*Last Love*


「具合はどうかね?」
「…吉羅さん…」
 眩しい夕陽のオレンジ色を滲ませて、吉羅がゆっくりとベッドに近付いてくる。
 とても綺麗なひとだと思った。
 とても素敵なひとだと思った。
「具合はもう平気です。今は何ともありません」
 香穂子が笑顔で言うと、吉羅はまるで痛々しいものを見るかのように唇を歪ませた。
「慣れているから平気なんです」
 香穂子は何でもないことのように言うと、吉羅を真っ直ぐ見つめる。
「…日野君…、私でなくても…、君の執刀が出来る医師はいくらでもいる筈だ。私のような欠陥外科医なんかに手術は頼まずに、もっと著名な医師に頼ったらどうかね? 残念だが…、今の私には、君を治してあげられるほどの技量は持ち合わせてはいないよ」
 吉羅は冷静に淡々と呟くと、香穂子から一瞬目を逸らせた。
 それでも香穂子は、吉羅から視線を逸らさないように見つめる。
「どのような著名な先生が執刀したとしても難しい手術であることは、金澤先生から聞きました。完璧に上手くいく可能性は低い、上手くいっても失明する可能性が高い、それよりも手術が失敗して、命を失う危険性のほうがよほど高い…って…」
 言葉で言っても、まるで他人事のように思えてしまう。
 淡々と香穂子は呟くと、もう一度、吉羅暁彦を見つめた。
「…私、吉羅先生が執刀すれば、助かるような気がするんです」
「それは有り得ないよ。私はもう…、命に関わる手術を二度としないことを決めたのだから」
 吉羅の声は、いつも以上に冷たい張りがある。
「大丈夫です! 先生ならきっと成功出来ます!」
 香穂子は、吉羅の想いを覆そうとするが上手くいかない。
 吉羅のこころの奥深くに張る闇の根は、相当深い場所にあることを感じていた。
「…私には無理だよ。日野君。いくら話しても平行線を辿るだけだよ。私たちに妥協点は見出だせややしないよ。結論は、私は手術をしない。それだけだ」
 吉羅が病室から出ようとしたところで、香穂子は声を掛ける。
「失敗するのが怖いんですか!?」
 香穂子の鋭い言葉で出来たナイフが吉羅のこころを抉る。吉羅の背中が強張るのが見えた。
 吉羅は振り返ると、香穂子に鋭い一瞥を投げる。
 これ以上干渉はされたくないといった雰囲気だ。
 その冷徹な瞳に、香穂子は一瞬怯んだが、それらをはねのけるような強さで、吉羅を見た。
「…吉羅先生。私は、先生に執刀して貰えるならば、手術が失敗しても本望だって思えます」
 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は動揺したように僅かに躰を強張らせる。
 結局、吉羅は何も言わずに静かに病室から出て行ってしまった。
 病室でひとりになり、香穂子は溜め息を吐く。
「…やっぱり失敗だったかな…。だけど、これが私の素直な気持ちだから…」
 香穂子は声を掠れさせると、静かに肩を震わせて泣いた。

 あのひとと同じだと、吉羅は思わずにはいられなかった。
 あの強い瞳も、そして吉羅だけを信頼してくれる想いも総て。
 だが、今はそれが重くてしょうがない。
 あんな想いを受け入れることは出来ない。
 吉羅は、香穂子の申し出を受け入れられない理由を探そうとしたが、苦い気持ちしか遺らなかった。
 香穂子の透明な横顔が瞼に焼き付いて離れない。
 まるで神様に愛されたかと思う程の美しさだった。
 姉が亡くなる寸前に、極めてよく似ていることに気付いて、吉羅は余計に気持ちが重くなるのを感じた。
 いくら本人が望んだとしても、その想いを受け入れてやることは、今の吉羅には到底出来ないのだから。
 むしゃくしゃする。自分の無力さに。
 どんなことをしても、日野香穂子を救ってやれる力は、今の自分にはないのだから。
 なのに。日野香穂子は笑顔で、吉羅に執刀して貰いたいと思っている。
 それが切なくてしょうがない。
 日野香穂子の想いには応えてはやれない。
 それは吉羅の苦渋の想いでもあった。

