The Last Chapter
体力が戻り、動脈瘤の再発も認められなく、吉羅は香穂子の退院の日を決めた。 髪はまだ男の子のような長さだったが、香穂子は屈託なく笑っている。 それが吉羅には可愛いと思ってしまう。 退院を告げる日に、指環を渡そう。 そう決めていた吉羅は、指環を持って香穂子の病室に向かった。 「今、構わないかね?」 「はい、暁…吉羅先生」 香穂子は“医者と患者”の立場でいる時には、吉羅を名字で呼んでいた。 「今は構わないよ。誰もいないからね」 「はい」 吉羅がベッドの前にある椅子に腰掛けると、香穂子は楽譜を傍らに置いて微笑んだ。 「ヴァイオリンの勘も随分と戻ったようだね」 「はい! 随分と戻ったので凄く嬉しかったです」 「それは良かった」 吉羅が手を握ると、香穂子は陽の光よりも眩しい笑みを浮かべた。 「散歩に行かないかね? 私は丁度休憩時間だから」 「行きます! 中庭の花水木が綺麗でしょうから!」 「そうだね」 香穂子はパジャマの上にカーディガンを引っ掛けると、頭にバンダナを巻く。 病室では少年のような頭で平気なのだが、流石に一歩外に出ると、バンダナを巻きたがる。 香穂子は器用にバンダナを巻くと、ちょこんと立ち上がった。 「お待たせしました」 「じゃあ行こうか」 ふたりはしっかりと手を握って、病室から出る。 病院では、ふたりが恋人同士であることはかなり有名らしく、誰もが微笑ましいとばかりに見てくれている。 「本当に陽射しが気持ち良いです。今は、幸せな未来があるって解っているから、こうして笑っていられるんです。暁彦さんには本当に感謝しています」 空を眩しそうに見上げる香穂子は、とても綺麗だった。 魂が透き通って清らかだからかもしれない。 吉羅は見惚れながら、香穂子をいつまでも見つめていたいと強く願う。 これ程までに愛した相手はいないし、また香穂子以上の相手も見つからないだろう。 決して放したくない相手だ。 吉羅は決意を固めると、真っ直ぐ香穂子を見つめた。 「香穂子」 「はい?」 香穂子はいつもと変わらないように、大きく澄んだ瞳を吉羅に向ける。 「…香穂子、君の退院が決まった」 「えっ…!」 香穂子は息を飲むと、嬉しそうに瞳いっぱいに涙を浮かべる。 本当に嬉しいのが解って、吉羅の胸を打つ。 「本当に…?」 「十日後に退院予定だ。今日、ご両親には伝える。後はもう通院で構わないよ」 吉羅が頷きながら言うと、香穂子は大きな瞳から大粒の涙を零す。 その美しさに、吉羅は思わず抱き寄せていた。 「…嬉しいよ。ずっとずっとこの瞬間を待っていたんだよ…。ずっとずっと待っていたんだよ…。これで健康なひとと同じように生活することが、出来るようになるってことだよね」 「ああ。いつかはそうなる。だから後少しだけ、治療を頑張ってくれたまえ」 「はい…!」 吉羅は香穂子を強く抱き締めた後、その髪を撫で付ける。 香穂子は吉羅の胸に顔を埋めて、嬉し涙を思い切り流した。 「これで暁彦さんと普通のデートも出来るんだよね? 普通の女の子と同じようにデートが出来るんだよね?」 「そうだ」 「嬉しいよ。本当に」 香穂子は鼻を啜りながら笑うと、吉羅を見上げた。 「本当に有り難う、暁彦さん、嬉しいです」 「私も嬉しいよ」 吉羅はもう一度香穂子を力強く抱き締めた後、その顔を上げさせる。 「もう一つ、君に告げなければならないことがあるんだ…」 吉羅は静かに言うと、白衣のポケットから指環のケースを取り出した。 「香穂子、君が良いと思える時期で私は構わないから、結婚しないか…?」 いきなりプロポーズをした吉羅を、香穂子は大きな瞳を見開いて見つめる。 