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「香穂子…っ!」 吉羅がいくら叫んでも、香穂子は微動だにしなかった。 直ぐに瞳孔を診ると、辛うじて生きていることが確認出来る。 ここに連れてきた時よりも細くて華奢になってしまった香穂子を、吉羅は思い切り抱き締める。 このまま消え去ってしまいそうなぐらいに、香穂子は儚かった。 直ぐに病院に連絡をし、吉羅は救急車を手配する。 そして香穂子の母親にも。 近くのバス停で待っていた母親は、直ぐに吉羅邸に駆け付ける。 ふたりはそのままやってきた救急車に同乗した。 左右で香穂子の手を握り締めて。 ストレッチャーの上で横たわる香穂子は、とても幸せそうにも見えた。 綺麗で儚げな印象なのに、とても満ち足りているような顔だった。 吉羅は、救急車に積み込まれている数少ない医療機具を使って、香穂子の治療に懸命にあたる。 病院に香穂子を運んだ頃には、ひとつの結論に達していた。 手術をする。 もうそれしか方法は残されてはいない。 果たして自分に出来るのか等とは、思わなかった。 ただ香穂子を助けたい一心で、吉羅はメスを握ることを決めたのだ。 処置室で手当てをしていると、香穂子の瞳が夢見るように開かれる。 だが、何も見えてはいないのか、吉羅を探すように懸命に手を宙へと伸ばしていた。 「香穂子、ここにいる」 吉羅に手を握られて、香穂子はホッとしたように息を吐く。 「…最後の瞬間は…やっぱり…暁彦さんの側にいたいよ…」 掠れた声には、最早、力強さはなかった。 「…最後の瞬間どころか、これからずっと一緒にいよう…」 「…有り難う…」 香穂子はにっこりと笑うと、思い残す事などないかのように、視線を遠くに向ける。 「…これから君の手術を行なう。私が執刀するから…」 「暁彦さんに手術して貰えるなんて…、嬉しいよ…。有り難う…」 香穂子は力ない笑みを浮かべる。 その笑顔が余りにも美しくて、吉羅の胸を抉った。 「直ぐに麻酔医がくる。安心して眠りなさい…。君が今度目覚めた時には、病気は何処かに行っているよ」 「…そうですね…」 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅の手をギュッと握り締めた。 口には出さないが、吉羅のことを信頼していると囁いているように思えた。 「私は準備に行く」 「はい。いってらっしゃい」 香穂子の笑顔と言葉に、吉羅は唇を重ねた。 病室を出て手術準備室に向かうと、その前に金澤が立っていた。 「…決心がついたんだな」 「決心をつけざるをえなかったんですよ。…私は、これからも彼女の側にいたいですから…」 「そうか…」 金澤はフッと静かな笑みを浮かべると、吉羅の肩をポンと一度だけ叩く。 「お前さんを信じているぜ。内科医としてな」 「…金澤さん…」 金澤はゆっくりと香穂子がいる病室へと向かっていく。 その背中を見ながら、吉羅はこころの中で感謝の言葉を述べていた。 吉羅は手術着に着替えると滅菌を始める。 立ち会う医師は、約束通りに都築だ。 あの最新の医療技術を香穂子に応用出来るのは、彼女のお陰だと言っても良いからだ。 吉羅の準備が終わると、いよいよ手術の準備が総て整う。 難手術を行なうとあって、モニターで他の医師に手術の様子が公開される。 吉羅はカメラなど気にする事なく、ただ香穂子だけに集中した。 「メス」 吉羅の低い声が響き渡り、手術が開始する。 髪なんてまた伸びるから。 吉羅はそんなことを思いながら、香穂子の頭部に切開を入れた。 「鉗子」 吉羅は香穂子の動脈瘤を確認しながら、ギリギリのタイミングで手術をしたのだということを、改めて思い知らされる。 