*Last Love*

3


 災難だったと思いながら、吉羅は車を走らせて病院へと向かう。
 しかし不思議な少女だった。
 小生意気な迷惑この上ない娘であるはずなのに、その愛らしさや清らかさは、何処か普通の娘とは違っていた。
 まるでリミットを決められたような美しさを秘めている。
 そこまで考えたところで、吉羅は息を呑んだ。
 リミットを決められた美しさ。
 それはまさに、吉羅の姉と同じものだ。
 あれほどまでに儚い美しさを、吉羅は他に知らない。
 あれほどまでに美しいひとを、吉羅は知らない。
 美し過ぎて、神様に愛されてしまったから、姉は夭逝してしまったのだろうか。
 ヴァイオリンしかない薄命の美しいひとだった。
 透明過ぎたあのひと。
 ヴァイオリンを奏でるところといい、何処か抜きに出た美しさといい、姉によく似ていた少女。
 神様に愛されるということは、それだけ命を与えられなかったのかもしれない。
 吉羅は慌てて、少女と姉は似ていないと打ち消しながら唇を噛み締めた。
 香穂子と名乗った少女。
 あれだけの技量を持っているのだから、かなりのヴァイオリニストに違いない。
 だが、常識の枠にははめられない生き方をしているのだろう。
 吉羅はそう思いながら、車を病院の駐車場へと入れた。

 白い巨塔なんて、恰好のつけた場所は、吉羅の逃れられない運命が沢山詰まっている。
 ここを継ぐ運命は、生まれた時から決っていたのだから。
 時々息が詰まる。
 自分にはひとの命を救うような技量は、何処にも持ち合わせてはいないというのに。
 吉羅が白衣に着替えていると、金澤が溜め息を吐きながら更衣室に入ってきた。
「ああ、参ったな…」
 金澤は疲れきったように溜め息を零すと、幾分かくたびれたような声を出した。
「何かあったんですか?」
「あまり病状が芳しくない子が、昨日、病院から脱走してな。今朝方、親御さんが気付いて、大騒ぎだ。メールでは大丈夫だって連絡があったんだが…、なんせ、余り状況が良くない娘でね。何かあってもおかしくないんだ」
 金澤は唇を噛むと、手早く白衣を着る。
「この間、お前さんに手術を依頼した娘だよ。かなり難しい場所に脳動脈瘤を作っている…。手術をしなければ確実に死ぬ。手術も成功率は極めて低い。その上、成功したとしても視神経を傷付けてしまい、失明の可能性がある」
「第一内科の金澤先生、至急、第3病棟にお越しください」
 アナウンスが鳴り響き、金澤は慌てて更衣室から飛び出していく。
 その様子を見つめながら、吉羅は再び胸が痛くなるのを感じた。
 ああいう風に、自分もかつては情熱的な医者だった。
 だが今は、専門の筈の脳外科手術すら上手くこなせない、ただの外科医に成り下がっている。
 姉を失ってから。

