*Last Love*

18


 どうか助かって欲しい。
 何でも良いから生きていて欲しい。
 吉羅が集中治療室に飛び込むと、バイタルサインが視界に飛び込んできた。
 最早、機械では掴めないのではないかと思う程に、か細い波形を描いていた。
「香穂子…!」
 吉羅は直ぐに香穂子の瞳孔を確認する。
 今にも命が尽きてしまうのではないかと思う程に、弱々しい。
「頑張るんだ。一緒にずっと居ようと約束をしただろう! 香穂子…!」
 吉羅は、香穂子の手を思い切り握り締めると、自分の想いを熱に変えて伝えた。

 香穂子は夢を見ていた。
 ふわふわと躰が心地好く浮上り、快適だ。
 ここには何の悩みも、痛みもないように思えた。
 ずっとここにいられれば、大層幸せなことだろう。
 だが、何だか引っ掛かることがある。
 大切なことを忘れているような気がしてならない。
 自分が本当に欲しかったものを、何処かに落としてしまったような気がしてならない。
 気になってたまらなくて、振り向いた時だった。
「…香穂子…っ!」
 名前を呼ばれて振り返ると、そこには香穂子がどうしても欲しかったものがあるではないか。
 ふわふわとした心地好さなんてどうでも良くなってしまうほどに、香穂子は欲しかったものに向かって走り出す。
 ようやくその正体が何かを知った。
 吉羅だ。
 香穂子が誰よりも愛している男性。
 世界で一番好きな男性だ。
 本当に愛して止まないひと。
 そのひとに向かって、香穂子は思い切り駆けていった。
 もう忘れない。
 もう離れない。
 吉羅のことをこんなにも愛していることを、どうして忘れてしまっていたのだろうか。
 一番大切なことなのに。
 香穂子は吉羅が微笑んで立っている場所に、駈けて行った。
 あなたを愛していると伝える為に。

 助かって欲しい。
 香穂子が生きていなかったら、生きる意味なんてないから。
 命を助ける為に、香穂子には頑張って欲しいと思っている。
 どんな状態であったとしても、生きてさえいてくれれば、それで構わないから。
 吉羅は命を掴むように香穂子の手を握り締めながら、ただひたすら祈りを捧げた。
「バイタルサインが戻りました!」
 看護師から声がかかり、吉羅はバイタルサインをチェックする。
 通常に戻って、吉羅は涙が出そうになる。
 涙を何とか堪えて、もう一度香穂子の手をしっかりと握り締めた。
 呼吸の状態を確認すると、安定した状態になっている。
 だが、まだ目は離せない。
 病状が安定して暫くしてから、看護師が集中治療室から出ていった。
 吉羅は、香穂子とふたりきりの状態になり、ようやく優しい瞳を向ける。
 華奢で小さな香穂子。
 過酷な手術によく堪えてくれたと、改めて思わずにはいられない。
 吉羅は香穂子の頬に唇を落とすと、そっと微笑んだ。
「…有り難う…」
 甘くこの上なく優しい声で囁くと、その様子をいつまでも見つめ続けた。
「吉羅、少し休め。日野が目覚めるようだったら、仮眠室に連絡してやるから。お前が疲れてズタボロの状態だったら、日野が嫌がるぞ。お前に首ったけなんだからこいつは」
 金澤が心配しながらも、彼流の配慮を見せてくれている。
「…そうですね。彼女に心配をかけてはいけませんから、少しだけ仮眠を取ります」
「ああ。それと疲れを取るためのビタミン剤だ。気休めにしかならんかもしれないが、まあ、飲んでおけ」
「有り難うございます」
 吉羅は金澤に丁寧に礼を言うと、香穂子の前から立ち上がる。
「ここからは俺が診ておく。心置きなく休め」
「はい」
 吉羅は、香穂子のことを金澤に任せると、仮眠室へと向かう。
 体力勝負だから、これからのことのためにも、しっかりと仮眠を取らなければならない。
 吉羅は、金澤から処方されたビタミン剤を飲むと、直ぐに目を閉じる。
 夢を見る事を忘れてしまうほどに、上質の眠りを得ることが出来た。

