*Last Love*

7


 香穂子を救いたい。だが、今の自分には救うことが出来ない。
 吉羅はジレンマに苦しみながら、最新の医療技術書を貪り読む。
 だがどこにも、吉羅が求めているような画期的な脳外科手術の方法は、記されてはいなかった。
「吉羅、何、苦しそうな顔をしているんだ」
 金澤に声を掛けられて、吉羅はハッとして顔を上げる。
「…何でもありませんよ…。本当に…」
「そうか…」
 きっと何を考えているのか、金澤は解っているのだろう。敢えて訊かないところも金澤らしくある。
「…吉羅よ…。日野香穂子…何だがな…」
 金澤は声を暗く落とすと、溜め息を吐いた。
「自ら望んでホスピス病棟に移ることになった。後、手術は今後受けないと、一筆を書いた…。頼んでおいてしょうがないがな、お前さんに頼んでいたあの手術は、聞かなかったことにして欲しい。日野香穂子も、頼んだことは取り下げます、と、そう言っていた…」
 吉羅は一瞬、耳を疑う。
 日野香穂子が自分の命を諦めてしまうことだど有り得ない。
「…それだけだ。邪魔をしたな…」
 金澤はそれだけを言うと、吉羅の部屋から離れようとした。
「待って下さい金澤さん。日野君の病室を教えて貰えませんか…?」
「…解った」
 金澤はメモにさらさらと香穂子の病室番号を書いて渡してくれる。
「有り難うございます」
 吉羅はメモを見た後に握り締めると、直ぐに香穂子の新しい病室へと向かった。
 ホスピス病棟の3階の静かな中庭を眺めることが出来る病室が、香穂子の病室だ。
 何度見ても、プレートには香穂子の名前が書かれていた。
 ノックをすると、柔らかな明るい声が響いてくる。
「はい? どなたですか?」
「吉羅だ。中に入れて貰えないかな?」
「はい、中は鍵が開いていますから、どうぞ」
 吉羅がドアを明けて中に入ると、香穂子がベッドの上で静かに腰を下ろしていた。
「こんにちは、吉羅先生」
 香穂子の何処か寂しい笑顔に、吉羅は胸が痛むのを感じる。
 こんなにも切ない痛みに、吉羅は唇を噛んだ。
「…手術を受けないと誓約を書いたと、金澤さんから訊いたが、どういうことかね?」
「…もう、手術のことは忘れて下さい。…私は、ここでヴァイオリンを弾いて静かに過ごすと決めたんです…。だから…、この話題はこれでお終いです」
 香穂子はニッコリと笑うと、話題をバッサリと切ってしまう。
 それが吉羅の癪に障った。
「まだ手術をしてくれる医師は何処かにいる筈だ」
 吉羅がいくら言っても、香穂子は涼しい顔をしたままで何も言わない。
「…今の私は、少しで良いから、吉羅先生のそばにいたい…。それだけで良いから」
 香穂子は、まるで見果てぬ夢のように、外を眺めていた。
「…手術を受ければ、こんなところでいることもない筈だ。だから、手術を受けるんだ」
 吉羅は香穂子の瞳を見つめながら力強く言う。だが香穂子はただにっこりと笑って、頷くことはなかった。
「…私は、こうして先生と過ごせたら良いんです。だから、気にされないで下さい。先生と逢っているから、こうして明るく話せるようになったんです」
「日野君、君は…、どうしてそんなに明るくいられるのかね… 」
「暗くするのも、明るくするのも同じです…。だから、それなら明るいほうが良いと思って」
 香穂子はまるで深い悟りがあるかのように笑うと、逸らす事なく吉羅をただ真っ直ぐに見つめる。
 こんなに真っ直ぐ見つめられると、胸が痛くて泣きそうになる。
「私は最後の時間まで先生を見ていたいんです。最後の瞬間まで。だから。光を失うわけにはいきません。この瞼に、あなたを焼き付けて死ねたら最高だなあ…なんて、先生には至極ご迷惑だろうけれど…」
 香穂子はにっこりと笑いながら、ごく当たり前のことのように呟いた。
 それが信じられない。
 こんなにも明るく素直に言えるなんて。
 吉羅が言葉を返すことが出来ずに、ただ香穂子だけを見つめていると、再び香穂子が口を開く。
「吉羅先生、こうして逢いに来て下さらなくても良いです。ただ、先生を見つめていられたら、私はそれだけで嬉しいんです。それだけなんです」
 香穂子は頷くと、吉羅に微笑み掛ける。
「少し、疲れちゃったので眠りますね。失礼します」
「ああ」
 香穂子はベッドに横たわると、ただ無心に目を閉じる。
 青白い顔色。
 だがこの上なく美しかった。

