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吉羅は慌てて香穂子に駆け寄ると、直ぐに華奢な躰を抱き起こす。 「日野君、日野君!」 名前を呼んでも、躰を揺すっても、香穂子は全く反応を示さない。 吉羅は香穂子を抱き上げると、直ぐに処置室へと向かう。 抱き上げても、香穂子はこちらがびっくりしてしまうほどに軽く、吉羅に病状の悪さを思い起こさせた。 吉羅が香穂子を連れてサロンを出た時に、吉羅は内科の看護士と出くわす。 「日野さん…! 吉羅先生、彼女の病室はこちらです!」 看護士は息を呑んではいたが、そこは医療従事者らしく、冷静に判断してくれた。 「日野君は入院患者だったのか…?」 「はい。だけど腕が鈍るからと、何時もヴァイオリンを弾きに来てくれる優しい女の子なんですよ。自分もそんなに良くはないのに…」 看護士は溜め息を吐きながら、吉羅を病室まで案内してくれる。 「…彼女の主治医は?」 「金澤先生です」 「金澤さん…」 吉羅は、医学部の先輩である金澤の名前を呟きながら、香穂子の病室へと運び込んだ。 直ぐにベッドに寝かせると、金澤が慌ててやってくる。 「…吉羅…! どうしてここへ!」 「彼女が倒れていたので、こちらに運んできたところです」 「有り難う」 金澤は軽く礼を言うと、直ぐに香穂子の処置をする。 処置をしながらも、金澤はやるせない溜め息を零していた。 「…俺が出来るのはここまでだ。暫くしたら、目が覚めるだろう。それまでは少し様子を見る」 「そうですか…」 金澤の様子を見ていると、やるせない表情が滲んでいた。 「吉羅先生! 虫垂炎の緊急オペが入りました! お願いします」 吉羅を探しに来た看護士に呼ばれて、後ろ髪を引かれる思いで病室を出る。 香穂子はベッドの上で、ただ力が抜けたように横たわっている。あの時の姉の姿を思い出し、吉羅は恐怖を感じた。 緊急オペが済み、吉羅が香穂子の様子を見に病室へと向かおうとすると、肩を叩かれた。 「吉羅」 「金澤さん」 金澤は幾分か疲労を滲ませながら、吉羅を見つめる。 「日野香穂子は無事に意識を取り戻した。少し話がある、談話室に来て貰いたい」 金澤の言葉に、吉羅は頷くしかなかった。 談話室に入ると、金澤がブラックコーヒーを出してくれる。 灰皿を無造作にテーブルに置くのは、医療従事者とは思えない程のヘビースモーカーであることを証明しているかのようだった。 「…さてと。まあ、これを見せたら、日野香穂子の病状が解るだろう」 金澤は封筒を静かに差し出し、吉羅はそれを受け取った。 封筒の中には頭部のレントゲン写真が入っており、吉羅はそれを一見する。 背筋が強張る。 香穂子の病状は、吉羅が予想している以上に悪かった。 「…脳動脈瘤…ですか…。しかもかなり大きいし厄介なところに出来ている…。手術をしなければ助からない。その手術も、成功するかは保障は出来ない確率の低いもの…。成功したとしても…、視神経を傷付けて、失明する可能性が高いですね…」 レントゲン写真を見るだけで、香穂子の状況を見るのは充分だった。 「…投薬も、そろそろ限界だ…。日野香穂子の選択肢はふたつしかない。失明の覚悟で手術を受けるか、…それとも…死ぬか…」 金澤は煙草を唇に押し込めながら、表情を歪めた。 「失明か…死か…」 吉羅はまるで運命を語るように言うと、香穂子のレントゲン写真を眺めた。 「…死の可能性が一番高いだろうな…、その次が失明をして命だけが助かる…、そして一番可能性のないのは…、失明しなくて手術が成功すること…だな…」 金澤は宙に煙草の煙を吐くと、切なく空を見る。 