 翌朝、香穂子の病室の前を故意に横切る。
 するといつも通りの明るく元気な笑い声が病室からこだました。
 自分の病状を誰よりも解っているくせに、香穂子の笑い声はあくまで明るい。
 吉羅は笑い声に胸が切なく痛むのを感じた。
 どうしてそんなにも明るく出来るのだ。
 自分ならきっと何かに八つ当たりをしてしまうだろう。
 吉羅が立ち去ろうとしたところで病室のドアが開き、香穂子が出て来た。
「…あ、吉羅先生!」
 よそよそしいところもなく、香穂子はいつもと同じように吉羅に接してくる。
「おはようございます、吉羅先生」
「…おはよう」
「今日もお昼から、ヴァイオリンを弾きに行きますので、吉羅先生もお暇なら来て下さい」
「あいにく手術が入っていてね、君のご招待には残念ながら応えられないよ」
「…それは残念です。また、ヴァイオリン弾きますので、宜しければ来て下さいね」
 香穂子は明るい空色の声で呟くと、吉羅に向かってにっこりと微笑みかける。
 その笑顔が無垢過ぎて、吉羅は思わず視線を逸らせてしまっていた。
「では、失礼するよ」
「はい、先生。また」
 吉羅は香穂子から逃げるように歩いていく。
 胸がまた強く痛むのを感じた。

 大人だと自覚をしたのは、素直になれなくなったからだ。
 以前のように総てを素直に受け入れることが出来なくなっている。
 日野香穂子のこともそうだ。
 あの真っ直ぐな想いを、しっかりと受け止めてやることは出来なくなっていた。
 簡単な脳外科手術を終えて、吉羅は自室に戻ると、鍵を掛けていた引き出しから、香穂子のカルテの写しを出す。
 解っている。
 このままでは日野香穂子は死んでしまうことを。
 手術をしなければ、間も無く命は尽きてしまうだろう。
 だが勇気が出ない。
 自分は一度、人を殺してしまった。しかも最愛の姉を。
 そんな自分が吹っ切って、香穂子の手術を成功出来るとは思えないのだ。
 だが、治してやりたいという気持ちはある。
 吉羅とて、香穂子の笑顔を曇らせたくはないのだから。
 吉羅はカルテを片付けると、香穂子がヴァイオリンを演奏すると言っていたサロンへと向かう。
 そこにはもう香穂子の姿はなく、ただヴァイオリン演奏会の優しい余韻が漂っているだけだ。
 不意に、サロンの窓の外に香穂子の姿を認めた。
 口では表現することが出来ないほどの透き通った美しさを滲ませている。
 まだ子供と言っても良いようなあどけなさと、人生を達観したような美しさを同居させている。
 余りにもの綺麗さに、吉羅は魂を魅入られた。
 限りある命であるからなのか、本当に綺麗だ。
 吉羅の存在に気付いたのか、香穂子はゆっくりと振り向いた。
「…吉羅先生…」
「何をぼんやりとしているんだね?」
 吉羅の問い掛けに、香穂子は僅かに口角を上げたが、笑っているようには見えなかった。
「…死んだら…どうなるのかなって…ぼんやり考えていただけです。後、どれぐらい先生のそばにいられるのかなあっとか、逆に死んでからのほうが一緒にいられるんじゃないかなあ…なんて考えたりもして…」
 自嘲気味にくすりと笑った後で、香穂子はベンチから立ち上がった。
「なかなか結論なんかは出ないんですけれどね。もうすぐそのあたりの白黒はついてしまうんですけど」
 香穂子は吉羅に一瞥を投げると、ゆっくりと歩いて行く。
 心許無い香穂子の小さな背中。
 それを見つめながら、吉羅は背後から抱き締めたい衝動に駆られていた。



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