*Last Love*


「帰りなさい」
 吉羅は溜め息を吐きながら、少女を睨み付ける。だがそんなぐらいでは堪えないとばかりに、真直ぐなまなざしを向けている。
 そんなまなざしを見せつけられると、胸がキリキリと痛んでくる。
 どうかそんな目で見ないで欲しい。
 この胸がおかしくなってしまうぐらいに痛くなるから。
「家はどこだ? 名前は?」
「家なんてないです。名前は香穂子」
 香穂子と名乗った少女は、強い意志を吉羅に見せつけてくる。その瞳を見ていると、折れるしかないのではないかと思えてしまう。
「…しょうがない。とりあえずはうちに入りなさい。休憩をしたら送っていくから、直ぐに帰るんだ」
 吉羅は渋々自宅のドアを開けると、香穂子を中に招き入れる。
 躰の付き合いがある女ですら自宅になんて入れたことはないというのに、こうして十代の娘を部屋に入れるとは思わなかった。大体、十代の娘なんて、対象外だというのに。
「有り難うございます」
 香穂子は素直に礼を言うと、ひょこひょこと吉羅の自宅に上がり込んだ。
「素敵な家ですね。だけど、何処か寒々しいです」
「外にいるよりはましだ」
「そうですね」
 香穂子はちんまりとリビングのソファに腰を下ろすと、楽しそうにインテリアを眺めている。
 その表情は、まるでお城にでも来たような雰囲気だった。
「温かいものでも…生憎、紅茶ぐらいしかない。子供に飲ませるものは」
「それで良いです、子供には。だけど吉羅先生、私は意外に子供ではありませんよ」
 香穂子は真っ直ぐと吉羅を見上げる。
 瑞々しい生命力が溢れているはずなのに、香穂子からはそれを感じない。
 笑顔も表情にも若さが滲んでいるのに、躍動感溢れる生命力を感じなかった。
「…君はいくつかね」
「17歳です」
 その年齢には見えない何処か達観した瞳に、吉羅は息を呑む。
「…私から見れば、君は充分子供だがね。27歳以下は相手にしないようにしているんだよ。私は」
 吉羅が淡々と言うのを、香穂子は楽しそうに聞いている。
 その表情はとても子供っぽい。
「…年増好みですか?」
「子供は好きじゃないんだよ。生憎ね。君には申し訳ないが」
「ピチピチなのに」
 ふざけるように香穂子は言うと、茶目っ気溢れるように舌をぺろりと出した。
「とにかく、家を言いなさい。送っていく」
「明日、先生が出勤する時に車に一緒に乗れば、一石二鳥だよ」
「病院の近くに住んでいるのか…。だったらナビをしなさい。送っていく」
 吉羅がジャケットを羽織ると、香穂子は首を振る。
「明日で良いですよ。それよりもここのリビングが気に入りました。ここで今夜は寝ます」
 香穂子はけろりとした顔で言うと、吉羅を見上げた。
「そういうわけにはいかない。私も社会的に責任がある」
「私が良いから良いんです」
 香穂子が凜とした笑みを自信ありげに浮かべるものだから、吉羅は溜め息を吐く。
 全くなんて娘だと思った。
「君は良くても、私は良くないんだよ」
「私が良いから本当に構わないんです」
 このままだといつまで経っても平行線のままだ。交わることなんて有り得ない。吉羅は溜め息を吐くと、香穂子を呆れ顔で見る。
「君は頑固だってよく言われるだろう?」
「“わがまま”だってよく言われます」
 まるで自慢するように得意げに言う香穂子に、吉羅は益々呆れ果てたようだった。
「…ったく…君は…」
 こんなことをしていても堂々巡りだ。
 吉羅はとうとう折れると、溜め息を吐きながら香穂子を見た。
「…しょうがない。毛布を貸すから、それを被って寝るんだ。ただし、明日にはちゃんと帰るんだ」
「流石は吉羅先生。有り難うございます。今夜はここで寝かせて貰いますね」
 香穂子の無邪気な笑顔に、吉羅は苦笑いを浮かべながら、毛布を取りに行った。
 全くあんな女の子は初めてだ。
 吉羅は毛布を片手にリビングに入ると、一瞬、ハッとする。
 窓から月夜を眺める香穂子の姿がとても綺麗で、一瞬、見惚れてしまう。
 誰にもない透明な美しさが滲んで、とても綺麗だった。
「あ! 毛布有り難うございます」
 くるりと振り返った香穂子の笑顔に、吉羅はようやく気がつくと、毛布を差し出した。
「これを被って眠りたまえ。部屋は空調をきちんとしておくから、寒くはないはずだ」
「あ、有り難うございます」
 香穂子は嬉しそうに毛布を受け取ると、大切なもののようにギュッと抱き締めた。
「有り難うございます。眠いから、ちょうど良かったです。今夜はもう寝ますね。おやすみなさい」
 香穂子は小さな躰をベッドに横たえると、毛布を頭から被る。
 その仕草は、小さな子供のようで可愛かった。
 香穂子が眠ったのを確かめると、吉羅は電気を消して戸締まりをする。
 そして、シャワーを浴びにいった。

