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どうか助かって欲しい。 何でも良いから生きていて欲しい。 吉羅が集中治療室に飛び込むと、バイタルサインが視界に飛び込んできた。 最早、機械では掴めないのではないかと思う程に、か細い波形を描いていた。 「香穂子…!」 吉羅は直ぐに香穂子の瞳孔を確認する。 今にも命が尽きてしまうのではないかと思う程に、弱々しい。 「頑張るんだ。一緒にずっと居ようと約束をしただろう! 香穂子…!」 吉羅は、香穂子の手を思い切り握り締めると、自分の想いを熱に変えて伝えた。 香穂子は夢を見ていた。 ふわふわと躰が心地好く浮上り、快適だ。 ここには何の悩みも、痛みもないように思えた。 ずっとここにいられれば、大層幸せなことだろう。 だが、何だか引っ掛かることがある。 大切なことを忘れているような気がしてならない。 自分が本当に欲しかったものを、何処かに落としてしまったような気がしてならない。 気になってたまらなくて、振り向いた時だった。 「…香穂子…っ!」 名前を呼ばれて振り返ると、そこには香穂子がどうしても欲しかったものがあるではないか。 ふわふわとした心地好さなんてどうでも良くなってしまうほどに、香穂子は欲しかったものに向かって走り出す。 ようやくその正体が何かを知った。 吉羅だ。 香穂子が誰よりも愛している男性。 世界で一番好きな男性だ。 本当に愛して止まないひと。 そのひとに向かって、香穂子は思い切り駆けていった。 もう忘れない。 もう離れない。 吉羅のことをこんなにも愛していることを、どうして忘れてしまっていたのだろうか。 一番大切なことなのに。 香穂子は吉羅が微笑んで立っている場所に、駈けて行った。 あなたを愛していると伝える為に。 助かって欲しい。 香穂子が生きていなかったら、生きる意味なんてないから。 命を助ける為に、香穂子には頑張って欲しいと思っている。 どんな状態であったとしても、生きてさえいてくれれば、それで構わないから。 吉羅は命を掴むように香穂子の手を握り締めながら、ただひたすら祈りを捧げた。 「バイタルサインが戻りました!」 看護師から声がかかり、吉羅はバイタルサインをチェックする。 通常に戻って、吉羅は涙が出そうになる。 涙を何とか堪えて、もう一度香穂子の手をしっかりと握り締めた。 呼吸の状態を確認すると、安定した状態になっている。 だが、まだ目は離せない。 病状が安定して暫くしてから、看護師が集中治療室から出ていった。 吉羅は、香穂子とふたりきりの状態になり、ようやく優しい瞳を向ける。 華奢で小さな香穂子。 過酷な手術によく堪えてくれたと、改めて思わずにはいられない。 吉羅は香穂子の頬に唇を落とすと、そっと微笑んだ。 「…有り難う…」 甘くこの上なく優しい声で囁くと、その様子をいつまでも見つめ続けた。 「吉羅、少し休め。日野が目覚めるようだったら、仮眠室に連絡してやるから。お前が疲れてズタボロの状態だったら、日野が嫌がるぞ。お前に首ったけなんだからこいつは」 金澤が心配しながらも、彼流の配慮を見せてくれている。 「…そうですね。彼女に心配をかけてはいけませんから、少しだけ仮眠を取ります」 「ああ。それと疲れを取るためのビタミン剤だ。気休めにしかならんかもしれないが、まあ、飲んでおけ」 「有り難うございます」 吉羅は金澤に丁寧に礼を言うと、香穂子の前から立ち上がる。 「ここからは俺が診ておく。心置きなく休め」 「はい」 吉羅は、香穂子のことを金澤に任せると、仮眠室へと向かう。 体力勝負だから、これからのことのためにも、しっかりと仮眠を取らなければならない。 吉羅は、金澤から処方されたビタミン剤を飲むと、直ぐに目を閉じる。 夢を見る事を忘れてしまうほどに、上質の眠りを得ることが出来た。 吉羅は短いながらも上質の眠りを手にした後、シャワーを浴びて身仕度を整えた。 さっぱりとしたいつもの状態で集中治療室に戻ると、香穂子は安定した状態でまだ眠っていた。 「金澤さん、有り難うございます。ここからは、私が代わります」 「ああ、俺もこれで当直明けだからな。帰るとするか」 「有り難うございました」 吉羅は、バイタルサインをチェックし、香穂子の状態を丁寧に見つめる。 吉羅は香穂子の手を握り締めると、その甲を撫でた。 すると僅かに瞼が動くのが解り、吉羅は慌てて香穂子の顔を覗き込む。 ゆっくりと瞳が開かれていく。 その瞬間は、スローモーションが掛かったようで、まるで夢見るような美しさだった。 「…香穂子…!」 吉羅が名前を呼ぶと、香穂子はにっこりと微笑む。 「…暁彦さん…、有り難う…」 体力が充分にないせいか、香穂子は掠れたような声で呟く。 「喋らなくても良いから…。まだ…」 吉羅は香穂子の頬を親指で丁寧に撫でた後、瞳を見つめる。 「…見えているのかね…?」 吉羅が囁くと、香穂子は静かに頷く。 嬉しいのか、本当に眩しいほどの笑顔を見せてくれている。 このまま抱き締めてやりたくなったが、今は沢山の医療機器をつけられている香穂子を抱き締められず、吉羅は苦笑いをした。 「抱き締めたいが、今は無理だね…。痛みはあるかね?」 香穂子は“ない”とジェスチャーで答える。 「これから痛みが出てくるかもしれないが、頑張ってくれ。私も出来る限りのことはするから…」 吉羅の言葉に、香穂子は微笑む。そこには眩しいほどに明るい笑顔があった。 香穂子は順調に回復をしていき、個室ではあるが一般病棟に移れることになった。 沢山繋がれていた機器も取り外されて、ようやく普通に話せるように、動かせるようになった。 「具合はどうかね」 吉羅が声を掛けると、香穂子はいつものように笑顔を向ける。 「気分は良いです。新しいバンダナにしたんですよ。似合っていますか?」 香穂子は笑顔で言うと、春色のバンダナを自慢げに吉羅に見せてくれる。 その姿が可愛くて、吉羅は微笑んだ。 「髪はまた伸びるからね」 「はい。こんどはとっておきの髪が生えて来ますから嬉しいですよ」 香穂子は屈託なく笑うと、吉羅をはにかむように見つめた。 「本当に感謝しています。命を助けて頂いて、そして、こうして見えるようにもして頂いて…」 「君こそ私をどん底から救ってくれたんだ。有り難う…」 吉羅は微笑むと、香穂子の頬を撫で付けた。 「私は大したことは何もしていません。暁彦さんにここまでして頂けて、とても嬉しいんです。もう少ししたら元気になりますから、見ていて下さいね」 香穂子の眩しい笑顔に励まされながら、吉羅は頷く。 そっと柔らかな躰を抱き寄せると、命の躍動が感じられる。 それが今は嬉しい。 「香穂子、君が退院をしてまたヴァイオリンを弾けるようになるまで、見守っていよう」 「はい! お願いします!」 香穂子をもう一度抱き締めると、吉羅はその背中を撫でる。 生きた温もりに、吉羅はこころを癒されていた。 吉羅は自分の部屋に戻り、ホッと溜め息を吐く。 机の引き出しに隠しておいた指環のケースを取り出す。 香穂子に渡そうと密かに買った指環だ。 もう、香穂子以外の女性と一緒になるのは考えられないから。 吉羅は指環を見つめながら、これを渡した時の香穂子の顔を思い浮かべていた。 |