「そ、それはプ、プロポーズですか?」 香穂子はかなり動揺しているようで、金魚のように口をパクパク開けている。 その様子がかなり可愛くて、吉羅は思わず微笑んだ。 「プロポーズだよ、私は…、一生、君と一緒にいたいと思っている。だから…、私の側にいてくれないかね?」 「暁彦さん…」 今日は香穂子の泣き笑いをよく見る日だ。 どの表情もとても魅力的で、吉羅は余計に放したくはないと思う。 「…プロポーズの返事は今でなくても構わないから。じっくりと考えて貰って良いから…」 吉羅は静かに言うと、香穂子の頬を撫でてやる。 「こころはもう決まっているんです…。だって、私の大きな夢のひとつは、暁彦さんと結婚することだったから…。暁彦さんと一緒に生活を出来たら、どんなに良いだろうって、ずっと思っていたから…」 香穂子は涙ぐみながら言うと、決意を滲ませて吉羅を見上げた。 「私、暁彦さんの妻になりたいです」 香穂子は吉羅を強く抱き締めると同時に、キッパリと宣言をする。 香穂子が同意をしてくれたのが嬉しくて、吉羅もまた強く抱き締めた。 「有り難う、香穂子…。幸せにする」 「私も暁彦さんをうんと幸せにしますから!」 「ああ。幸せにしてくれ」 吉羅は頷くと、香穂子をもう一度抱き締めた。 「ご両親には正式にきちんとした形でご挨拶をしないとならないね」 「そうですね。きっと解ってくれると思います」 「私もそれを期待しているよ」 吉羅は誰も見ていないことを確認すると、香穂子の薬指にエンゲージリングをゆっくりとはめる。 それをうっとりと見つめる香穂子を、吉羅は飽きもせずに眺めてしまう。 「有り難うございます。指環…とっても綺麗です」 香穂子は何度も指環を確認した後、ホッと息を吐く。 それは幸せな溜め息だった。 「香穂子…」 吉羅は香穂子の頬を両手のひらで柔らかく包みこむと、顔をゆっくりと近付けていく。 甘くてスペシャルなキス。 これ程甘いキスも他にないのではないかと吉羅は思う。 顔を合わせて、はにかんだ香穂子が可愛くて、吉羅は再び微笑んだ。 こんなに綺麗な香穂子を見るのは初めてだ。 「今すぐにでも…と言いたいが…君はどうかね?」 「髪が綺麗に伸びたら結婚式を挙げたいです。ウェディングドレスは綺麗な状態で着たいですから」 仄かな女心を見せる香穂子に、吉羅はフッと微笑む。 「解った。式だけは君の要望にお答えしよう」 月日が流れ、香穂子はより美しさに磨きがかかっている。 ヴァイオリニストとしての初めてのコンサート。 アンコールの曲をしっとりと演奏し、観客から拍手を浴びる。 手術から三年。 動脈瘤の再発は認められてはいない。 そのせいか、最近では精力的にヴァイオリニストとしての活動を行っている。 今夜のコンサートはこれで終了だ。 香穂子が観客席に深々と礼をして舞台袖へと向かうと、そこには吉羅が静かに待構えていた。 白いカサブランカの花束を持って。 「コンサート成功おめでとう」 「有り難うございます」 ようやくここまで来られたという万感の想いに、香穂子は涙ぐみながら花束を受け取る。 そのまま吉羅に抱き着くと、暫くじっとしていた。 「有り難うございます、暁彦さん」 「独身最初で最後のコンサートは、悪くなかったよ。明日は晴れるらしいよ。私たちの旅立ちには相応しいね」 吉羅の言葉に香穂子はただ頷いた。 綺麗に髪を結い上げて貰い、香穂子は美しい吉羅の花嫁となる。 「綺麗だよ。これからもずっと一緒に歩いて行こう」 「はい」 香穂子は朗々と返事をすると、ゆっくりと歩き始める。 これから長い人生を共にする愛する男性に笑顔を見せながら、香穂子は新しい一歩を踏み出した。 |