*Last Love*


「吉羅先生と私が一緒に…?」
 香穂子は目を見開くと、吉羅をじっと見つめる。
 こんな夢のような提案をしてくれるなんて、思ってもみなかった。
 香穂子はただ吉羅を見つめると、嬉しくて瞳が潤んで熱くなるのを感じる。
 手術をしなければ命の保証はもうない。
 そんな自分に、こうして手を差し延べてくれた吉羅の言葉が、嬉しくてしょうがなかった。
「…先生に迷惑がかからなかったら…一緒にいたいです…」
 香穂子が洟を啜りながら言うと、吉羅は静かに微笑む。
「…迷惑などとは思わない。君も私がそばにいれば、急に気分が悪くなっても大丈夫だろう?」
「…はい…。有り難うございます…。だけど私…、本当に何も出来ないですし…本当に…迷惑しか掛けられません」
「…君は、私のそばにいて、ただヴァイオリンを弾いてくれていたら良いんだ…。私が望んでいるのは…、それだけだ…」
「有り難うございます…」
 香穂子は頭を深々と下げると、また涙ぐんでしまう。
「君のご両親に了解を取らなければならないね」
 吉羅は静かに言うと、香穂子の頬を撫でた。
「…有り難うございます…。私…、最後の日まで、先生のために精一杯ヴァイオリンを弾きますね」
「…最後の時までなんて言うな…。君は生きるために、私のそばに来るんだ。それを肝に銘じておくんだ。死ぬ為に来るんじゃない。生きる為に来るんだよ」
 吉羅の静かだが力のある言葉は、香穂子に生きる力を与えてくれる。
 冷静に考えれば、奇跡が起こる可能性は極めて低い。
 それでも、夢を見たくなる。
 吉羅と一緒だから。
 だから頑張ることが出来る。
「ご両親に話をしたいのだが、家に伺っても構わないかな? 後、金澤さんの許可も取らなければならないからね。君の主治医は金澤さんだから」
「はい」
 まるでプロポーズをして、両親に挨拶をしてくれるかのようだ。
 だが実際は違う。
 吉羅は男としてではなく、ドクターとして言ってくれているのだから。
「では病室に戻ろうか、日野君。金澤さんに先ずは話をつけてくるから」
「はい。有り難うございます…」
 香穂子が素直に頷くと、吉羅はその手を握り締めてくれる。
 そのまま小さな子どものように手を引いてくれた。
「…じゃあ行こうか」
「はい」
 病室まで戻る間、香穂子はこの上なく幸せな気分になる。
 最後の時間にスペシャルを用意してくれて有り難うと、こころの中で呟かずにはいられなかった。

