*こい・うた・ひめ*

11


 家に帰ると、家政婦さんがいつものように食事の準備をしてくれていた。
 いつもそれを温めるだけが、香穂子の仕事だ。
 それだけなのだ。
 本当は吉羅には温かな料理を作ってあげたい。
 それだけなのだ。
 だが、指を怪我してはいけないと何もさせてはくれないのだ。
 それが香穂子には切ない。
 折角、恋人になったのだから、出来る限りのことはしてあげたい。
 逆にそう思うのが、迷惑なのだろうかと思ってしまったりもする。
 吉羅はいつも帰ってくるのが遅いから、香穂子は先に食事をしていつも練習をしている。
 吉羅が帰ってくるまでの日課だ。
 今夜もヴァイオリンの練習を終えたところで、吉羅が帰ってきた。
 いつものように玄関先まで迎えにいく。
「おかえりなさい、吉羅さん」
「ただいま」
 笑顔を向ければ、吉羅は笑みを向けて抱き寄せてきた。
「食事を温めますね」
「ああ」
 香穂子が言うと、吉羅は更に力強く抱き締めてくる。
 これ以上に甘い抱擁はないと思った。
 吉羅と甘いキスを交わした後で、抱擁を解かれる。
「着替えてくる」
「はい」
 吉羅が着替えている間、香穂子は吉羅の食事を温めた。
 本当に温めることしかしないのが申し訳ない。
 香穂子が食事を温め終わった頃、吉羅がダイニングへとやってきた。
 いつものように吉羅が食事をするのを見守る。
「…香穂子、何かあったのかね?」
「え…?」
 吉羅に訊かれて、香穂子は目をまるくした。
「何もないですよ」
「何だか少し切なそうな顔をしている。何かあったのかね?」
 吉羅は何もかもお見通しとばかりに、香穂子を見つめてくる。
 嘘を吐いてもしょうがないのは解っている。
 だが、ストレートに言うことも出来なかった。
 吉羅は困ったように微笑むと、香穂子の頬を優しく撫で付けてくる。
「素直に言いなさい…。君は我慢をする癖になっているようだからね」
「…はい…。有り難うございます。吉羅さんと休日をのんびり過ごしたいと思っただけですよ…」
 香穂子は観念して素直に言うと、吉羅から視線を外した。
「…そうか」
「みんな、彼と出掛けているから、ほんの少しだけ切なかっただけです。だけど大丈夫です。お仕事ですから」
 香穂子は笑顔でさらりと言ったつもりだったが、吉羅は眉を寄せた。
 一瞬、怒られたかと思ったが、そうではなかった。
「…次の日曜日に時間が取れる。一緒に出かけよう。ふたりでゆっくりとしようか」
「本当に?」
「ああ。行こう」
 吉羅の言葉に、香穂子は笑顔になる。
 吉羅と本格的なデートをするのは初めてだから、それが嬉しくてしょうがなかった。
「本当に嬉しいです」
 香穂子は踊りたくなるような気分になり、香穂子はついクラシックな曲の調べを鼻歌にしてしまう。
 曲は無意識に“ジュ・トゥ・ヴ”だった。
 それを聴きながら吉羅は微笑んでいる。
 子どもだと思われただろうか。
 香穂子はそう思うとしょんぼりとしてしまった。
 子どものようだなんて思われたくはない。
 それが香穂子の気持ちだ。
「どうしたのかね?」
「ちょっと子どもっぽいなあって、思ってしまって…」
 香穂子がしゅんとしていると、吉羅が頬に手を伸ばしてきた。
「そんなことはない…」
「…え…?」
「君は私を充分なぐらいに挑発をしているよ…」
「…あ、そ、その…」
 ドキリとするような官能的なまなざしで吉羅に見つめられて、香穂子は急激に息を詰まらせる。
「その曲の意味を解っているのかね…?」
「…わ、解っていないと…思います…」
「…全く…。君はいけない女性だよ」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子からそっと離れた。
「…私は子供っぽいですか…?」
「…え?」
 吉羅は、そんなことなど考えたことはないとばかりの声を出した。
「…考えたこともない。君は自分が子供だと思い込んでいるようだね…。君は子どもじゃない。それを今度、出かける時に教えよう」
 吉羅のヴェルヴェットのようになめらかで甘い声を聴いていると、本当にそういう気持ちになるのが不思議だ。
 艶のある女だということを思い込ませてくれる。
 それが香穂子には嬉しかった。
 吉羅のマジックと言えるのかもしれない。
「では、楽しみにしていたまえ。君はお風呂に入って早く休みなさい」
「はい」
 吉羅は食事を終えると手早く片付けにいく。
 香穂子には片付けの手伝いすらさせてはくれないのだ。
 吉羅の後ろ姿を見つめながら、香穂子は複雑な気分になっていた。