「…吉羅よ…、お前が引き受けてくれるのならば、日野香穂子の生存率は高まる。そして失明をしなくても良くなる可能性も高くなるかもしれん…」 金澤はキッパリと何処か期待を込めて言う。 だが吉羅には、良い返事を直ちに返すことは出来なかった。 苦々しい想いと記憶が蘇る。 姉を亡くしてしまったあの日、医療の限界を感じた。 もう人の生死に関わりたくなんかない。 生死に関わる手術なんて、二度としたくない。 根っからの医師気質であるせいか、医療現場からは離れることは出来なかったが、こうして生死に関わることのない手術ばかりをしている。 これが現実だ。 吉羅は苦々しい気分になる。 姉の心臓が鼓動を止めて、呼吸器が取り外された瞬間が脳裏に浮ぶ。 あの時に、こころは死んでしまったのだ。 最愛の姉。 あと少しで夢が叶ったかもしれない姉。 それを自らの力で壊してしまったのだ。 吉羅は呼吸を整えながら、ゆっくりと口を開いた。 「金澤さん、今の私には、日野香穂子を救ってやれる力はありません。失明させたとしても、救ってはやれないでしょう。だから、今回のことは諦めて下さい。申し訳ないですが…」 吉羅はレントゲン写真を封筒に入れると、金澤に返却した。 「…吉羅よ…。いつまでも逃げているわけにはいかないだろう…。医者として…」 金澤の言葉は一理あるのは解っている。だが、それを素直に今は受け入れることは出来ないのだ。 「これが今出来る総てなんです。彼女には申し訳ないですが、脳外科部長にでも当たってみて下さい」 吉羅は自分の無力加減に辟易しながら、テーブルから立ち上がった。 「吉羅よ…待て」 金澤は静かに声で言うと、灰皿の中で煙草を揉み消す。 「日野香穂子はどの外科医の手術も受けないという書類にサインをしているんだよ」 吉羅は驚いて振り返る。 そんな自殺行為を金澤は主治医として許しているのだろうか。 「…ただし、例外はある。日野香穂子は、お前の手術ならば受けると言っているんだよ」 金澤の言葉が、吉羅のこころにズッシリと重苦しく突き刺さってくる。 それこそ自殺と同じではないか。 手術が成功するかも解らないような医師に総てを託してしまうなんて。ハイリスク過ぎる。成功しても失明するかもしれないような手術を、難手術から逃げている外科医に頼もうとするなんて、狂気の沙汰ではないかとすら思った。 吉羅は動揺甚だしい表情を金澤に向ける。 「あいつの願いなんだ。それが…」 目を神経質に見開きながら、吉羅は唇を噛む。 手術をしない外科医を、どうしてそこまで信用するのかと、吉羅は思わずにはいられなかった。 「お前が手術をしようがしまいが、あいつは自分で決めたことだから後悔しないと言っていた」 金澤はそれだけを言うと、ゆっくりと立ち上がって吉羅の肩を叩く。 「後で顔を見に行ってやってくれ。喜ぶかもしれんから」 「はい」 吉羅は重く返事をすると、部屋から出た。 廊下を歩いていると、つい足が香穂子のいる病室へと向かう。 香穂子の病室の前まで来ると、ドアが僅かに開いていた。 そこから香穂子の姿が見える。 静かにベッドの上に座り、じっと窓の外を見つめている。 その姿もまた、息を呑む程に美しかった。 こんなにも綺麗な女性を、吉羅は知らない。 ただ魅入られるように、吉羅はじっと見つめる。 オレンジ色に染まる香穂子は、本当に綺麗で、このまま時間を止めて、見つめていたい。 これほどまでに綺麗なひとは他に知らなかった。 時間を忘れて吉羅が見つめていると、香穂子がこちらをちらりと見つめた。 こちらを見つめてにっこりとする香穂子が、愛しくてしょうがなかった。 |