吉羅はただ落ち着いていた。 姉の時よりも落ち着いていたかもしれない。 きっと、香穂子への愛の深さが、失いたくない想いが、落ち着かせてくれたのだと思う。 今までで一番冷静でいられた。 吉羅は震えることなく、自分を信じて動脈瘤の切除にあたる。 自分自身を信じられるようになったのは、香穂子が信じてくれたからだ。 それ以外にはない。 香穂子の未来のためにも。 自分の未来のためにも。 やらなければならないと吉羅は強く思った。 視神経を傷付けないように、ベストな状態で香穂子の動脈瘤を切除していく。 誰もが、吉羅の技術を息を呑んで見守っていた。 香穂子の笑顔が見たい。 もう一度抱きしめたい。 もう一度キスをしたい。 もう一度愛し合いたい。 吉羅は強く思いながら、切除する。 後の様子を確認すると、動脈瘤が綺麗に切除されているのが見えた。 バイタルサインを見ると、奇跡だと思える程に安定している。 吉羅は、初めて神に感謝をしながら、確実に手早く処理を行なった。 「縫合」 吉羅の声が手術室に響き渡り、都築が道具を渡してくれる。 ちらりと見ると、泣き笑いの症状を浮かべているのが見えた。 動脈瘤は無事に切除を行えた。 しかし、術後も予断が許されないのは確かだ。 術後に悪化して患者が亡くなるケースは、いくらでもあるのだから。 吉羅が最後の処置を終えると、看護師が後のことは処理してくれる。 吉羅が手術台を離れた瞬間、モニターを見ていた医師たちからは大きな拍手が湧き上がった。 香穂子が手術室を出た後、吉羅も外に出て香穂子の両親のところに向かう。 「吉羅先生!」 両親は今にも泣き出しそうな切ない表情で、吉羅を縋るように見つめた。 「手術は終わりました…。お嬢さんの脳に出来ていた動脈瘤の切除は終わりました。ただ、成功、失敗は、術後の経過を診なければ、なんとも言えません。後は、お嬢さんの体力との勝負です。…正直、あれ程痩せていますから、抵抗力がないかもしれません。体力も著しく低下しています。後は気力で、どこまで生命 力を高められるかが勝負になります。彼女ならば頑張れると…、私は信じています」 吉羅は、香穂子を愛するひとりの男としてではなくて、医師としての明確な判断を伝える。 自分で言いながらも、かなり苦々しい気分になった。 香穂子の両親は、ほんの僅かだが、希望の光を見出したようで、ホッと僅かに息を吐く。 「吉羅先生、本当に有り難うございました!」 両親は頭を深々と下げる。 「こちらこそ、有り難うございました。私が難解な手術をこなせるように再びなれたのは、お嬢さんのお陰ですから」 吉羅も深々と頭を下げると、香穂子の両親を見つめた。 「今から点滴をして、痛みを改善させ、体力をつけていきます。お嬢さんが目覚めるのは、明日の朝でしょうから、それまでは仮眠を取られても良いですし、家に帰って頂いても構いません」 吉羅は、もう一度香穂子の両親に頭を下げると、手術準備室へと戻っていった。 疲労を感じる。 だが、決して悪くない疲労だ。 吉羅は、シャワーを浴びた後、白衣に着替えて香穂子に会いにいく準備をする。 休憩をする時間が惜しいほどに、早く香穂子に逢いたかった。 足早に香穂子がいる病室に向かう途中で、金澤の姿を見た。 「…金澤さん…」 「よくやったな。感心した。流石は、“ゴッドハンド”と言われたことがある。手術が終わった時に、他の医師と拍手をしたほどだ」 金澤は嬉しそうに吉羅に向かって親指を立てる。 「…まだ成功とは決まってはいませんよ」 吉羅が静かに言った時だった。 「吉羅先生…! 日野さんが…!」 看護師が血相を変えてやってくる。 吉羅は、話を最後まで聞かずに、病室へと駆けた。 |