 吉羅は短いながらも上質の眠りを手にした後、シャワーを浴びて身仕度を整えた。
 さっぱりとしたいつもの状態で集中治療室に戻ると、香穂子は安定した状態でまだ眠っていた。
「金澤さん、有り難うございます。ここからは、私が代わります」
「ああ、俺もこれで当直明けだからな。帰るとするか」
「有り難うございました」
 吉羅は、バイタルサインをチェックし、香穂子の状態を丁寧に見つめる。
 吉羅は香穂子の手を握り締めると、その甲を撫でた。
 すると僅かに瞼が動くのが解り、吉羅は慌てて香穂子の顔を覗き込む。
 ゆっくりと瞳が開かれていく。
 その瞬間は、スローモーションが掛かったようで、まるで夢見るような美しさだった。
「…香穂子…!」
 吉羅が名前を呼ぶと、香穂子はにっこりと微笑む。
「…暁彦さん…、有り難う…」
 体力が充分にないせいか、香穂子は掠れたような声で呟く。
「喋らなくても良いから…。まだ…」
 吉羅は香穂子の頬を親指で丁寧に撫でた後、瞳を見つめる。
「…見えているのかね…?」
 吉羅が囁くと、香穂子は静かに頷く。
 嬉しいのか、本当に眩しいほどの笑顔を見せてくれている。
 このまま抱き締めてやりたくなったが、今は沢山の医療機器をつけられている香穂子を抱き締められず、吉羅は苦笑いをした。
「抱き締めたいが、今は無理だね…。痛みはあるかね?」
 香穂子は“ない”とジェスチャーで答える。
「これから痛みが出てくるかもしれないが、頑張ってくれ。私も出来る限りのことはするから…」
 吉羅の言葉に、香穂子は微笑む。そこには眩しいほどに明るい笑顔があった。


 香穂子は順調に回復をしていき、個室ではあるが一般病棟に移れることになった。
 沢山繋がれていた機器も取り外されて、ようやく普通に話せるように、動かせるようになった。
「具合はどうかね」
 吉羅が声を掛けると、香穂子はいつものように笑顔を向ける。
「気分は良いです。新しいバンダナにしたんですよ。似合っていますか?」
 香穂子は笑顔で言うと、春色のバンダナを自慢げに吉羅に見せてくれる。
 その姿が可愛くて、吉羅は微笑んだ。
「髪はまた伸びるからね」
「はい。こんどはとっておきの髪が生えて来ますから嬉しいですよ」
 香穂子は屈託なく笑うと、吉羅をはにかむように見つめた。
「本当に感謝しています。命を助けて頂いて、そして、こうして見えるようにもして頂いて…」
「君こそ私をどん底から救ってくれたんだ。有り難う…」
 吉羅は微笑むと、香穂子の頬を撫で付けた。
「私は大したことは何もしていません。暁彦さんにここまでして頂けて、とても嬉しいんです。もう少ししたら元気になりますから、見ていて下さいね」
 香穂子の眩しい笑顔に励まされながら、吉羅は頷く。
 そっと柔らかな躰を抱き寄せると、命の躍動が感じられる。
 それが今は嬉しい。
「香穂子、君が退院をしてまたヴァイオリンを弾けるようになるまで、見守っていよう」
「はい! お願いします!」
 香穂子をもう一度抱き締めると、吉羅はその背中を撫でる。
 生きた温もりに、吉羅はこころを癒されていた。

 吉羅は自分の部屋に戻り、ホッと溜め息を吐く。
 机の引き出しに隠しておいた指環のケースを取り出す。
 香穂子に渡そうと密かに買った指環だ。
 もう、香穂子以外の女性と一緒になるのは考えられないから。
 吉羅は指環を見つめながら、これを渡した時の香穂子の顔を思い浮かべていた。



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