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午后の光を浴びて佇む香穂子は本当に美しく、息を呑んでしまいそうだった。 こんなにも清らかな美しさを持つ女性を、吉羅は姉以外には知らない。 姉と同じヴァイオリンを奏でる少女。 よく見れば、もう、少女と女の端境にある。 清らかな美しさを持つ女だ。 吉羅は瞳で魅了されるとともに、耳でも魅了されていく。 こんなにもこころを豊かにする音色を聴いたのは久し振りだ。 恋の曲の名手だった姉。 清らかで美しい女性だった。 その姉と同じような雰囲気を、目の前の少女は漂わせている。 暫く見惚れて、聞き惚れていると、やがて香穂子はヴァイオリンを奏で終わった。 うやうやしく香穂子が一礼をすると、誰もが大きな拍手をする。 患者も看護士も医者も家族も…。 ここにいる誰もが香穂子に魅了されていると言っても過言ではなかった。 香穂子は顔を上げると、吉羅の存在を認める。 その途端、とても親しみ易い明るい笑顔になり、こちらに向かって手を振る。 「吉羅先生!」 名前を呼びながらヴァイオリン片手に駆けてくる姿は、小さな子供とさほど変わりはない。まるで子犬のようだ。 「吉羅先生、聴いて下さっていたんですか! 凄く嬉しいです」 キラキラと命の粒を舞い散らして話す香穂子の姿に、吉羅は目を細める。 「ここにボランティアで来ているから、私のことを知っていたのかね?」 「まあ、そんなところです」 香穂子は誤魔化すように笑うと、まるで宝石のように煌めく美しい瞳を向けて来た。 「私は仕事に戻らなければならないので、これで」 「あ、はいっ! また、聴きに来てください。昼下がり近くにやっていますから」 「気が向いたらね。失礼する」 吉羅は香穂子に背を向けると、すたすたと早足で歩いていく。 このままそばにいれば、香穂子を抱き締めてしまいたくなる程に、惹かれていた。 吉羅が行ってしまう背中を見送りながら、香穂子は小さな吐息を零す。 患者だとは言えなかった。 そんなことを言えば、吉羅が怒ってしまうのは解っていたからだ。 「では皆さん、失礼しますね。また、ヴァイオリンを弾きに来ます」 香穂子は丁寧に挨拶をした後、病室へと戻る。 渡り廊下を歩いていると、陽射が目に差し込んでくる。 もし手術を受けることが仮に出来たとして、命だけでも助かったとしても、かけがえのないこの世界の光は失うことになる。 見えなくなってしまった時のことなんて、想像することすらも出来なかった。 生きていられるであれ、死ぬであれ、香穂子の視界から光がなくなる可能性はかなり高い。 躍動感のある光に、未来を託すことも確実に出来なくなる日がやがて訪れる可能性はかなりの確率だ。 だからこそ、香穂子は瞳に太陽を映し、その瑞々しさを感じる。 光を見つめながら、香穂子の瞳に涙が滲んでいた。 翌日の夕暮れ、吉羅が中庭を歩いていると、日野香穂子がベンチに腰を掛けて佇んでいた。 笑って挨拶をする表情からは想像出来ないような、切ない色を帯びている。 ただじっと夕陽を見つめている姿が、美しかった。 まるでこの世の総てを自分の脳裏に焼き付けるかのように、ただじっと見つめている。 自分よりもかなり年下の少女を、こんなにも綺麗だと思ったことは今までなかった。 吉羅が見つめているのに気付いたのか、香穂子がゆっくりと振り返った。 「吉羅先生」 「休憩かね」 吉羅が声を掛けると、香穂子は頷く。 「今日もボランティアかね」 「今日は少し抜けられない用事があったので、やらなかったんです。だから夕陽を見た後で、少しだけヴァイオリンを弾こうと思いまして」 香穂子はヴァイオリンを吉羅に掲げるように見せると、肩に構えた。 「一曲、どうしても弾きたいので、聴いて頂けますか?」 「ああ。