 シャワーを浴びに行って帰ってくると、香穂子は既に寝息を立てていた。
 本当に不思議な少女だ。
 この吉羅を折れさせたのだから。
 吉羅は香穂子のあどけない寝顔を確認した後で、自室へと戻った。

 翌朝、とても心地好い調べで目が覚めた。
 “ジュ・トゥ・ヴ”の可憐で愛らしい調べが、響いている。
 吉羅にとっては大切な音だ。
 直ぐにベッドから飛び起きると、音のする方向へと向かう。
 聞こえるのはヴァイオリンの音色。
 それも遠い昔になくしてしまった、温かな音色だ。
 澄んでいて、こころが清らかになる音色。
 あのひとが帰ってきたのではないかと錯覚してしまう程だ。
 とても綺麗な音色だった。
 リビングの前にまで来て、吉羅のこころには期待と不安が過ぎる。
 もしあのひとでなかったなら。
 吉羅はそっとリビングへと入っていった。
 一瞬、朝の光に目をすがめながら、顔をしかめる。
 光の向こう側には、ヴァイオリンを奏でる天使がいた。
 美しく、清らかなひと。
 こんなにも綺麗な女性は他にいないのではないかと、思わずにはいられなかった。
 本当に綺麗だった。
 香穂子は神聖な雰囲気を身に纏いながら、緩やかにヴァイオリンを奏でる。
 その儚い美しさに、吉羅の胸は激しく痛んだ。
 このヴァイオリンを奏でて良いのは、あのひとだけだ。
 そう思うと、急に胸が冷えてくるのを感じていた。
「…止めなさい」
 吉羅が低い声で呟くと、香穂子は気付いたようにヴァイオリンを奏でるのを止めた。
「吉羅さん?」
「そのヴァイオリンは何処から出した?」
「そこの棚から。素敵だと思って」
 香穂子は悪びれることなどなく、ごく素直に答える。それがまた吉羅の癪に障る。
「良いからヴァイオリンを弾くのは止めるんだ…! 君にはその資格はないはずだ」
 吉羅が厳しい声で言うと、香穂子はヴァイオリンを置いて、玄関先に向かって逃げる。
「おいっ! 何処に行くんだ!?」
 吉羅が追いかけていっても、香穂子の逃げ足は早く、するりと逃げていってしまう。
 素早く玄関で靴を履くと、香穂子はそのまま走り出してしまう。
「おい! 待つんだ!」
 いくら止めても、香穂子はそのまま逃げていってしまう。
 吉羅は、結局、香穂子を見失ってしまった。
「ったく…逃げ足の早い娘だ…」
 吉羅は溜め息を吐きながら呟くと、香穂子が逃げていっただろう道の先をじっと見つめた。
 そこには、香穂子が遺した日だまりしかなかった。



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