠れないのかね?」 吉羅は何もかもお見通しとばかりに、静かな声で言ってくる。 「…眠れない…わけではなかったんですが…、少しだけ夢見が悪かったんですよ」 香穂子が苦笑いを浮かべながら言うと、吉羅はそっと抱き寄せてきた。 「これで大丈夫かね?」 吉羅に抱き締められると安心はするが、同時にドキドキもする。 「ものすごくドキドキしています…。だけど安心しています…。何だかへんですね…?」 「香穂子…」 吉羅はその名前を呼ぶと、唇をゆっくりと近付けてくる。 甘いおやすみのキスが与えられるのが、とても嬉しかった。 唇を重ねあった後、吉羅に抱き上げられる。 「喉は潤しただろう? 早く休みなさい。今夜は眠れそうにないようだから、一緒に眠ろうか…」 「あ、あの、暁彦さんっ…!」 香穂子がいくら焦っても、吉羅は気にしないとばかりにクールにしている。 「ゆっくり眠れば悪い夢など忘れてしまうだろうからね」 「…あ…」 吉羅は吉羅なりに、気を遣ってくれているのだ。 香穂子は吉羅の優しさが嬉しくて、笑顔になる。 吉羅の部屋に連れていかれて、そのままベッドに寝かされる。 吉羅のベッドは、ふたりで眠っても充分に広さが確保出来るものだった。 吉羅は、ベッドに潜り込んできて、香穂子を抱き締める。 「こうしていれば、今度こそ良い夢が見られるはずだから…」 「…有り難うございます…」 「ゆっくり眠りなさい…」 吉羅の広い胸に抱き締められると、不思議と心地好い気分になる。 こうしていると本当にうとうとと気持ちが楽になってくる。 香穂子はまるで小さな子供のようにまあるくなると、吉羅に甘えるようにして眠りに落ちた。 香穂子を受け止めるように抱き締めながら、吉羅はその背中を優しく撫で付ける。 リビングで夜空を眺めながら水を飲んでいる姿は、本当に妖精に思えた。 こんなにも可愛い妖精は他にいないのではないかと思ったほどだ。 本当に愛しい。 これほどの相手はいない。 吉羅は深く目を閉じる。 誰かがそばにいて眠れるのは初めてだった。 |