 その晩、香穂子は奇妙な夢を見た。
 吉羅の子供になってしまう夢だ。
 ほんのりと切なさが含んだ夢に、香穂子は目覚めてしまった。
 妹や娘のように扱われるのが一番嫌だ。
 女として認めて貰えていないのではないかと思うから。
 香穂子は溜め息を吐くと、ダイニングに下りていくことにした。
 ダイニングでミネラルウォーターでも飲もうかと思っている。
 喉を潤して、夜空でも眺めたら気分は晴れるかもしれないから。
 香穂子がリビングに入り窓辺で水を飲んでいると、背後で物音がした。
 心臓がすくみ上がるほどにびっくりしてしまい、香穂子はびくびくしながら振り返った。
「香穂子、君は何をしているのかね?」
 立っていたのは吉羅で、香穂子は力が抜けてしまうほどにホッとした。
「…喉が渇いたのでお水を飲んでいたんです…」
「眠れないのかね?」
 吉羅は何もかもお見通しとばかりに、静かな声で言ってくる。
「…眠れない…わけではなかったんですが…、少しだけ夢見が悪かったんですよ」
 香穂子が苦笑いを浮かべながら言うと、吉羅はそっと抱き寄せてきた。
「これで大丈夫かね?」
 吉羅に抱き締められると安心はするが、同時にドキドキもする。
「ものすごくドキドキしています…。だけど安心しています…。何だかへんですね…?」
「香穂子…」
 吉羅はその名前を呼ぶと、唇をゆっくりと近付けてくる。
 甘いおやすみのキスが与えられるのが、とても嬉しかった。
 唇を重ねあった後、吉羅に抱き上げられる。
「喉は潤しただろう? 早く休みなさい。今夜は眠れそうにないようだから、一緒に眠ろうか…」
「あ、あの、暁彦さんっ…!」
 香穂子がいくら焦っても、吉羅は気にしないとばかりにクールにしている。
「ゆっくり眠れば悪い夢など忘れてしまうだろうからね」
「…あ…」
 吉羅は吉羅なりに、気を遣ってくれているのだ。
 香穂子は吉羅の優しさが嬉しくて、笑顔になる。
 吉羅の部屋に連れていかれて、そのままベッドに寝かされる。
 吉羅のベッドは、ふたりで眠っても充分に広さが確保出来るものだった。
 吉羅は、ベッドに潜り込んできて、香穂子を抱き締める。
「こうしていれば、今度こそ良い夢が見られるはずだから…」
「…有り難うございます…」
「ゆっくり眠りなさい…」
 吉羅の広い胸に抱き締められると、不思議と心地好い気分になる。
 こうしていると本当にうとうとと気持ちが楽になってくる。
 香穂子はまるで小さな子供のようにまあるくなると、吉羅に甘えるようにして眠りに落ちた。

 香穂子を受け止めるように抱き締めながら、吉羅はその背中を優しく撫で付ける。
 リビングで夜空を眺めながら水を飲んでいる姿は、本当に妖精に思えた。
 こんなにも可愛い妖精は他にいないのではないかと思ったほどだ。
 本当に愛しい。
 これほどの相手はいない。
 吉羅は深く目を閉じる。
 誰かがそばにいて眠れるのは初めてだった。



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