解った」 吉羅が聴く体勢を整えると、香穂子はヴァイオリンを奏で始めた。 夕陽のスポットライトに輝く香穂子は、この世の者ではないかのように美しい。 香穂子がヴァイオリンを奏でている間、吉羅はその美しさに釘付けになってしまった。 音楽に愛された者の麗しさだ。 香穂子はヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は拍手をしてくれた。 「なかなかだったよ」 「有り難うございます。私、凄く嬉しいです。こうして吉羅先生に聴いてもらえるのが、一番嬉しいです」 「ああ。君はいつからヴァイオリンをやっているのかね?」 「ヴァイオリンは小さな頃からやっています。私の肌に一番あった楽器なのかなあって思っています。だから、聴きたい曲をまた教えて下さいね」 「ああ。君の曲をまた聴く機会があれば、その時はお願いするとしよう」 「はい。楽しみにしています」 香穂子はヴァイオリンを抱き締めると、吉羅に一礼をして去っていく。 後ろ姿が見ていると、こちらの胸が切なく痛んでくるのが感じた。 病院内で逢う度に、香穂子と吉羅はよく話すようになっていった。 ポツリポツリと少しの会話ではあるが、ふたりにとっては仲よくなるのに役立っているような気がしている。 手術を終えて廊下を歩いている時には、必ずサロンを覗く癖がついてしまっている。 今日も吉羅は香穂子がいるのかを、つい調べるように立ち寄った。 するとひとりテーブルに腰を掛けて、ぼんやりと窓の外を見ている香穂子を見つけた。 「日野君」 声を掛けたものの、香穂子は返事をしない。まるで夢想の世界にいるかのように、瞳を空に向けていた。 「日野君…?」 二度目でようやく睫毛が動き、香穂子は吉羅に気がついた。 「…あ…。吉羅さん…」 「そんなところでぼんやりしていて、疲れているんじゃないかね?」 吉羅は素直に心配することが出来なくて、つい強い調子で香穂子に言う。 「大丈夫です。少しだけぼんやりしたかっただけなんです」 香穂子が何でもないことのように笑うものだから、吉羅は余計に苛立ってしまう。 自分も医者の端くれだというのに、香穂子は不調は一切訴えない。それが癪に障る。まるで、全く信じてくれていないような気がするから。 「ボランティアは大変ではないかね?」 「楽しいですから苦ではありません。人前でヴァイオリンを弾ける、とても良いチャンスだと思うので」 香穂子が笑うと、吉羅もまたフッと釣られるように笑ってしまう。 先ほどまで苦々しい気分を味わっていたのに、こうして直ぐに明るい気分にする香穂子の笑顔の威力は、相当なものだと思わずにはいられない。 「余り無理をするものじゃない」 「無理はしていないですから、大丈夫ですよ」 「顔色が余り良くない。これでも私も医者の端くれだからね。君が余り体調が良くないことぐらいは解るよ」 吉羅は溜め息を吐くと、香穂子の顔色をよくよく観察をした。 やはり全く良いようには見えなかった。 「余り無理はしないように。まあ、私のような似非医者には解らないからかもしれないが」 「似非医者なんて…。先生は、そんなんじゃありません! …だって、先生に治して貰いたいって言っている患者が現にいる筈です!」 香穂子は吉羅を叱り付けるような瞳で見つめると、軽く睨み付けてくる。まるで瞳に炎が宿ったようにすら見えた。 その視線が剣となり、吉羅が触れられたくない傷を抉り出す。 直視することは出来ない。 吉羅は香穂子の視線を撥ね付けると、逆に攻撃するような視線を投げた。 「君には関係ないことだ」 吉羅は低い声で窘めるように言うと、香穂子に非情なまでの背中を向ける。 「…吉羅先生…っ!」 香穂子が吉羅の名前を呼んだ時だった。 突然、椅子が倒れるような音が聞こえ、吉羅は振り返る。 香穂子が床に倒れこんでいた。 「日野君…!」 |