 香穂子を病室で寝かせた後で、吉羅は金澤の部屋に訪ねていった。
「何だ、吉羅よ」
 いつものように飄々としながら、金澤は立ち上がった。
「日野香穂子のことでお話があります」
「日野の?」
 金澤は吉羅のこころの内を見極めるかのように見つめてくる。
「…手術をする気になったか?」
「…いいえ…。まだそれは…。日野君と共同生活をしてみようと思っているんです。そうすれば、彼女もホスピスに閉じ込められるということはないのではないかと、私は思うんです…。もっと明るく、彼女らしく生活が出来るのではないかと…」
「…そうか…」
 金澤は紫煙を宙に吐きながら呟くと、吉羅をゆっくりと見つめる。
「…確かに、ホスピスに閉じこもっているよりは、お前さんのそばで生活する方が良いだろう。日野の躰の調子も良くなっていくだろうな…」
「はい。精神的な負担を軽減出来るのではないかと、私も思っています」
 吉羅が言うと、金澤はフッと落ち着いた笑みを浮かべた。
「…それにお前さん自身のセラピーにもなるだろうからな…。日野香穂子がそばにいればな」
 金澤は頷くと、吉羅を何処かからかうように見つめた。
「…私はただ日野君をこのままにしたくないだけです…」
「…そう考えられるだけでも、お前さんは随分と前向きになったと思うぜ。日野香穂子のお陰だな…」
 金澤の指摘を、吉羅は半ば認めざるをえない。
 その通りなのだからしょうがない。
「…主治医としては…、認めざるをえないというところだな。お前さんがそばにいれば、急な発作の手当ても大丈夫だろう。ただ、お前さんが仕事でいない時はどうするのかっていう問題は、正直、あるからな…」
「…彼女を連れて出勤します。夜勤の時は病室に泊まって貰います。そして…、今より状況が悪くなるようならば…、仕事を休んでそばにいてやりたいと思っています…」
「…随分、情熱的なことだな…。お前さんらしくなく…」
 金澤は煙草を灰皿に押し付けて揉み消すと、再び宙を眺める。
「…なぁ、吉羅よ…。お前さんがそこまで想っているのは凄いことだと思うぜ…。患者を淡々と機械のように診ていたお前には、かなりの変化だ…。だがな、お前が本当の外科医ならば…、日野香穂子を医術で救ってやることこそを考えてやるべきじゃないか? お前が手術をしてやれば、もっと生きられる可能性があるんだからな…」
 金澤はまるで独り言を言うように呟く。
 金澤が言っていることが正論であることぐらいは、吉羅にも充分解っている。
 だが、吉羅にとっては、それは最も高いハードルにしか見えない。
 自分の手で、もう愛するひとを死には追い込みたくはないから。
「…日野君の様子を見ながら、そのあたりは考えていこうと思っています…」
 吉羅は今精一杯答えられる言葉で言うと、金澤を見た。
 嘘偽りない気持ちを宿して。
「…解った…、と、言っておこう。お前さんにはまだ時間が必要なことかもしれんからな…。ただ、お前さんが思っているよりは、日野香穂子には時間がないことを肝に銘じておけ…。俺からはそれしか言えないからな」
「はい」
 吉羅は頷くと、金澤の横顔を見た。
 吉羅の姉と仲が良かった金澤は、どのようにしてかけがえのない友人の死を乗り越えたのだろうか。
 吉羅はそれを想うと胸が痛くなった。
「日野香穂子の両親を説得する時には、言ってくれ。俺も協力するから」
「有り難うございます」
「ああ」
 吉羅は金澤に頭を下げると、部屋から辞した。

 香穂子を見舞いに来ていた両親と、香穂子を交えて、吉羅は話し合いを持った。
 香穂子も既に年頃の女だ。
 男と共に生活をするというのは、恐らく両親には抵抗があるだろう。
 たとえそれが男女の付き合いでなかったとしてもだ。
 だが香穂子の両親は、辛抱強く聴いてくれた。
「…お父さん、お母さん…。…私…、吉羅先生のそばにいたいんだよ…。これは私のわがままなんだよ…。だからお願い、一度で良いからわがままを聴いて下さい…」
 香穂子は頭を下げると、両親を懇願するように見つめる。
 意志はあるが何処か儚げな瞳だった。
 両親は戸惑いを隠すことが出来ないようだったが、お互いに顔を見合わせて頷きあった。
「…吉羅先生、こんな子ですが宜しくお願いします」
 父親はただそれだけを言うと、母親と共に吉羅に深々と頭を垂れた。
「有り難う、お父さんお母さん」
 香穂子は嬉しい余りに泣きそうな顔をしている。
 そして両親もまた涙ぐんでいた。
「…有り難うございます」
 吉羅は丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ宜しくお願いします」
 両親は更に頭を深々と下げて、吉羅に敬意を払ってくれた。
「…発作の感覚が短くなったりすれば、再び入院の可能性はありますが、その時はまたご連絡します」
「はい」
 母親は眩しそうに香穂子を見つめると、その頬に手を伸ばす。
「しっかりね」
「うん。お母さん」
 親子の愛を感じながら、吉羅は香穂子を幸せにしなければならないと感じていた。



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