 吉羅は香穂子の病室から出ると、自分の研究室に戻る。
 本当に、何もしてやれない自分に腹が立ってしょうがない。
 どうして何もしてやれないのだろうか。
 姉を失った時の苦々しい気分が先立ってしまい、吉羅は一歩を踏み出すことが出来なかった。
 だが、救いたい。
 どうしても日野香穂子を。
 出来ないのであれば、せめてずっとそばにいてやりたかった。
 ホスピス病棟に閉じ込めるのではなく、もっとやりたいことをやらせてあげたかった。
 もっとそばにいてやりたかった。
 吉羅は、香穂子への切ない想いに苦しみながら、そっと溜め息を吐いた。

 翌日、ホスピスのサロンに顔を出すと、香穂子がヴァイオリンを奏でていた。
 かつて、吉羅の姉が、この上なく美しく奏でた曲“ジュ・トゥ・ヴ”だった。
 あなたが欲しい。
 おまえが欲しい。
 なんて熱情的な言葉なのだろうかと思う。
 香穂子は本当にとても綺麗だった。
 ヴァイオリンを奏でる姿は、麗しいと言っても良い。
 一枚の絵画にしても表現しきれないであろう美しさに、吉羅はしばし見惚れていた。
 演奏会が終わると、香穂子は吉羅に駆け寄ってきた。
「吉羅先生」
「良い演奏だったよ」
「有り難うございます!」
 本当に屈託ない明るい笑顔に、吉羅自身が癒される。
 命に関わる病気だというのに、あくまで香穂子は明るく笑っている。
 まるで輝かしき未来があるようにしか見えない。
 まさかホスピス患者であることなんて、想像すら出来ない程に、香穂子は明るかった。
 きっと、病院にいなければ、明るい瑞々しい少女にしか見えないだろう。
「有り難うございます。先生に聴いて貰えて、凄く嬉しいです」
「だったら、少し散歩でもしないかね、日野君。君の素晴らしいヴァイオリン演奏のお礼に」
「有り難うございますっ!」
 香穂子が素直に言うと、吉羅は静かに頷く。
 明るい笑顔が何よりも嬉しかった。
 ふたりでホスピス病棟の庭を散策する。
 ホスピス病棟は、病院のなかでも、一番美しい庭を持っている。
 その美しさは、様々な病棟の患者のオアシスになっていた。
 吉羅は香穂子を伴って、ゆっくりと庭を歩く。
 亡くなった姉も、この庭をこよなく愛したことを思い出す。
「ここの庭、本当に大好きなんです。毎日、朝起きたら必ず見るようにしています。吉羅先生のおうちの庭もとても綺麗でしたね。私、あの庭大好きですよ」
 香穂子は燥ぎながら、庭に咲く草花をじっと見つめている。
 この清らかに横顔が、いつか消えてしまうなんて、そんなことは考えられない。
 吉羅は、胸の痛みと込み上げる感情を抑えることが出来なくなっていた。
 この美しい香穂子を、何時までも見ていたい。
 そばに置きたい。
 それには手術しかないのは解ってはいる。
 だが、今、自分にはそんな腕はない。
 ならば少しでも、そばにいてやりたい、そばに置きたいと思わずにはいられない。
 それがお互いに癒しになるというのであれば。
「日野君…、…君…、私のところに来ないか…?」
 何気ない言葉のように言いながら、吉羅は香穂子を見つめていた。



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