 金澤は直ぐに病室へと向かった。
 ドアを開けると、ぼんやりとしている日野香穂子の姿を見つけた。
 焦点が定まらず、意識障害を起こしているのだろう。
 このままでは命が冒されるのは時間の問題だ。
 やはり日野香穂子には手術が必要なのだ。
 それも並の脳外科医ではだめだ。
 “神の手”を持つと言われる程の脳外科医でないと駄目だ。
 今のところ吉羅暁彦しかいない。
 だが、今の状態では、きっと手術などはとうていしてはくれないだろう。
 吉羅暁彦が執刀しなければ、日野香穂子は助からない。
 粘り強く交渉しても、日野香穂子の残された時間のこともある。
 金澤は頭を抱えながら、そっと香穂子に近付いていく。
「どれくらいあの状態で?」
 金澤は、香穂子の母親に語りかけた。
「先ほど帰ってきてベッドの上に乗るなり、ああして…。最近、意識が混濁する時間も長くなって、感覚も短くなっていますから…」
「…そうですね…」
 もう内科医的に出来ることなど何もない。
 吉羅暁彦がもし、全盛期の状態であったとしても、難しい難手術だ。
 その上、科学療法が使えない場所だときている。
 金澤は、ただこうして見てやることしか出来ない自分に、とても腹が立った。
 唇を噛んだところで、何もしてやれないのだから。
 香穂子がぼんやりとしている間、母親は手をずっと擦っている。
 早く気がつくようにと懸命だ。
 香穂子は浅い呼吸をすると、ようやく目を開けた。
「…お母さん…。金澤先生…」
 名前を呼んだ後、香穂子は暫くぼんやりとしていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「もうっ! 心配かけてっ!」
 母親は泣きながら怒ると、香穂子の華奢な躰をギュッと抱き締める。
 香穂子は、まるで母親をあやすように背中を抱いた。
「金澤先生、ごめんね。お母さんもごめん。ちょっと冒険したかったんだよ。それだけなんだよ」
 香穂子は、いつものように太陽のように笑うと、ふたりを見つめる。
「もう大丈夫だよっ! 先生、お母さん、発作も治まったし。午后からは病棟のサロンでヴァイオリンを弾く約束をしているから、ちょっと行ってくるね」
 香穂子は、先ほどまで意識を途切れさせたとは思えない笑みを浮かべていた。
「先生、有り難う。少し休んだら、またいつも通りに頑張るよ」
 香穂子はふと笑うと躰をベッドに横たえた。
「おやすみ」
 にっこりと笑って、香穂子は目を閉じる。
 それを金澤と母親は見守るように見つめた。
「…しょうがないヤツだな…」
 金澤は溜め息を吐きながら言うと、胸が張り裂けそうになるぐらいに痛くなった。
 自分の無力さに。

 吉羅が外科病棟に虫垂炎の手術に向かっていると、病室から出て来た金澤とはち合わせた。
「金澤さん」
「…ああ、吉羅か…」
 金澤は吉羅の顔を見るなり、溜め息を吐いた。
「患者の具合は落ち着いたのですか?」
「いいや。落ち着いてない。というか、落ち着きようがないと言うか…。まあ、しょうがないんだけれどな…。手術を受けてくれる外科医が殆どいない患者だからな」
 ちらりとどこか吉羅に期待をかけるように見つめてくる。
 だが、そんな瞳で見られたとしても、応えることなど出来やしない。
「私はもう、難手術はしないと決めたんです」
「姉さんを亡くして辛いのは分かるが、…お前の腕を待っている患者もいるのだということを忘れないでくれ」
 金澤は淡々と正論を言う。
 確かに金澤の言うことは正しいのかもしれない。
 だが、もう命に関わる手術などしたくないのだ。それを解って欲しい。
 吉羅は冷酷な表情のままで、金澤を見る。
「では私はオペの準備がありますから、失礼します」
 吉羅は白衣を翻すと、すたすたと早足で歩いていく。
 もう難しい手術をするのは止めたのだ。
 姉を亡くしてからは。

 吉羅は手術を終えて、少しばかりの休憩を取るために職員専用のサロンへと向かう。
 疲れなど感じない。ただ淡々とこなすだけだ。
 その途中で、吉羅はヴァイオリンの美しい音色を耳にした。
 何処かで聴いた事がある音色に、吉羅は思わず足を止める。
 儚さと清らかさ、そして温かな色が滲んでいた。
 いつまでも聴いていたいと思わせる音色に、吉羅は思わず耳を傾けていた。
 ヴァイオリンの音色は聴けば聴く程澄み渡っていく。
 吉羅は、サロンの奥で、患者に囲まれている、小さな躰を見つけた。
 そこには、今朝、ヴァイオリンを奏でていた赤毛の少女が囲まれているのが見える。
 吉羅は、その姿を見つめる。
 白いワンピース姿の日野香穂子を見つめながら、その清らかな美しさに、吉羅は息を呑んでいた。



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